第22話

文字数 5,000文字

 栄太は霧子の寝所に行った。
 「おばさん。栄太です。襖を外しますね」
 客間との仕切りになっている襖に、栄太は手をかけた。
「僕はこういうことが得意なんだ」と自慢そうに霧子に言う。
「わざわざ言わんだって、見てたら分かる。ええから、さっさとやってな」
 典子にぶつぶつ言われ、栄太は「はい、すみません」と笑った。
 「おばさん。ちょっと騒がしなるけど我慢してな」
 典子は天井だけを見ている霧子の髪をそっと撫でる。
 客間と縁側を仕切る障子も栄太は外した。庭での花火を霧子に見せるためだ。そうしたあと、栄太は霧子の近くに立った。
 「しまった。せっかく家を開け放したのに、庭の様子がよく見えない。おばさん、車椅子に移動しても大丈夫ですか」
 栄太は廊下から車椅子を押してきた。典子と理江さんに体を支えられながらでも、車いすに移る霧子は大儀そうだ。典子は眉を曇らせ「大丈夫やろか」と呟く。
 「とりあえず、花火の準備はしますよ」
 栄太は縁側から庭に降りて「お嬢さんも遠慮なく」と菜美を呼ぶ。
 誘われて菜美も庭に降りた。縁側から少し離れた花壇の前に立つ。夜になってからの花達を見たくなったのだ。太陽のもとで明るく咲く花なら、夜には眠るのだろう。
「菜美さん。よう冷えたミルクコーヒー飲まへん」
 縁側の方を振り返ると、理江さんが立っていた。飲み物を並べた盆を持っている。
 「自分で取って勝手に飲んでね」
 理江さんはその盆を縁側に置いた。
 「僕は無糖の炭酸水だ。典ちゃんはそれのレモン味だからね、間違えてはいけない」
 栄太は早速、ペットボトルのラベルを確かめている。
 「理江はハーブティー。ひんやりして理江、い~気持ちやわ」 
 冷えたハーブティーを頬に当てながら、理江さんはにこにことして話を続ける。
 「花火と飲み物、栄太君は自分ちのコンビニで買うたんよ。飲み物、皆の好みで選んでるし」
 栄太はひやしあめの紙パックを取り上げた。
「僕の母はひやしあめが大好きです。甘く懐かしい味が堪らないと言うのですよ。母が子どもの頃の話ですが、街のお茶屋さんでグリーンティと並べて売っていたそうです」
 典子がはっとした。
「うん、思いだしたわ。おばさんもそんな話してた。ディスペンサーやったんやろね、ひやしあめがそこに入ってたんやて」
 栄太は穏やかに頷いた。
「母も話していました。市場で買い物していて、休憩にお茶屋さんでひやしあめを飲んだとか。祭りにもみかん水などと一緒に、屋台で売られていたそうです。そこで、今夜のおばさんにはひやしあめだと僕は思いましたよ」
 典子はひやしあめの紙パックに専用のストローをさし、霧子にすすめた。
 「無理せんでええよ。おばさんの好きにしてや」と典子にすれば優しい物言いだ。
 ひやしあめに霧子は気が進まないようだ。口を閉じたままで飲もうとしない。典子はひやしあめの紙パックを盆に戻し、栄太に大きな声で文句を言い始めた。
「ご飯の後はやっぱりお茶やんか。何でこんな甘いもん、わざわざ出してくんの。ほんまに栄太君の趣味って、昔から不可解やな」
 栄太が苦笑した。
「お願いしますよ、典ちゃん。難しいことは抜きにして、花火と冷やしあめで夏を楽しみましょうよ」
 「花火にはおばさんの思い出があんねん」
 理江さんが自分の思い出を話し始めた。いつもは過去を話したがらない理江さんだから、皆は少し驚いている。
「子どものときの話やけど、おばさんが花火を買ってくれた。その花火するとき、理江は我が儘言うたよね。典子さんの浴衣がほしいって」
 典子はしんみりとする。
 「うん、あれは夏休みやった。理江さんは街からお母さんと遊びに来てて、うちの浴衣の金魚を好きになったんや。理江さんはその浴衣、うちに黙って街に持って帰ろとしたんやわ」
 「うん。おばさんに見つかって叱られた」と理江さんは今にも泣き出しそうだ。
 「菜美さん。理江はそんなんやったから、典子さんに嫌われたんや。それでも理江に優しいんよ」
 典子は目をうるませた。
 「なあ、菜美さん。理江さんはちょっと我が儘やけど、ほんまに良い子で可愛いんやわ。浴衣の話も今なら笑えるんよ。こんな時代もあったんやって」
 涙ぐむ理江さんに、典子は切ない表情を見せるのだった。
 菜美はそんな典子と理江さんが羨ましい。二人は互いをよく知った上で、遠慮なく甘えたり、甘えられたりしている。姉妹は過去の軋轢を忘れて、仲良く生きているのだ。

 皆が思い出を話している間、栄太は花火が入っている袋を開けていた。袋から出した花火を小分けして地面に並べて置いていく。黙々と花火の準備をする栄太を菜美は見つめていた。今夜の栄太はどうしたのだろう。栄太の顔には菜美の知らない厳しいものがあったのだ。
 ひとの視線を感じたようで、栄太は顔を上げて菜美を見た。
 「そうだ、お嬢さん。勝手口に行って、バケツに水を入れてきてほしい。玄関の横を曲がったら、すぐに勝手口がある。その横に道具いれと水道の蛇口があるよ」
 そう言った後で、栄太はすぐに菜美に謝った。
 「このお願いは撤回だ。この家の勝手を知らないお嬢さんに、僕は用事を頼んでしまった。しかも暗くなっている」
 「あ、私なら大丈夫。バケツなら普通に持てるし」
 菜美はその気になっていたが、栄太は「転んだら大変だよ」と、さっさと勝手口へ行ってしまった。
 残された菜美は手持ち無沙汰に庭に立っている。することがなくて菜美はその場をうろうろし始めた。何気なく地面を見て、菜美は「きゃっ」と叫んで後ずさりする。見たことのない虫が菜美の足もとを這っていた。菜美は虫が苦手なのだ。
 「お嬢さん。そこには段差がある。危ないぞ」
 戻ってきた栄太が懐中電灯で菜美の足もとを照らした。理江さんも急いで庭へ降りてくる。
 「菜美さん。転けたら危ないわ。こっち来て」
 「私、虫が怖いんよ」
 理江さんは菜美の腕を引っ張り、自分の横に立たせた。こうしてぴったり寄り添うと、理江さんの汗の匂いと体温がしてきた。それは不快なものではなく、子どもの頃にじゃれて遊んだ友達と同じ匂いだった。
 菜美は不思議な気分だ。理江さんとは遠山町立遠山小学校で一緒に学んだような気がする。校庭で一緒に遊んだのは、華奢で切れ長の目をした少女だったかもしれない。
 「さて、お嬢さんも落ち着いたようだ。花火を始めよう」
 栄太は線香花火を菜美に差し出した。
「線香花火だ。この花火は人生に例えられるそうだ。僕も最近になって知ったのだが」
 人生と線香花火が結び付いた理由が、菜美にはよく分からない。
 「その話、後でゆっくり教えて」
 「そうだな」と栄太は物思う眼差しになった。
 菜美が持つ線香花火に栄太がライターで火をつける。線香花火はバチバチと音を立てて明るく華やかに燃えはじめた。花火の美しさに見入った菜美だったが、その勢いが少し怖くもあった。理江さんが菜美の傍らで「わっ、凄いんや」と叫んでいる。
 はしゃぐ理江さんに典子は手を叩いて笑った。
「危ないで、理江さん。花火、振り回さんといてや」
 しかし、菜美の手にある花火の勢いは段々と弱まっていくのだった。
 栄太は黙って、地面に落ちた線香花火を見つめていた。

 霧子はすぐに疲れてしまい、花火の途中で部屋に戻ることになった。
 皆は慌てて布団を直したり、冷房の加減をしたりしている。栄太が霧子を布団に寝かせ、典子がそっと夏蒲団を掛ける。枕を直しながら典子が謝った。
「ごめんな。花火見てほしかってんけど、おばさんはかえって疲れてんね」
 典子は「ごめんな」とまだ謝りながら霧子に自分の顔を寄せる。
「おばさんに無理を言ったのは僕だよ。典ちゃんは悩まないでほしい」
 栄太は典子に頼んだ。
「とにかく、栄太君。皆にもっと花火を楽しんで貰うて。うちはおばさんの傍に居てるけど」
 典子は震える声で言った。栄太は手をあげて合図し、皆を霧子の部屋から出した。
「襖だけ直しておくよ」
 栄太は霧子の寝所に客間との境になっている襖を入れた。
 庭で理江さんが菜美に聞いてきた。
「典子さんはおばさんと二人でいたいみたいやね」
「おばさんがもう寝たいからやない。それと、花火が途中やんか。典子さんは集まった皆に気を遣うてくれたんやわ」
 菜美はそれ以外に言葉が浮かんでこなかった。霧子と二人だけでいたいという、典子の気持ちが分かるような気がするのだ。多分、好きな花火を見る力も失った霧子の横で、典子は声を殺して泣いている。
 「そろそろ帰りますわ。こんな時間まで居て、えらいご馳走になって」
 栄太の従姉が皆に挨拶している。その姿を見ながら栄太が菜美に告げた。
 「お嬢さん。祭りは終わった」

 「お嬢さんは蚊取り線香の横に座ったほうがよいな。蚊が飛んでいるよ」
 菜美は花火に使ったバケツを持ち上げた。
 「ううん。もう蚊に慣れたし」
 「どちらにしてもバケツが重いんだ。花火の始末は僕がする」
 菜美の手から無理にバケツを受け取り、栄太は家の勝手口へと歩いていく。
 「待って。おじさん、待って」
 菜美は小走りになって栄太に追い付いた。置いていかれて寂しい。
 「なんで私を置いていくのん」
 文句を言う菜美を栄太は見つめた。
 「これは未来に向けて、僕が無意識に実践している練習かもしれない」
 菜美はぽかんとした。栄太が話していることの意味がさっぱり分からない。
「今の話、いつもに増して分からんわ」
 栄太は勝手口のドアの横にバケツを置いた。土と雑草の上に置かれて、バケツは少し斜めの姿勢で立っている。ドアの上に取り付けた蛍光灯に小さな虫が群がっていた。ここにある灯りはこの白い電球からのものだけだ。その明るさを求めている虫達を、栄太は何かを考えながら眺めている。菜美が見たことのない、険しい表情をした栄太だった。
 「何を考えてんの」
 菜美は栄太に聞いてみた。
 栄太はため息交じりに答えた。
 「もし僕が二人いたら、そのうちのひとつをお嬢さんに差し上げたい」
 菜美のため息は栄太のそれ以上に重い。
「ほんま、わけの分からんことばっかり。おじさんの話は私の理解をとび超えて、どっか遠くまで行ってしまうんよ」
 栄太は力なく呟いた。
「そうだ。僕の考えには一貫性がない。だから、心はすぐにふらふらと彷徨うのさ」
 菜美は心配になった。栄太の様子がいつもと少し違っている。いつもの陽気さが全くない。
 「おじさん。悩みは溜め込んだらあかんよ。何やったら私に話してみいへん」
 菜美は真心をこめて栄太の手を取った。
 「私は十六歳も年下やから、おじさんの悩みを聞いても分からんやろな。うん、私と話したって、おじさんはもの足りへん。けど、いろんな意見が聞けて、それはそれで良いかもよ」
 「違う。そうじゃない」
 切羽詰まった顔を菜美に向ける。
 「僕の悩みのもとになっているのは、実はお嬢さんだ。それなのに、お嬢さんに僕の迷いを聞いてもらうというのか」
 菜美は息を呑んだ。栄太の憂鬱の原因が自分だとは思っていなかった。小さな声で「そうやったんや」と言ったきり、菜美はうつむいてしまった。
 「この春から僕の悩みが始まった。自分の未来を考えるたびに、お嬢さんに申し訳なくてね、本当に心が苦しくなったよ」
 栄太は腕を組んで考えながら話をしている。やはり、厳しい眼差しだ。菜美は別れを予感した。
 「これは別れ話なんやね」
 「そうだ。僕はおそらく、お嬢さんとは別れるのだろう」
 「けど、変やわ。別れるとか言うてんのに、何で私の手をぎゅっと握りしめてんの」
 栄太は悲しそうに答えた。
 「僕はお嬢さんが好きなんです。この小さな手を握れるのも今が最後だと思うと、ついつい力が入ってしまいます」
 菜美は腹が立ってきた。
「おじさん、ふざけすぎやわ」と言葉もきつくなる。
「ふざけてはいない。別れることもひとつの選択肢だと考えたんだ。そして、僕にとっては最高の解決法だと思うのだよ。ただ、お嬢さんがどう思うかは自信がない」
 「私ね、わけの分からん話を聞くために大阪から来たんやないの。そんな話に往復一万円も交通費は払えんな。会社も休んできたんよ。おかげで課長に嫌味なんか言われたわ」
 「お嬢さんは本気で怒ったようだ」
 他人事みたいな栄太の呟きだった。
 「もう、知らん」
 菜美は半泣きになって勝手口の前にへたりこんだ。
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