第43話

文字数 3,867文字

 『遠山商店』がオープンする日の朝。


「いよいよですね。三十分後に迫りましたよ」
 さすがに栄太も緊張を隠せないようだ。菜美と理江さんに話しかける声が震えている。
「昨日の朝と夕方に、僕は遠山市駅の前でオープン告知のチラシを配りました。でもね、正直なところ、僕は自信がありません。遠山市駅からかなり離れたこの店に、ひとは来てくれるだろうか」
 その言葉に菜美は困惑してしまった。結びかけのエプロンの紐が手から落ちていく。
「おじさんがそんなん言うたら、私もよけいに不安になってしまうわ。私、もうカチコチ」
 栄太は「うーん」と首をひねった。
「まあ、今はもう十二月ですからね。お嬢さんでなくても、寒さで体もカチコチにはなりますよ」
「おじさんって、こんな時でも冗談が出るんやね」
 菜美は何とも言えない表情になっている。
「けど、菜美さん」
 理江さんが透き通った声で言うのだ。
「それでこそ栄太君なんやと理江は思うわ。栄太君がふざけんで静かにしてたら、理江は心配になるやろな」
 栄太も大真面目に言うのだ。
「そうですよ。僕は無意識のうちにふざけてしまうのです。だから、典ちゃんに叱られるのだ」
「典子さん、たまにやけど、真剣に怒ってるもんね」と理江さんが笑った。
「さてと、理江もお仕事始めよっと。せっかくのドレスが汚れるもんね」
 レースで胸元を飾ったベージュ色のエプロンを、理江さんは優しい手で広げた。
 菜美は理江さんの美しさに見惚れている。
 赤みが強いワインカラーのシンプルなワンピースを着て、長い髪を紺色のベロアのリボンで飾った理江さんだった。開店前ということで『遠山商店』のホールはほとんど照明をつけていない。その薄暗いなかにいて、理江さんは眩しいほどに美しくあでやかに輝いていた。

 理江さんは少し得意そうに話すのだ。
「今日のこと、理江はブログに予告してんねん。遠山町の『遠山商店』のオープンに駆けつけるって。PV数はいつも通りやったし、自分もお弁当を買いに行くってコメントもたくさん入ってたわ」
 栄太は嬉しそうだ。
「理江さんのファンも来てくれるとは、実に有り難い話だよ」
「うん。理江もわくわくしてるんよ。緊張もすごいけど」
「誰でも緊張するよ。今日は『遠山商店』のオープンなのだから。今日のために、僕らは何カ月も前から協議を重ね、あちこちで走り回ってきたのだ」
 理江さんは厨房で立ち働いている典子を見つめた。
「うん。典子さんも緊張してたわ。夜中に何度も起きて御手洗い行ったり、窓から外見たりしてた」
 栄太はしみじみと言うのだった。
「典ちゃんは『遠山商店』の主人なのだし、調理を一手に引き受けているからね。プレッシャーも大きいと思うよ。僕は典ちゃんのために一生懸命に働くつもりでいる」
 そう話す栄太の真剣な眼差しを菜美は黙って見つめていた。

『遠山商店』のシャッターが開いた。
 山野がやってきたのだ。
「すまない。ずいぶんと遅くなった」 
 理江さんが嬉しそうに叫んだ。
「お父さん。おっはよー」
「可愛いが困った子だな、理江は。ここでは、私を『お父さん』と呼ばないほうが良いのだが」
 山野は上機嫌で話し始めた。
「私の娘だという理江の身上は、客に隠しておこうね。理江自身にもそうなのだが、典子やご近所に迷惑がかかる可能性がある。皆は私を「社長」と呼びなさい。典子の呼び方は、今まで通りに「店長」で良いからね」
「山野さん」と言いかけた栄太は急いで訂正した。
「いや、社長。おめでとうございます。『遠山商店』がいよいよオープンとなりました」
 山野はうんうんと満足そうに頷いている。
「典子の執拗な妨害にあって、予定より遅くなったけどね。まあ、あの子も何が正しいのか分かったようだ。最終的には折れて、全ての条件をのんでくれたよ」
 理江さんが山野にそっと注意した。
「社長。厨房に居る典子さんに聞えますよ」 
 山野は笑い飛ばした。
「大丈夫だ。典子は調理を始めると、それに集中してしまうのだ。おかげで、悪口言われても聞こえないのだよ」
 その言い方には少し嫌な気がしたが、山野の言う通りだと菜美は思うのだった。
 典子はいったん厨房に入ると、脇目も振らずに立ち働くのだった。うっかり話しかけると「うるさいねん」と怒り出す。美味しい食事を客に提供することが、自分の使命だと考えているのだ。
「栄太君。最後のミーティングをするから典子を呼んできてください。ここから呼んでも典子には聞こえないだろうな。聞こえたところで、あの子は『今は手が離せません』とか言って突っぱねるだけだから」
 厳しいことを言いながらも、山野は微笑んでいた。

「では、皆さん。ミーティングを始めます」
 厳しい面持ちになった山野が皆の顔を見まわした。
 典子だけが自分の足もとばかりを見ている。山野と視線を合わせたくないのだろう。
「オープンには何とかこぎつけたが、これで安心してはいけない。せっかくオープンしたのに、閉店となってしまう飲食店は珍しくないのですよ。『遠山商店』もいろいろ厳しい環境下にあり、身内で頑張るしかない状況に置かれています。力を合わせて頑張りましょう。とりあえずは私と理江が店頭での接客を、栄太君と菜美さんは休憩所でのサービスを担当します。店長ひとりで厨房は大変だと思っていましたが、今日からしばらくは栄太君のお母さんが手伝ってくださる。有り難いことです」
 山野に続いて栄太が話をする。
「僕も全力で頑張ります。初日ということで、もの珍しさからの客も多いでしょうね」
 山野は頷いた。
「この三日間は理江のファンが多く来てくれると私は考えている。それと、典子の特製ゼリーを先着二十名様にプレゼントするからね。それを望んで来店する客もいるだろう。とにかく、オープンしたそのときが一番に忙しくなりそうだ」
「けどな」と理江さんは不安そうに皆の顔を見まわした。
「理江のファンのひと、ほんまに来てくれんやろか。誰も来んかったら、理江は泣きそうになるわ」
 皆は大笑いした。
「笑わんといて。実は理江、ずっとそれが心配やったんよ」
 懸命に話す理江さんに、皆の笑いが止まらない。
 そのおかげだろう、怖い顔をして黙りこくっていた典子も、ようやく顔を上げた。
「うちも頑張る。厨房ならうちに任せといて」
「お願いしますよ」と顔をほころばせる山野。
 皆の心がひとつになったと、菜美の胸はいっぱいになった。
 
 ミーティングが終ったあと、菜美は栄太と一緒に秘密基地に行った。
「ここはもうすぐ僕の秘密基地ではなくなる。それで良いと割り切ったつもりだったが、正直なところ、僕は涙が出そうだ」
 栄太は休憩室になったこの部屋をぐるりと見回した。
「分かる。楽しかった青春時代は帰らへんもんね」
「しかし、僕は信じている。この部屋には希望がある」
 意外な返事に菜美は驚いた。
「希望って、よう分からんけど」
「学生だった僕らがゲームをして過ごしたこの場所で、今の若いひと達も同じように楽しんでくれることを心から願っている。そうして、僕らの青春はいつまでも受け継がれるのだ」
 栄太は壁の写真を指さした。
「お嬢さん、気が付いたかい。僕や典ちゃんが写っていない写真が幾つもあるだろう。これらの新しい写真は理江さんと僕の従妹の子が提供してくれた。この村での盆踊りや秋の祭りの写真だよ。これからも村の写真は増えていき、この村の変遷を『遠山商店』を訪れる人々に見て貰えるのだよ」
 目を輝かせる栄太だった。
「そうさ、僕らが生まれ育った村の歴史がここにあるのだ」
 菜美は感動している。ピンと来ない話ではあるが、この村を愛する栄太の気持ちがよく分かったのだ。
「おじさんが言うてることは難しいけど、私にも何となく分かるわ。この村と『遠山商店』のために頑張るね」
「有難う。ところで、お嬢さん」
 栄太はにっこりした。
「客の前では『お嬢さん』とか『おじさん』とか呼ぶのはやめようか」
 菜美は笑い出した。
「ほんまやね。私はみんなが呼んでるように『菜美さん』でええよ」
「では、僕もみんなが呼ぶ『栄太君』が良いですね」
 菜美は首を傾げた。
「私が『栄太君』って呼ぶの、何か失礼みたいな気がするな。おじさんの方がずっと年上やし」
「僕は平気ですが、お嬢さんがそう考えておられるのなら『林さん』にしてください」
「じゃ、そうするね」
「では、開店に向けて作業を始めましょう。窓とカーテンも大きく開けましょうか」

 菜美の心は重い。
 別れた直後、菜美は栄太を他人行儀に『林さん』と呼んでいた。それを思いだして、菜美は心に引っ掛かるものを感じたのだ。再び、悲しい思いをすることになりそうな予感がしてならない。
 栄太は心配そうに菜美の顔を覗き込んだ。
「どうしました、顔が曇りましたよ」
「え、そうなん」
 菜美は急いで言い訳をした。
「何て言うか、私は怖いんやろな。もうすぐ開店やけど、失敗したらあかんて思て」
 栄太は菜美の両手を取った。
「良い意味でリラックスしようよ。今日のお嬢さんはピンクのセーターが似合っていて、とても可愛いですよ。だから、今みたいに深刻な顔をしてはいけない」
 優しくそう言われると、菜美は自分でも意外なほどに悲しくなってきた。
 そんな菜美の気持ちに気が付かないのだろう。栄太はカーテンの隙間から外を覗き込も、嬉しそうに菜美を呼ぶのだ。
「菜美さん。見てごらんなさい。窓の下に理江さんのファンが並んでいますよ」
「良かったあ。理江さんも喜んでるやろね」
 明るく答えたが、菜美の心は沈む一方だった。
 
 

 
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