第34話

文字数 1,803文字

 理江さんの呼びかけに、菜の花の向こうにいるひとはこちらに顔を向けた。
 相変わらずの浅黒い顔をほころばせ、そのひとは緑色の明るい畑から庭に出てきた。
「ああ、今日は」と明るい声で理江さんに笑顔に見せる。
 理江さんは菜美を手招きした。
 菜美はどきどきしながら理江さんの少し後ろに立った。
「栄太君。今日は菜美さんもいてやんねん」
 菜美に気が付いた栄太は、顔全体の作りが変わるほどの笑顔になった。
「お嬢さん。久しぶりじゃないか」
 栄太は手についた畑の土を軽く払いながら、菜の花の間を縫って菜美のもとに来ようとする。
 しかし、理江さんが叫んだ。
「あかんやん、栄太君。手も洗わんと無理にそこ通んのは止めて。せっかく咲いた花が汚れるやんか。栄太君に押されて地面に倒れそうになるし」
 栄太は立ち止まった。情けない声で明るい空に話しかける。
「いやはや、最近の理江さんは典ちゃんと同じようなことを僕に言うのですよ。『遠山食堂』の草抜きは僕がしているのにね、典ちゃんはいつも口うるさくて」
  理江さんは陽気に笑いながら栄太に聞く。
「栄太君は典子さんが怖いもんね」
「保育園時代からずっとですよ。僕は先生や母親よりも典ちゃんが怖かったのだよ」
 二人の横でこのやり取りを聞いていた菜美は思わず笑ってしまった。
 そんな菜美を栄太は嬉しそうに見るのだった。

「菜の花さん。通してくださいね」
 栄太は菜の花の横をそっとすり抜ける。
「お二人とも、少し待っていてください。裏の勝手口へ行って手を洗ってきます。理江さん、そして、お嬢さん。とにかく、僕は花にも優しくありたい人間なのだ」
「うん。よう知ってんで」と、理江さんが大きく頷いた。
「栄太君は昔から親切やもん」
 理江さんのその言葉に「そうやね」と菜美は何となく相槌を打ってしまった。
 勝手口へと歩きながら栄太が呟く。
「春の水だ。もう冷たくはないだろう」
 その言葉を聞いて、菜美はどきっとした。
 栄太は『もう冷たくないだろう』と言った。何かを春の水に例えて言ったような気がする。その何かとは、菜美の気持ちのことだろうか。

 栄太はすぐに畑に戻ってきた。
「手をきれいに洗いました。お茶の時間にしますから、お二人とも僕の家に上がってください」
 菜美は慌てた。このような展開になるとは予想していなかったのだ。
「この三人で話すのも久しぶりだ。おもてなし、だよ」
 理江さんが困ったように栄太に言った。
「悪いけど、今日は帰るわ。典子さんがもうご飯作ってるころやから、理江も早よ帰って手伝いたいねん」
 栄太は諦めない。
「それでは、僕も晩ご飯に呼んでください」
 理江さんは菜美を見た。夕食に栄太を招待するかどうかは、菜美の気持ち次第で決めるつもりなのだろう。
 菜美は仕方なく答える。
「私はかまへんよ」
 栄太は破顔した。
「有難う。しかし、今の僕は土がついた姿でいる。風呂に入ってから行きますね」
 理江さんは笑いながら頷いた。
「大丈夫やよ。まだ時間もあるし」
「ところが、僕は急ぎますよ」
 栄太は家の中にばたばたと駆けこんでいった。

 『遠山食堂』に着いた。
 典子が怖い顔をして迎えてくれた。
「遅いやんか。うちが忙しいの、理江さんは分かってんやろ」
「ごめん。久しぶりやから菜美さんと遊歩道で喋り込んでてん」
 理江さんがそう言うと、典子は肩を怒らせた。
「あほやな、夕方になってから若い娘がうろうろなんかして。特に今は結婚式も近いんやから」
 菜美と理江さんは同時に「すみません」と頭を下げた。
 典子は苦い笑みを浮かべて溜め息をついた。
「ほんまにもう。今度から気つけてや」
 むくれている典子に理江さんが話しかける。
「今夜、栄太君も来るって。晩ご飯もここで食べるつもりやよ」
 典子は驚いた顔をしたが、すぐに笑い出した。
「ちょうど良かった。晩ご飯出すかわりに、栄太君にはうちの手伝いしてもらおか」
 にやりと笑う典子に理江さんは小さな声で言うのだった。
「栄太君はお風呂入ってから来るんやって。そうやんか、毎日走り回ってる栄太君に手伝い頼むの、今はちょっと可哀想やわ」
「そんなしんどいこと、うちが栄太君に頼むわけないやろ。理江さんの動画撮影に協力してもらうねん」
「わっ」と叫んで、理江さんは典子に抱きついて笑った。
「それ、理江のブログ用の動画やね。個人で保存しとくんやないよね」
 典子はそれには答えないで、肩を大きく揺らして笑った。
 
 

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