第20話

文字数 3,383文字

 「ごめん。もう元気になったわ。今朝のおばさん、ちょっと力なかったから、うちは悲してね」
 典子は菜美の肩に手を置いた。
 「ちょっと用事するわ。そのあと、店に行ってくる。夜は六時からの営業になってんねん」
 最近の遠山食堂は、昼の三時から六時までを『準備中』にしている。その間に典子は栄太の家に戻り、霧子と二人で過ごしている。時には、霧子の横で自分もうつらうつらとするのだった。
 「残ったスイカ、食べといて。お盆は炊事場に戻してな」
 典子は炊事場に行き、菜美は広い縁側にひとりになった。足をくずした菜美はスイカにかぶりつく。甘さと水気が十分にあって美味しい。あまりに冷えると、スイカの甘さは感じにくいものだ。食べ終えて、典子が用意してくれていたタオルで手を拭く。
 「完食。ご馳走さまでした」と菜美は空いた皿に心から礼を言った。
 「それにしても、夏やなあ」
 夕方とは思えないほどに明るい空を、菜美は見上げた。菜美の悩みを小さなものだと、空の広さと青さが教えてくれる。
 会社を三日も休んで遠山町に来ていた。少し休みすぎかと不安になり、課長に大袈裟な言い訳をしている。
 『親戚の法事なんです。京都から特急に乗って四時間、その後はバスに乗りかえです。行って帰るだけで二泊は必要なんです。すみません、少なくても三日間は休ませてください』
 課長はにこりともしないで菜美に答えた。
 『浜野君、嘘ついとんな。ほんまは大好きな彼氏と旅行なんやろ』
 『いえ、違います。彼氏なんて私にはいませんし』
 課長はむっつり黙りこんだ。
 課長の怒りは当然のことかと菜美は思った。この一年半に、遠山町へ行くために、数日間の休暇を何度か取っている。彼氏と旅行かと、課長に疑われても仕方がない。社会人になった今は、自由に遊べた学生時代とは何かと違っていた。
 菜美は一礼してから自分の持ち場に戻った。しかし、そのときの課長の顔と物言いを思い出す度に、菜美は会社勤めに嫌気がさすのだった。
 気分転換に庭に出ることにした。スイカを食べる前に見ていた黄色い花。それは南瓜だと菜美は思っている。確かめに行こう。
 庭にでる前に、スイカの盆を返しに炊事場へ行くことにした。空いた器を載せた盆を持って、庭からではなく、座敷からじかに炊事場へ行く。栄太の家はあまりに広い。炊事場がどこにあるのか、菜美はすぐに分からなかった。玄関から真っ直ぐに行ってみる。やはり、そのさきに炊事場や風呂場があった。ここはコンクリートの土間になっていて、サンダルが並べてある。
 炊事場には典子がいた。冷蔵庫を大きく開けて、その中で忙しく手を動かしている。
「菜美さん。ここに晩ごはんのおかず入れたからな。良かったら食べてや。理江さんも何か作ってくれるし」
 典子は楽しそうに笑った。
 「今夜は七時半に店閉めるわ。菜美さんとは久しぶりやもんな。また、皆で賑やかにご飯食べよ」

「たっだいまっ」 
 玄関の格子戸が開いて、蝉の声を消してしまうほどに元気な声が聞こえてきた。客間で荷物をほどいていた菜美は思わず立ち上がる。帰ってきたのは、憧れの存在から、今は大切な友人となった理江さんだった。菜美は玄関へと急ぐ。
「菜美さん、どこにいてやんの」
 理江さんは不安そうな顔をして、衝立の横に立っていた。ほっそりとした体に濃紺のシャツブラウスが似合っている。土間に水色のサンダルがお行儀よく揃えてあった。理江さんの小さな足によく似合う華奢なつくりだ。
 「わっ、ひっさしぶりい~」
 菜美を見たとたん、理江さんは両手を広げて嬉しそうに叫んだ。
 「菜美さんに話したいこと、理江にはいっぱいやねん。けど、先におばさんに挨拶してくるわ。待っててな」
 理江さんは奥の座敷へ行った。理江さんはそっと襖を開けて「ただいま、おばさん。理江やよ」と明るい声で話しかける。霧子の傍らに座り、そのやつれた顔を黙って見つめる理江さん。
 菜美は少し離れた場所で理江さんを待つことにした。
 すぐ横に古めかしい衣紋掛けが置かれている。それはしっかりした木製だが、ところどころに傷が入っていた。年季ものだと菜美は思う。誰のものなのか、白地に朝顔の赤い花が咲いている浴衣がかけてあった。新しい浴衣ではないようだ。絞りの赤い帯もかなり昔のものだろう。その浴衣に顔を寄せれば、遠い昔にどこかで嗅いだ匂いがした。少女時代の霧子が着ていたものかもしれない。
 「菜美さん、ごめんな」
 理江さんが戻ってきた。
 「暑うてあかんねえ。お茶が飲みたなったわ」
 いつも通りの話し方だが、暗い眼差しの理江さんだった。
 炊事場の土間に立ったまま、菜美と理江さんは冷えた麦茶を飲んだ。開け放した窓から蝉の声が聞こえてくる。アブラセミかなと菜美は思った。
 「栄太君もすぐに帰ってくるし。ちょっとコンビニに用事があるんやて」
 「そうやったんや」
 意識せずに、菜美は晴れやかな笑みを浮かべた。
 「て、言うてたら」と理江さんが笑い出す。
 玄関の戸が開く音がした。
「栄太君、もう帰ってきたみたいやね」
 大きな声で栄太が帰宅の挨拶をした。
 「ただいま。僕も帰ってきましたよ」
 「はあい。今からそっち行くでえ」
 理江さんも大きな声で返事をする。
 栄太との再会に、菜美の心は躍っていた。最後に遠山町には来たのは二月の終わりで、それから約五ヶ月も過ぎている。菜美はこの日をずっと待っていたのだ。
 玄関へ行くと、栄太は持って帰った荷物を上がり框に並べている最中だった。典子が言った通りで、栄太はずいぶんと日焼けしている。着ているTシャツのオレンジ色が鮮やかだ。
 「栄太君。早かってんね」と理江さん。
 栄太は顔を上げ、理江さんの後ろにいる菜美を見つけた。
 栄太の顔に嬉しさが溢れだす。
 「やあ、お嬢さんだ」
 浅黒い顔をほころばせ、栄太は菜美に手を真っすぐに差し出す。少しためらったが、菜美は栄太の手を取った。力を入れて握手しながら栄太が言う。
「また会えたね。僕は今、とても幸せです」
 菜美は耳まで真っ赤になった。
 「おじさん、元気そうやね」
 そう答えるのが菜美には精一杯だった。栄太の前ではにかむ自分に菜美は驚いている。こんなに恥ずかしがり屋ではなかったはずだ。
 そんな菜美を見て栄太は微笑んだ。
 「お嬢さんらしくないぞ。今日は妙に大人しいな」
 理江さんが思いきり大きな声で笑いだした。
 「栄太君って、女の子の気持ちが分からんのやね」と笑いが止まらない。
 栄太は眉をしかめた。
 「びっくりしましたよ、理江さん。その笑い方、けたたましいです」
 「そうやんか」と理江さんの笑いは止まらない。
 「そんなん言うたら、菜美さんが可哀想やわ」
 栄太は玄関の天井を眺めて懸命に考えた。
 「そうか、分かったぞ」
 少し間をおいてから栄太はにっこりした。
 「お嬢さんは本当に僕が好きなんだ。僕を見て照れていますね」
 しかし、菜美はいつもの自分に戻っていた。ぽんぽんと遠慮のない話し方を始める。
 「私は照れてへんよ。私の立ってる場所、入り口の真ん前やからね、お日さんが眩して困ってただけ。夏って、凄いねえ。夕方になっても、家ん中まで明るいんやわ」
 菜美は余裕たっぷりに笑ってみせた。
 「いやはや、このお嬢さんはどうしても恋を語れないひとなのだ。この言い訳は酷すぎる」
 栄太は残念そうに上がり框に座りこんだ。そして、気がつく。
 「おや、持って帰った荷物がないぞ。典ちゃんはもう店に行ったから、理江さんが奥に運んでくれたのかな」
 菜美も驚いた。
 「おじさん。荷物だけやない。理江さんもいてないわ」
 「これは奇妙だ。理江さんはどこにいるのだろう」
 「おじさんがぶつぶつ言うてる間に、理江さんは消えてしもたわ」
 菜美は戸惑っているが、栄太は顔を輝かせた。
 「これはしたり。理江さんにお礼を言わなきゃ」
 菜美に優しく話しかける。
 「お嬢さん。僕はおばさんに会ってきます。少しだから、ここで待っていてください」
 不思議そうにしている菜美に、栄太は可笑しさを堪えた。
 「理江さんは僕らに気を利かせてくれたんだよ」
 菜美はやっと気がついた。理江さんは自分と栄太を二人きりにしてくれたのだ。
 「そんなわけで、僕らは散歩に行くことになりました」
 栄太は菜美を誘った。
 「夏の遊歩道もきれいだよ」
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