第28話

文字数 2,423文字

 遠山町に着いたのは午後三時を過ぎた頃だった。
  荷物を置くために、まず『遠山ホテル』に行くことにした。駅から徒歩五分という案内だったが、こうして歩いてみると十五分はかかるように思えてならない。荷物が重くて腕が痛む。そのうえ、八月になったばかりで気温も高く、菜美は額や首筋に伝わり落ちる汗をぬぐい続けた。

「ネットで予約した浜野菜美です」
 フロントでそう告げると、年配の女性従業員が微笑んだ。
「林栄太様より伝言をお預かりしております。林栄太様がフロント正面のロビーでお待ちでございます」
「えっ。私をですか」
 菜美は驚いて聞き返した。
「はい。林栄太様とおっしゃる方です」
 嬉しいような、困ったような、そんな気分になってしまった。
 栄太とは顔を合わせたくなかった。気まずく別れてから、まだ十日しか過ぎていない。栄太は菜美のブログにコメントはしてくるが、メッセージは一度も送ってこなかった。そのコメントにしても、典子や理江さんの手前を考えてこまめに入れているだけなのだ。菜美もそのことは良く承知していた。今まで通りに恋人として二人は振舞っている。
 遠山町行きの電車に乗っているとき、栄太に宿泊先を聞かれた。隠す必要もないと考えて、正直に『遠山ホテル』だと菜美は伝えている。しかし、栄太が『遠山ホテル』で自分を待っているとは思っていなかった。
 とりあえず、栄太が待つロビーに行ってみようと考える。

 栄太はロビーのソファに座っていた。
 いつもの明るい表情はなく、何やら思案顔でいる。
「林さん。お待たせしました」
 栄太は振り返って菜美を見た。
 苦笑しながら立ち上がる。
「林さんって僕を呼ぶんだね。すっかり他人の扱いだな」
 菜美はうつむいた。もう栄太を『おじさん』と呼ぶ気にはなれないのだ。
 そんな菜美に栄太は急いで笑顔を作ってみせた。
「まあ、他人には間違いない。お嬢さんと僕の顔はまるで似ていない。僕らが親戚だったら、顔も似ているだろうからね」
 菜美は笑いを堪えた。
「僕は母親似なのだ」
 栄太はひとりでうんうんと頷いている。
「お嬢さんは色白のぽっちゃり、僕は黒くて痩せた顔をしている」
 菜美は話を変えた。栄太とは、必要なこと以外は話さないでおこうと固く決めている。
「私を待ってたって、フロントで聞いたけど」
「お通夜をする場所は遠山町から少し行ったお寺だ。お嬢さんはそのあたりの地理を知らないと思った。僕が前もってメールしたら、きっとお嬢さんは迎えを断るだろうと思ったのさ」
 栄太は親切な気持ちで菜美をホテルまで迎えにきたようだ。そう思う自分が悔しいけど、菜美はやはり嬉しい。素直に礼を言った。
「有難う。おじさんは別れてからも私に親切なんやね」
 栄太は寂しそうに菜美を見つめた。
「僕がお嬢さんに無視や意地悪をするわけがない。というよりも、僕は誰にでも優しい人でありたいよ」
 菜美は自分の失言に気が付いた。
「ごめんね。私は余計なこと、言うたんやね」
「仕方ない。僕がお嬢さんを傷つけたからだ」
 菜美は返事に困った。
 口を利きたくないほどに腹は立っているが、心の中では栄太に少しだけ愛情が残っていた。
「ま、部屋に荷物を置いてくるわ」
 そう言うと、菜美はエレベーターホールへ急いだ。
「手伝おうか」と栄太が後ろから声をかける。
 菜美は聞こえないふりをした。突然に現れた栄太に菜美はまだ戸惑っている。

「待たせてすみません」
 部屋からロビーに戻った菜美は栄太に詫びを言った。
「良いんだ。まだ時間がある」
 栄太は時計を見た。
「もう少し、ここに居よう」
 ソファに腰かけながら栄太が微笑んだ。
「実はね、お嬢さんが来てくれる話をしたら、理江さんが僕に頼んだのさ。駅まで迎えに行ってあげてって」
 菜美は立ったままで返事した。
「そうなんや」
「とりあえず、座って下さい。少し話をしたい」
 仕方なく菜美は栄太の近くのあるソファに腰かけた。
「僕たちはまだ恋人の振りをしている。理江さんに言われてすぐに村を出たよ。理江さんに言われなくても、大阪から来てくれたお嬢さんを迎えに行くのは当然だな。ここまでは遠くて疲れるからね。とにかく、ここはバスがほとんど走っていなくて不便なのだ。会場のお寺もお嬢さんは知らない」
「迎えに来てくれたんは嬉しいけど、私はタクシーに乗るつもりやった」
 菜美は思い切って言った。
「第一、林さんはメールにはっきり書いてたやんか」
 栄太は首を傾げた。
「僕はメールに何を書いていましたか」
「もう、忘れてんやね。それって、今朝のメールやよ」と菜美は呆れている。
「私を迎えに行けない。典ちゃんの傍にいたいって」
 栄太は笑い出した。
「そうでした。そんなことをメールに書いて送りましたね。僕、あのときはそう思っていたのですよ」
「よう知らんけど」
 当惑している菜美に栄太は説明する。
「簡単に言うと、典ちゃんの心が乱れているからです。ある面では実の母親以上の存在でもあったおばさんが亡くなった。そこに、典ちゃんと理江さんの父親であるひとが、知らせを聞いて村に帰ってくることになったのだよ。そのひとはおばさんのお兄さんだからね。ただ、皆の仲が良ければ僕も心配などしない。しかし、典ちゃんは実の父親を心底恨んでいる」
 菜美は頷いた。典子は父親への恨みを強く持っている。
「典ちゃんは父親が来ると聞いて泣いて怒ったよ」
「私、典子さんの気持ちが分かるような気がする。いろいろあったから、典子さんは悲しくて悔しいんやと思う」
「だから、僕は典ちゃんが気になるんだ」
 栄太は何もないテーブルの上を見つめて言うのだった。
「心が弱っている典ちゃんの傍にいたいんだ。僕らは幼馴染であり、無二の親友なのだよ」
 菜美は黙った。
 典子を気遣うその言葉を聞いた瞬間、菜美の心は重苦しいものとなった。栄太との恋は終わったと菜美は考えている。栄太との復活はあり得ない話だった。それなのに、典子を大切にする栄太が腹立たしい。



 
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