第29話

文字数 3,650文字

「お客さん。あの寺は長い坂道の上ですよ」 
 タクシーの運転手が菜美に声をかけた。
「えっ、どこ」と菜美は慌てて窓の外を見る。
 運転手は笑った。
「分かりにくいでしょうが、あの山のそばですよ」
「あ、あった。屋根が見えてますね」
 府道に立ってあたりを眺めても、並ぶ民家や田畑に隠れて寺は見えないだろう。菜美は栄太が自分を迎えに来てくれた気持ちがよく分かった。
 菜美はタクシーの運転手に頼んだ。
「お寺の門まで行ってください。はい、ぎりぎりまで」

 
 寺の門をくぐった。
 よく手入れされた庭に蝉の声だけが聞こえてくる。
 通夜が始まるまではまだ何時間もあるからなのか、あたりにひとの姿はなかった。
 典子と理江さんはとうに来ているはずだが、今は二人とも霧子に寄り添っているのだろう。そう考えると、菜美は玄関先で立ち止まってしまった。その中に親戚でもない自分が入っていっても良いのだろうか。
 迷いながら見回した庭の木陰に人影があった。
 菜美は首を傾げる。
「誰やろ。この暑いときによう庭に立ってやるわ」
 六十代と思しき男性がひとり、本堂が見える場所にぽつんと立っていた。
 菜美は「あっ」と叫びそうになり、慌てて口を手で押さえる。
 そのひとは霧子の兄であり、典子と理江さんの父親に違いない。すらりとした体つきや切れ長の目が、典子と理江さんにそっくりだったのだ。
 ひとの視線を感じたのか、そのひとも菜美を見た。
 丁寧に頭を下げながら菜美にゆっくりと近づいてくる。
 菜美は困惑した。
 何度もこの村を訪れているから、山野家の人々とは顔見知りになっていた。路上で会うと、そのまま立ち話をするようになっている。しかし、このひとは典子や理江さんと気まずい関係になっているのだ。ここで話をして、うっかり余計なことを言ってはいけないと菜美は思った。
 その男性は菜美の前に立った。
「今日は」と菜美に微笑みかける。
 その顔を目の前で見て、やっぱり典子達の父親だと菜美は確信した。
「私は山野霧子の兄で、山野一樹と申します。貴女は大阪に住む菜美さんですね。一目で分かりましたよ」
 菜美は嫌な気がした。警戒心も出てきている。
 どうして山野は自分の名前を知っているのだろう。名前だけではなく、大阪に住んでいることも分かっている。
 山野は菜美の気持ちを察したようだ。体をかがめて丁寧に謝るのだった。
「失礼しました。霧子から菜美さんのお話をいつも聞いていましたから、ついこのような物言いをしてしまいました。寂しがり屋の理江に良いお友達が出来たと言って、霧子は喜んでいたのです。でも、初対面の貴女には不躾な言葉でしたね」
 礼儀正しく詫びを言う山野に菜美は好感を抱いた。
「いえ、私はそんなん気にしませんから」
 山野はほっとしたようだ。ポケットからハンカチを出して顔の汗を拭った。よく見れば、山野の顔が赤い。炎天下の庭に立っているより、屋内に入って冷たい水を飲んだほうが良いと菜美は考えた。
「大丈夫ですか。中に入りましょうか。ここは蚊もいっぱい飛んでいるし、何より気温が高すぎて危険だと思います。山野さんに何かあったら大変」
 山野は嬉しそうに微笑んだ。
「霧子が言っていた通りのひとだ。率直で気持ちがいい」
「私、そんなんじゃないです」と菜美はすぐに山野の話を否定した。
「そうですか。霧子も言っていたけど、貴女は優しいひとだと思いますよ」
 山野は穏やかな眼差しで菜美を見つめた。
 菜美は意外に思っている。
 典子と理江さんの父親は、我が儘で冷たい人間だと思っていた。しかし、目の前の山野は優しそうな顔をした紳士だった。清潔で整った身なりをしていて、顔付や話し方は本当に穏やかなのだ。
 山野は家族を犠牲にして生きてきた。ひとの生き方は顔に出るというが、山野を見ているとそのようには思えない。山野には何か事情があるような気がしてきた。
 山野は菜美を促した。
「貴女は中に入って下さい。私はここに居ますから」
「え、ええ」と菜美は口ごもる。
 このまま庭にいると山野は言うが、この暑さに負けないかと心配だった。かと言って、会場の中に入るようにと山野に勧めるのも、典子の気持ちや自分の立場を考えると躊躇われた。どうしようかと迷う菜美に山野は優しい父親のように言うのだった。
「さあ、荷物も重そうだからね」
 菜美は黙って頷き、寺の玄関へと向かった。

 開け放した障子の向こうに、喪服姿の典子と理江さんが寂しそうに座っていた。
 広い玄関で靴を脱ぎながら菜美は考えた。どのような言葉で典子達を慰めればよいのだろう。
「今日は。菜美です」
 そう挨拶したが、緊張した声が不自然だと菜美は自分で思った。
「菜美さんやね。来てくれて有難う」
 典子はさっと立ち上がり、玄関の上り口まで菜美を迎えにきた。理江さんが典子の後ろから、悲しい顔で菜美を見つめている。
 典子は菜美の荷物を預かった。
「控室に置いとき。ま、いっぺんお茶飲んでな」
 控室に入ると、理江さんが座布団を勧めてくれた。
「わざわざ大阪から来てくれて有難う」と泣き出しそうな顔と声で理江さんは言うのだ。
 菜美が返事をする前に、典子が険しい顔で庭を見た。
「あのひとは要らんかってんけどな」
 そう言われても、菜美は返事のしようがない。
「菜美さん。さっき、あの人に話しかけられてたやろ。あんなんやけど、人当たりはええねん。そやから、うちのお母さんも騙されて子ども三人も生んだんや。理江さんとこも、結局はそれやってん」
 理江さんは青い顔をしてうな垂れた。
 菜美は困惑してしまった。典子の恨みは尤もだと思うのだ。しかし、よその家庭問題には触れてはいけないと、母や兄からきつく言われている。
 典子はなおも悔しそうに言う。
「さっさと帰ってほしいねん。はっきりそう言いたいねんけど、ほんのちょっとだけ迷ってんねん」
 理江さんが小さな声で典子に話しかけた。
「理江もほんまに嫌やけど、今日はもう我慢するわ。おばさんのお兄さんやから」
 典子は唇を噛んだ。
 理江さんはおずおずと話を続ける。
「栄太君にもそう言われたし。君達はお父さんを恨んでるけど、おばさんには大切なお兄さんやからねって」
 典子は泣き出した。
「理江は思うねん。大嫌いなお父さんやけど、今日は仕方がないやんか。お父さんをここに呼んで、おばさんに会わせてあげたい」
 典子は何も言わずに白いハンカチで涙を拭くばかりだ。
 菜美は黙ってその場を離れた。
 自分はここに居てはいけない。『遠山食堂』の人々とは家族同然の付き合いをしているだけなのだ。冷たい言い方ではあるが、典子達は他人だった。

 菜美は困っている。
 通夜が始まるまで、自分はどこに居れば良いのだろう。
 とりあえず、靴を履こうとして玄関に行った。
「お嬢さん」と声がした。
 栄太が玄関に立っている。
「早く着いたのですね」と栄太は微笑んだ。
 靴を手に持ったままで菜美は栄太に訴えた。
「おじさん。私、どうしてええんか分からへんわ」
「分かります。山野さんが来たものだから、典ちゃんが激怒したのですね」
「そうやねん。私が一緒にいてたら厚かましいような気がして、とにかく控室を出てきたんよ」
 栄太は可笑しそうに笑った。
「とりあえずお嬢さんは靴を履きましょうね」
 菜美は少し笑ってから靴を履いた。
「僕が山野さんを呼んだ。典ちゃんには事前に断っている。理江さんもそれに異存はなかったし、大阪のお母さんにも自分で連絡していたよ」
 菜美は驚いている。栄太が山野に霧子の死を伝えたのか。
「そうやったんや」
「そうです。典ちゃんも本当は山野さんを待っていた、大好きなおばさんのためだけにね。山野さんとおばさんはとても仲の良い兄妹だったから。でも、典ちゃんには意地があった。今も、山野さんを父親として認める気はないんだよ」
 菜美は頷いた。
「だから、僕は典ちゃんから離れてはいけないと考えたのさ。ただでさえ感情の波が激しい典ちゃんは、きっと山野さんに攻撃的になると思うよ。山野さんを葬式に呼んだのは僕だからね、責任を感じるのだ」
 菜美は思わず言ってしまった。
「おじさんは典子さんを好きなんやと私は思てしもたわ」
 栄太は笑った。
「長い付き合いの友達なんだよ。楽しかった僕の青春に登場する重要人物なのだ」
 そして、声を詰まらせた。
「僕の好きな女性は違うひとだ」
 菜美の胸が大きな音を立て始めた。
「有難う、お嬢さん。やっと僕を昔のように『おじさん』と呼んでくれたね。しかも二回もだよ」
 栄太の顔を見れば、その言葉が嘘ではないと分かる。
 しかし、菜美は忘れていなかった。栄太に別れを言いだされたときの衝撃と、自分には理解できないその理由。
「私、今日はおばさんのお通夜とお葬式に来たんやけど」
 菜美の素っ気ない言葉に栄太の肩が震えた。それでも、栄太は穏やかに答える。
「そうだね。全くだよ」
 菜美は玄関の戸を開けて外に出た。
 涙がこぼれそうになって空を見上げたら、太陽が眩しくてならなかった。


 
 








 
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