第18話

文字数 4,042文字

「お嬢さん、朝が来たら散歩に行きましょうか」
 栄太はホールの窓に顔をくっつけ、残念そうに言うのだった。
 「月明かりのあの道をお嬢さんと歩いてみたかった」
 菜美もガラス窓に額をつけ、静寂な外の世界を見つめた。展望台から見えていた、あの輝く砂利の道がそこにある。栄太は夢を見ながら話をした。
「あの道をずっと行けば遊歩道にでる。その近くに僕の土地があるんだ。最近は手入れをしていないから、かなり荒れているけど、本来は明るくてとても気持ちの良い場所なのさ」
「そこに何かの施設を作んのがおじさんの夢で、それは村のひとのためになるって話やね」
 栄太はにっこりした。
「初めは村のひとのため。軌道に乗れば、訪問者に制限はなくなるだろうな」
 やはり栄太の話はよく分からないが、一生懸命に夢を語るその顔は魅力的だった。これがいわゆる『男のロマン』なのだと菜美は胸をときめかす。
 「では、僕は帰ります。コンビニの隣が僕の家ですよ。そこは何もない家ですが、また遊びに来てください」
 栄太は大きな欠伸をした。

 翌朝。
 菜美は栄太と散歩に出かけた。
 「お嬢さん、眠そうですね」
 「うん。けど、目は覚めてきてる。朝の早い時間って、凄い新鮮な空気なんやね。なんか引き締まってくるわ」
 夜が明けたばかりで動きの少ない砂利の道だった。道の両端に名もないような草花がそよ風に揺れている。その静けさのなか、辺りに満ちている冷気がここに来た者の心を洗ってくれた。
 「そう、爽やかな朝だね。散歩には最適だな」
 気持ち良さそうに栄太はのびをする。
 「私、ちょっと写真撮るね。次のブログに載せるつもりやから」
 菜美は立ち止まった。周りの風景を立て続けに撮影する。優しげな風の動きを溢れる緑色が表現していた。菜美はカメラを構えながら考える。このやわらかな緑色に似合うのは可憐な白い花だろう。理江さんは野に咲く花を愛していて、ブログでこのように語っている。
 『髪に飾るには少し物足りないけど、見つめ合って話すには最高の花達』
 理江さんのその言葉を何となく理解できたと、菜美は嬉しくなった。
 「お嬢さん。見てください」
 栄太に言われて、菜美はカメラをバッグに入れた。
 「ここは川や田んぼが近い。その辺りは夏頃に蛍が飛ぶんだよ。僕は典ちゃんと一緒にその道を歩いたこと があった」
 せっかく二人でいるときに典子の名前が出て、菜美は少し寂しい気分になった。栄太と典子はどのような関係なのだろう。
 「おじさんは典子さんとほんとに仲良しなんやね。さっきから、凄い感じてるんやけど」
 菜美は遠慮なく栄太に尋ねた。
 「はい、仲良しです。典ちゃんは大切な友達だよ」
 菜美は黙って足元の砂利を見つめた。何も言わない菜美に、栄太は少し戸惑ったようだ。
 「何を考えているのですか。下ばかりを見て考え事をしていたら、立ったままで寝てしまいますよ。どうせなら、電信柱にもたれて寝てください」
 「実はね、おじさん」
 菜美は栄太の軽口を無視した。
 「典子さんに泣かれて、おじさんは東京に戻らんかったやん。その話、私は気になってたんよ。ちょっと妬いてるわ。典子さんとはどんな関係なんかなって」
 かつては畑だったと思える広い場所に、栄太は立ち止まった。
 「着きましたよ。ここが僕の土地だ」
 栄太は雑草が茂る中に手を伸ばした。それらにそっと触れながら落ち着いた口調で話す。
 「典ちゃんは僕の盟友としての存在だ。小さい頃からよく遊んだ仲だよ。そして、青春時代に秘密基地を共有した仲間。僕の青春の思い出に欠かせない存在だ」
 菜美は「盟友」という言葉を栄太から聞かされて寂しくて悲しかった。そう聞くと「恋人」に対するものよりも、栄太は深い愛情を典子に持っているように感じる。
「典ちゃんが泣いたのは僕を想ってのことではない。典ちゃんは大阪で結婚したが、その男性には誠実さがなかった。三年前、典ちゃんは思いきって離婚したんだ。遠山町に戻った典ちゃんは、それからすぐに打ちのめされた。お父さんが新しい奥さんを貰ったんだよ」
 「それ、理江さんのお父さんとお母さんは離婚したってことやね」
 菜美は大きな声を出してしまった。
 「そんなん、女のひとへの侮辱やわ。奥さんいてるのに何人も付き合うて、身勝手な話やね。典子さんと理江さん、ショックやったと思うわ」
 「コーヒーを飲みに遠山食堂へ行ったとき、山野のおばさんが困っていた。典ちゃんが泣き止まないからだ。僕は典ちゃんを散歩に連れ出した」
 栄太は菜美の手をそっと取る。
 「こんな風に手を繋いでね、あのときの僕は典ちゃんと歩いたんだ。季節は今と違って、冬だったが」
 栄太は菜美を荒れ地から砂利道ヘと導く。
 「このまま歩けば遊歩道にでる。川が近くて、春には桜が綺麗に咲く場所だ。悠久の自然に心は清められ、希望がわいてくる。この道は明るいのだよ」
 遊歩道にはいると、栄太が言った通りに春の遠山川が見えてきた。
 「あの日、僕は典ちゃんに約束したんだ」
 そのときの情景を思い出して、栄太は目をうるませた。
 「おばさんは体が悪くしていた。長く生きられないだろうと、医者は典ちゃんにはっきり言ったよ。典ちゃんは泣き沈んだ。また、独りぼっちになる、自分には寂しい人生しかないのだ。そう言って泣くんだよ」
 菜美は衝撃を受けた。そう言えば、仕事中も霧子は椅子に座りがちであるし、食後に何種類もの薬を飲んでいた。
 「おじさん。その話、ショックやわ」
 菜美は言葉につまった。何とか話せたが、出てきた言葉は短い。
 「どう言うて良いのんか、私には分からん」
 「そう。離婚後の典ちゃんは、おばさんとの穏やかな暮らしを望んでいたのだよ。しかし、おばさんが体調を崩した」
 栄太は典子の悲しみを淡々と菜美に話す。
 「僕は母のこともあったから、もう少しこの村に残ることにした。旧友の典ちゃんのために。そして、東京で失敗した僕でも、誰かを支えたり救ったりする力が残っていたと知った」
 「そうやったんや」
 栄太が笑った。
 「お嬢さんは『そうやったんや』が口癖ですね」
 菜美も笑った。
 「確かに『そうやったんや』は私の口癖」
 栄太は重々しく菜美に答えた。
 「そうやったんや」
 菜美はあははと笑った。
 「真面目な話してんのに、おじさんは笑えないダジャレなんか言うんやね」
 「シリアスな話の途中ですが、せっかくお嬢さんと二人でいるのです。楽しいほうが良いと思いましたよ」
 栄太の温かい笑顔が菜美は堪らなく嬉しかった。朝の新しい空気のなかに栄太は爽やかでいて、明るい笑顔を自分に向けている。菜美は青い空に顔を向けて爽やかな風を吸い込んだ。この荒れ地に来てからは、華やかに透き通った自分になっている。
 「話は戻るよ」
 栄太はまだ笑いながら言った。
 「そんなときだった。今度は、憔悴しきった理江さんが遠山食堂に現れた。その一年前、理江さんは家族で大阪に引っ越しをしていた。慣れない土地で理江さんは寂しさを我慢していたが、とうとう耐えられなくなったのだよ。お父さんが愛人をつくって家を出てしまったからだ。理江さんのお母さんは離婚して実家に戻った。しかし、お母さんの実家は理江さんに合わなかったらしい」
 「何てことなんやろ」
 菜美は溜め息をついた。
 「理江さんはぼろぼろになって、大阪からこの村に戻ったのさ。自分はこの村でしか生きられない人間だと、理江さんはしみじみと話していた」
 「理江さんはこの村で生活したかったんやね」
 「そうだよ。そんなわけで、おばさんは理江さんも引き取り、典ちゃんと三人で暮らしはじめたのさ」
 菜美は思った。理江さんのアンニュイな美しさは、そんな人生経験から生まれたものかもしれない。
 「おばさんは元気を取り戻したが、油断はできない。自分と理江さんがおばさんの負担にならないように、典ちゃんは考えた。結局、典ちゃんは理江さんの母親代わりになったよ」
 理江さんの年齢を菜美は知らなかった。話のついでに聞いてみようと思う。
 「話はちょっと違うけど、理江さんって幾つなんやろ」
 栄太は笑った。
 「理江さんは年齢不詳だよ。たしか、この三月で二十七歳だったと思うが」
 「見えないね。すごく若い」
 「理江さんは素直で純粋だから、いつまでも透明で綺麗なのさ。しかし、甘えん坊の理江さんに典ちゃんは大変だよ。しかし、三人の結び付きはしっかりしている。支えあっているよ」

 栄太の所有する土地に戻った。
 「ここに孤独なひとがふらりと立ち寄れる施設を作る。僕は誰もがくつろげる空間を作り出したいのさ。資金や人材の問題で大規模なものは無理だとは思っている。とりあえず日向ぼっこするための場所ぐらいは可能だろうな。とにかく、いずれは作る施設は観光とは無縁のものだ」
 菜美は心から言った。
 「夢が叶ったらええね」
 「お嬢さん。有り難う」
 栄太は声を震わせた。
 「人生の終わりには、誰もが穏やかで居られるようにと僕は願っている」
 菜美は栄太の決意に満ちた顔を見つめた。
 「おじさん、素晴らしいね」
 栄太は菜美に微笑みを返すと、真っ直ぐに空を見上げた。
 「何事もなく、穏やかな人生を誰もが過ごせますように。僕はこの村を人間らしく生きられる土地にしたいのだ。この田舎の風景とひとの優しさに、今も僕は救われている」
 菜美は頷いた。栄太の話を聞いても、菜美には実感がわかない。ただ、東京で挫折した栄太の葛藤を思うのだった。
 栄太は再び菜美を見た。
 「お嬢さん。僕の村は優しい緑のままでいてほしい。マンションや今風な商業施設は要らない。この何もない村のままでいてほしいんだ」
 菜美は栄太の手を強く握った。
 「言ってる意味は私にも分かる。頑張ってね」
 しかし、菜美は栄太と並んで歩きながら考えた。典子は栄太が夢を追っていると話していた。村の現実を理解しているからこそ、栄太が夢を追っていると典子はあのように話せたのか。
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