第30話

文字数 2,593文字

 通夜が終わり、菜美は栄太の車で遠山市のホテルに戻った。
 部屋に入ると、真っ先に喪服を脱いだ。明日も着るのだから、うっかり汚してはいけない。
 服を脱いだついでだと、すぐにシャワーを浴びた。清潔でさっぱりとしたパジャマに着替え、冷たいコーラをがぶがぶと飲む。
 そうしていると、何故だろう、解放感を感じてならない。ドライヤーで髪を乾かしながら、菜美はその理由を考えてみた。
「やっと自分ひとりになって、シャワ-浴びたからやわ」
 菜美はそう思った。
 それでも、鏡に映る自分の顔には暗さが残っていると感じるのだ。
 今日の菜美は心身ともに疲れきっている。
 ソファに座って、ひとりで遅い夕食を始めた。通夜の帰り、遠山市駅に近い店で買っておいたものだ。唐揚げ弁当と鮭のお握りをテーブルにならべ、菜美は笑った。
「ちょっと足りんかも」
 唐揚げから食べ始める。
 そうして、今日一日を思い返すのだった。




 通夜の会場では、とても不愉快な思いをした。
 菜美の近くに座っていた女性たちがひそひそと山野家の噂をしていたのだ。その話の内容が聞こえてきて、菜美はずいぶんと嫌な気分になってしまった。これは通夜の席でする話ではないと、呆れもしたのだ。

 『典ちゃんのお父さんやな、あれ』
 ひとりがそう言うと、あとの二人は大きく頷いた。
 その三人は好きなことを口々に言い出した。
 『見た目はハンサムやし、優しそうな感じしてるやん。普通の女やったら、誰かて騙されるわ』
 『理江ちゃんのお母さんと離婚して、今は大阪で新しい彼女と暮らしてんやってな』
 『家庭を大事にせんひとなんや。山野のおばさんがいてなかったら、典ちゃんは高校も行けんかった。自分の娘やのに、放ったらかしやった』
 『そりゃ、典ちゃんが喪主になるわな。山野さんがそんなんやから、おばさんと実の親子以上の仲になってしもたんや』
 『それにしても、典ちゃんもいろいろ苦労するわ。今度は、我が儘で甘えん坊の理江さんまでかかえこんでしもてな』

 菜美は本当に腹が立ってきた。
 山野家の人々は、菜美には本物の家族のような存在なのだ。その山野家の悪い噂をする彼女らが本当に腹立たしい。ましてや、霧子の通夜の最中なのだ。思わず、彼女らに「おばさんの通夜でそんな話をしないでください」と言いそうになった。
 傍らに座っていた栄太も同じことを考えていたようだ。
 苦笑しながら、菜美に小さな声で言うのだった。
「今は仕方がないよ、お嬢さん。一緒に我慢しましょうね」
 菜美も小さな声で答えた。
「うん。我慢するわ」

 通夜のあと。
 栄太が菜美に声をかけた。
「お嬢さん。もう最終のバスは行ってしまいました。町まで僕が送りますよ」
「ありがとう」と菜美は素直に頷いた。
 栄太は満面に笑みを浮かべた。
「素直なお返事に僕は感激しましたよ」
 菜美は返事が出来ないでいる。
 自分の狡さを感じているからだ。
 今は、栄太以外に頼れるひとがいない。通夜と葬式に慣れていないから、菜美は作法も分からずにいるのだ。何かとまごつくことばかり。自然と栄太にすがってしまう。
 もともと、栄太を嫌いではないのだ。別れの理由を納得していないだけだった。

 駐車場へと歩きながら菜美は栄太と話をした。
「おじさん。さっき、あのひとらが言うてたんやけど」
「何のお話でしたか。典ちゃんのことでしょうか」
「うん。喪主って、ほんまはお兄さんの山野さんなんやね」
  栄太は少し黙ったが、詳しい話を菜美に教えてくれた。
「山野さんは喪主を辞退したのさ。妹であるおばさんに、自分は苦労をかけっぱなしだった。しかも、今は大阪で他の女性と暮しているのだから、娘である典ちゃんや理江さんの気持ちも考えて行動したいってね」
「そうやったんや。だから、お通夜のときは会場の一番後ろに居てはったんや」
「庭からおばさんにお別れするとか、そんなことを山野さんが言い出してね、僕は困ったよ。いろいろあるが、それでも典ちゃんたちのお父さんなんだよ。第一、おばさんが悲しむ。会場の中に入ってお別れして下さいとお願いしたんだ」
 栄太の話を聞きながら菜美は考えた。
 自分はまだ若いからだろう。山野や栄太の話すことがもうひとつ理解できない。その言葉の意味は理解できても、深く読み取ることは無理だった。
「おじさん。大人ばっかりのなかで私は話についていけんわ」
 栄太は穏やかな笑みを浮かべた。
「良いじゃないですか。僕もまだ、自分よりも年配の方のお話についていけない。僕もまだまだですよ」
 菜美がその返事をする前に、栄太は急に立ち止まった。
 少し前を歩く男性を栄太は凝視している。
「おじさんが知ってるひとなん」
 栄太は頷いた。
「あれは山野さんだ」
「あれ、ほんまや」と菜美は呟いた。
 栄太も呟くように言った。
「山野さんはやはり通夜振る舞いに行かなかったんだ」

 山野が振り返った。
 栄太と菜美を見て立ち止まる。
 栄太は山野に深々と頭を下げた。菜美は急いで栄太の真似をするのだった。
 山野はその場から二人に丁寧な礼を返した。そして、静かに背中を向けて再び歩き出す。
 その後姿を見ながら栄太は考えている。
「どうしたん、おじさん」
「僕の車で送ろうかと思っている。もう七時を過ぎて、暗くなってきているからね。バスの最終便も行ってしまいました。泊まろうにも、この辺りにホテルはありません。お嬢さんもご存じのように、ここは何もない村なのです」

 栄太は急いで山野に追いついた。
 自分の車に乗るようにと、山野を誘っているのだろう。傍らの駐車場を示しながら、懸命に山野に話しかけている。
 菜美はそんな栄太を見つめた。
「おじさん、ええひとやな」と思わず笑みが浮かんできた。
 栄太は菜美を手招きした。
「お嬢さん。山野さんは駅前の旅館に泊まられるそうだ。では、皆で町まで行きましょう」
 山野は菜美の顔を見て微笑んだ。
  温厚そうな目元は、やはり優しい父親のものだと、菜美には感じられたのだ。
 



 気がついたら食事は終わっていた。
 考え事をしながら食べていたからだろう。
 サンドイッチとお握りの包み紙をゴミ箱に捨てた。ティッシュで口もとを軽く拭う。
 ベッドに入って時計をみたら、すでに十時になっていた。
 菜美はぼやいた。
「あかん。今夜は寝られへんわ」
 ひとりホテルに居て、菜美は遠山町の人々の顔ばかりを思い浮かべるのだった。

 


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