第32話

文字数 2,098文字

「はい。私は今も夢を追っています。ただ、私はもう体力や気力がありません。彼に私の夢を託そうと考えています。彼はきっと私の後をついでくれるでしょう」
 菜美は唖然とした。
 栄太は山野の夢を引き継ぐつもりでいるのか。
「ずいぶんと驚いていますね」と山野は楽しそうに笑った。
「その話は全然知りませんでした。今初めて聞いたからびっくりしています。山野さんが村を出て大阪へ行ったことは、私も何となく知ってはいたけど」
「はい。私の夢は有名になることでした。ここに居てもだめだと思って大阪へ行ってみましたが、霧子が体調を崩した頃でしたよ、私はこの何もない村に夢を見いだしたのです」
 菜美はやっと口が利けるようになった。
「もう私、山野さんのお話にびっくりしています。おじさんと同じことを考えていたなんて」
 山野は皮肉な笑みを浮かべた。
「それは違いますよ。私の夢は彼のものとは根本的に違っています」
「えっ。何が違うのですか」
「彼の動機は実に立派なものです。私は自分の富と名誉のため、この村にレジャー施設を作ろうと考えましたがね」
 菜美は驚き、思わず呟く。
「ここにレジャー施設ってかあ」
 山野は力を込めて話すのだった。
「ここは日本海に近い。夏になると、海に行くひとがこの村を通ります。学生さんも気軽に利用できる宿泊施設があれば、とても喜ばれますよ。しかも、遊歩道周辺には美しい自然が残ってますからね」
菜美はまだ驚きが冷めないでいる。 
「私、びっくりしっぱなし」とため息をつく。
 山野は淡々と話をする。
「さっきも言いましたが、これは自分自身のための夢なのです。全国的に有名になることはかなり難しいことです。しかし、この狭い範囲なら私は有名人になれると思いました。事業を成功させて遠山町を名所にした後は、遠山市長まで上り詰めたいのです。彼はそうでなく、寂しいひとに癒しを与えたいだけなのです。そんなことで私は彼と意見が分かれました。結局、レジャー施設は諦めました。そして、ある目的に向かって、私の土地を彼に無償で提供したのです。ただし、私は条件を出しています」
「条件ですか」 
「はい。夢が現実となったときは私がトップに立ちます。土地を提供したことで、すでに彼に意見できる立場となっています」
 菜美は黙り込んだ。
 やはり、山野は心の冷たい人間かもしれない。自分の夢を叶えたくて、妹の霧子に『遠山食堂』を任せ、三人の娘をもうけた仲の女性を捨てている。
 それだけではない。捨てたも同然の故郷の村に、自分が思うレジャー施設を作る夢をみていた。身勝手な話だと菜美はつくづく思う。そして、山野の計画に、栄太はどこまで協力、あるいは妥協したのかとも考えるのだった。まさかと思うが、栄太は山野に利用されているのかもしれない。菜美はそのようなことも考えた。山野が言う「ある計画」に栄太は強く心を惹かれ、その条件に不満はあっても、自分の立ち位置を我慢しているのか。その可能性は大いにあると菜美は思うのだった。
 何にしても、夢を追うあまりに、周囲の人々と疎遠になっても山野は平気なようだ。栄太からもそれに似たものを菜美は感じる。夢を追う男とは、皆がそのようなものなのだろうか。

 山野は腕時計を見た。
「もう電車がきます。話を簡単に済ませます」
 菜美は思う。楽しくない話は簡単なほうが良い。
「私は彼に聞きました」
「何を聞いたのですか」
「見果てぬ夢と、平凡でも幸せな結婚。その二つを叶える自信はあるのかと」
「おじさんは何て返事したのですか」
「自信はないと彼は言いましたね。頑張って仕事が軌道に乗っても、菜美さんを迎えに行く日は遥か先のことだろうともね。菜美さんをどれぐらい待たせるかも、彼には予想できなかったようですよ」 
 菜美は寂しく微笑んだ。
「もう、その話は結構です。あれから私も少し落ち着いたんです。こうして山野さんと話していたら、また憂鬱になりました」
「分かりました」と山野は頷いた。

 電車の到着を告げるアナウンスがホームに流れた。
「電車が見えてきましたね。気を付けてお帰りください」
 山野は菜美に一礼をした。
「今日は霧子のために大阪から来てくださって、私は本当に感謝しています。有難うございました」
 そう言うと、山野は静かにその場を去って行った。
 山野に買ってもらったコーラを、菜美は見つめた。半分も飲んでいない。山野と話していたら、そんな気分ではなくなったのだ。いっそ、捨ててしまおうか。
 菜美は苦笑した。山野に腹が立ったからと言って、買ってもらったコーラを捨てるのは子供じみた考えだと気が付いたのだ。
 結局、コーラは電車に持って入ることにした。
 重い荷物とコーラを手に持って、菜美は車内に入っていった。
 平日の昼であるから車内は空いている。
 荷物を網棚に載せると、菜美は飲み残したコーラをごくごくと飲んだ。
「全部、飲んだと思うねん」
 そのような独り言のあとで、コーラの空き缶を手でゆっくり振った。
 コーラは缶の底に少し残ったようだが、それでもきれいに飲み干したと菜美は思った。同時に、遠山町で自分のやるべきことは全てが終ったと感じたのだ。




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