第27話

文字数 2,348文字

 菜美は茫然としている。
 ついさっき、栄太から電話があった。霧子が亡くなったという知らせだった。
 携帯電話を持ったまま呟く。
「信じられへん」
 七月に遠山町へ行って、霧子を見舞っている。それから、わずか十日しか経っていなかった。
 霧子の病状が良くないのは分かっていたが、もう少し生きてくれると菜美は思っていたのだ。栄太に霧子が亡くなったと聞かされたとき、菜美は言葉が出てこなかった。
 遠山町に行こうと考えた。『遠山食堂』の人々は菜美には家族も同然の存在なのだ。何も出来ない自分だが、霧子の死を悼む気持ちだけでも典子達に伝えたい。
 菜美は栄太にメールをした。
 『今からそちらに行きたいと思っています。でも、何も出来ない私が行ったら、かえって迷惑かと思います。私が行っても大丈夫ですか。お通夜とお葬式に参列したいのです』
 栄太からすぐに返信があった。
 『ありがとう。典ちゃんに伝えておく。二日間になるから、僕の家に泊まれば良いと思いますよ。町からのバスの本数は少ないうえに、雨でも降ったら大変ですからね。荷物もあります。僕が町のホテルまでお嬢さんを送り迎えすればよいのだが、今は典ちゃんの傍を離れたくないのです』
 菜美は困ってしまった。
 栄太の家に泊まる気は全くない。すでに栄太は他人だった。かと言って、栄太が言うように、バスの本数が少なくて菜美の荷物は多くあるのだ。駅前と遠山町を往復することはかなり困難だった。
 いろいろ考えた末に菜美は決めた。栄太と顔を合わせたくない。
「ホテルとタクシー代、何とかするわ」

 急いで荷造りを始めた。
 大きめのバッグに2日分の荷物を詰めこむ。足りないものがあれば、遠山市駅に着いてから買えば良いのだ。とにかく、今は少しでも早い電車に乗りたかった。
「あ、そうや」
 やっと気がついた。
 会社を電話をして、休暇を貰わねばならなかった。3日間は休みたい。
「もしもし。浜野です」
 課長が電話に出た。
「なんの用や。就業前なんかに電話してきて」
 菜美は少し嘘をついた。
「急にすみません。叔母が亡くなりました。明日がお通夜で、お葬式は明後日です。両方とも出ますから、すみません、三日間の休暇を貰えますか。叔母の家は遠方なんです」
「可哀想になあ。叔母さんは元気やのに、デートしたい浜野君の言い訳で急に亡くなってしもうたな」
 課長はせせら笑った。
「彼氏が急に誘ってきたんやろ。浜野君はもう少し真面目かと思てたわ」
 菜美は思わず言ってしまった。
「課長には分からないことです。電話で悪いけど、私、もうこれで退職します」
 さすがに課長は慌てた。
「退職日とかは話し合いしてから辞めるべきや。会社の都合も考えんと、一方的に辞めるんは人間としても恥ずかしいぞ」
 課長の言い分が正しいと思った。しかし、意地でも課長に謝らないでおこうと考えた。
「分かりました。大阪に帰って来たら、部長にも同席してもらって話し合いたいと思います。私も課長には言いたいことがいっぱいなんです」
 課長は怯んだが、すぐに怖い声を出した。
「とうとう開きなおったんや。君は怖いな」
 受話器を持って怒鳴る課長の凄まじい形相が見えるようだ。
「とにかく、私の大切な家族が亡くなったのです。今から京都まで、お通夜とお葬式に行ってきます。退職の件は、大阪に帰ってからにして下さい」
「いつも良識に欠けとんな、浜野君は。そんな態度はどこの職場でも通用せんぞ」
 そう言い放つと、課長は電話を切ってしまった。
 菜美は泣きそうになっている。このような会話をしたことはとても悲しい。課長への不満は溜まっていたが、少し言いすぎたと後悔もしていた。最近の自分は苛々していると分かっていたから、課長に八つ当たりしたようで、そのような自己嫌悪もあった。
「感情的になったらあかんのよ。それは分かってるんやけどね」
 着替えのTシャツを用意しながら菜美はつくづく思うのだった。
「今までに何回も、三日間ぐらいまとめて休んだからやろね。だから、言われたんや。日頃は休まへんし、遅刻とか早退はないんやけど。ああ、憂鬱やわ。どうしょう」
 答えは簡単だった。
「もう、会社辞めるんやから、考えんのも止める。考えてたら、しんどいもん」
 菜美は重いバッグを持ち、玄関を出た。

 駅前の商店街で急に呼び止められた。
「おはよう。こんな朝からどこ行くのん。荷物、重たそうやん」
 菜美は戸惑った。親しげに話しかけてきたのは、全く知らない女だった。
 愛想笑いを浮かべて、適当に答える。
「はい。友達のお家へ遊びに行きます」
「ええね。おばちゃんはな、友達も恋人もいてないわ。毎朝、そこの喫茶店でコーヒー飲むんが楽しみやねん」
 近くの喫茶店を指さす女に菜美は微笑みかけた。
「じゃ、電車に乗ります。急ぐんで」
「楽しんどいで。若いときは遊ばないあかんで」
「はい。有り難うございます」
 菜美はそのひとに一礼してから駅へと向かった。
 苦笑する。
 遠山町へ遊びに行くのなら、どんなにか嬉しいだろう。今は、霧子に最後のお別れをするため、重い荷物をさげて駅へと歩いているのだ。さっきの女の言葉に罪はないが、菜美の心は沈んでいくばかりだった。
 また、遠山町は別れた恋人が暮らすところでもあった。これも菜美には気が重いことだった。出来れば栄太には会いたくない。気まずく別れてから十日しか過ぎていなかった。
「まあ、普通にしといたら大丈夫やろ。おじさん、ううん、あのひとも分かってるはず」
 霧子のためだ。栄太との気まずさは仕方ないと割りきろう。
 駅に着いた菜美は栄太にメールを送った。
 『ホテルを探します。遠山市駅に近くになかったら、綾部などでも探してみます。有難うございます』
「これでええねん」
 菜美は早朝の空を見上げた。




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