第24話

文字数 1,492文字

 栄太は乳白色の紅茶茶碗を食器棚から出した。
「お嬢さん。温かい牛乳ですか、檸檬ですか」
「私、檸檬にしてほしい」
 栄太は「はい。分かりました」と微笑んだ。冷蔵庫から檸檬をひとつ出してきて薄くスライスする。慣れた手付きだ。
「檸檬切るのん、上手やね」
「こういうことは得意ですからね」
 栄太は残った檸檬をラップでくるんでいる。
「学生時代は喫茶店でアルバイトしていました。パフェも得意です」
 栄太は紅茶をのせたトレイを片手で持った。菜美の前でポーズをとり「お嬢さま。紅茶をどうぞ」と気取ってみせる。
「ありがとね」
 菜美はスプーンに山盛りの砂糖を二杯、熱い紅茶に入れた。銀色のティースプーンでゆっくり混ぜる。
「紅茶には檸檬が好きなんよ」
 砂糖が溶けた頃に檸檬を浮かべ、香りを楽しむ。黄色だった檸檬が茶色になれば、紅茶茶碗から引き上げ、よく噛んで食べてしまう。紅茶が沁みた檸檬は甘酸っぱくて美味しい。これが菜美の紅茶の楽しみ方だった。
 ストレートの紅茶を手に持って、栄太が不思議そうに菜美に聞く。
「そんなに砂糖をいれたら甘くないですか」
「甘いのが好きやねん」
 菜美はにっこりした。
「笑顔を見せてくれて有り難う」
 栄太が礼を言う。
「じゃ、僕も頂きますよ」
 栄太はレーズンが入ったクッキーを選んだ。
 菜美はチョコチップクッキーをひとつ取った。
 食べているクッキーの甘さだけが、この場では現実だと思う。映画を撮影するときはこのような感じかなと、さっきから菜美は考えていた。用意されたセットのなかで、菜美は優しい恋人とお茶を飲む役を演じている。恋人役がつまらないアドリブで笑わせてくるが、それに自分も合わせていき、この恋愛映画を完成させねばならない。

「さあ、お開きにしよう」
 栄太は時計をみた。
「もう深夜だ。お嬢さんはお風呂も入っていない」
「十時過ぎてたんやね」
 菜美は紅茶茶碗やケーキ皿を持って流し台の前へ行った。いかにも典子らしい、飾り気はないが清潔な流し台だった。ステンレスのシンクはピカピカに光っていて、窓の向こうに虫除けの薬が幾つも見えている。
「手伝おう」
 栄太が菜美の横に立った。
「ええんよ。私ひとりでクッキー食べたし」
「大阪は遠い。お嬢さんはお疲れだよ」
「うん、ここまでは遠かった」
 菜美は思うのだった。栄太と別れたら、大阪から遠いこの町に来ることはなくなるだろう。そうは言っても、典子や理江さんとはずっと仲良くしていたい。霧子の病状も心配だった。
「ね、おじさん」
 菜美はテーブルを拭いている栄太に話しかけた。
「おじさんさえ良かったら、別れる理由をしっかり聞かせてほしい。話し合って円満に別れたら、私はまた遠山町に遊びに来れるやん。典子さん達とはずっと仲良くしていたいし、ブログで『遠山食堂』の紹介も続けたいねん」
 栄太は大声で笑いだした。
「良かった。さっき、お嬢さんは本気で僕に怒っていたからね。話し合いは諦めていたんだ」
 栄太は天井を示した。
「二階で話そう。誰かに聞かれるかもしれないからね。ひょっとしたら、ひとに聞かれて困る話になるよ。二階なら大丈夫だ」
「二階って、おじさんの部屋なん」
「今は僕の部屋です。しかし、将来的にはどうだろうか」
 栄太の顔が曇った。
「とりあえず、二階へ行きましょう。夜空を眺めて話したら、僕の想いを分かって貰えるだろう」
「分かった」
 菜美は小さく頷いた。「おじさんらしいね」と心の中で栄太に言う。夜空を見上げて別れ話をするなんてこと、菜美には理解できない。恋愛映画の撮影はまだ続くのだと思った。
「では、二階へ行きますよ」
 栄太は炊事場のクーラーの電源を切った。


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