第37話

文字数 4,494文字

 典子は携帯電話をポケットにしまうと、理江さんを乱暴に呼びつけた。
「理江さん。ちょっと」
 理江さんは夫のそばを離れた。
 不安に目を見開き、おずおずと典子に尋ねる。
「典子さん。何かあったん」
 典子はぞんざいに答えた。
「お友達が木戸の前に来てんやて。急ぐから庭には入らんけど、理江さんにどうしても会いたいらしいわ」
 理江さんは息を大きく呑んで木戸を見つめた。
「やっぱり、来てくれたんや」
 そうして、理江さんは意を決したように典子を振り返った。緊張しているからだろう、理江さんの顔はずいぶんと強張っている。日頃とは違う理江さんの様子に菜美は不安を感じるのだった。
「典子さん。悪いけど、ちょっと行ってくるね」
「うん。けど、用事はさっさとすましてや」
 典子は悲しいような、寂しいような、何とも言えない表情を見せて答えるのだった。
「ちょっと待ってて」と夫に声をかけ、理江さんは木戸を開けようとした。

 木戸にかかった木の枝が大きく揺れた。
 さっと身構える典子。
 その表情を見た菜美は慄いた。理江さんの結婚披露宴にやって来た山野を、典子は冷たく追い返すかもしれない。

「ああ、困った。本当に困ったよ」
 ため息混じりの声と共に木戸が開き、顔をしかめた栄太が庭に入ってきた。
「披露宴の会場である庭をこちら側から撮影しようとしていました。つい、夢中になってしまい、うっかり水たまりに足を突っ込みましたよ」
 ぼやきながら濡れたズボンをハンカチでせっせと拭きはじめる栄太。
 何となく笑いを誘うその仕草に、周りの人々は明るく笑い出した。
「おじさん。大丈夫なん」
 栄太を菜美は気づかった。
「大丈夫ですよ。ただ、僕の一張羅が大変なことになっているよ」
 菜美は栄太の足もとを見た。
「ズボンだけなやくて、靴も汚れてるやん。泥がいっぱいついてるわ」
 典子も栄太の足もとを覗いた。
「ほんまやね。栄太君は泥だらけや」
 菜美は理江さんの白いドレスとヒールが心配になった。
「理江さん。大丈夫なん」
 そう言いかけた菜美は言葉をのんだ。理江さんはつま先立って木戸の向こうを覗いていた。懸命に父の姿を探す理江さんには、菜美の声は聞こえていないようだった。

 縁側に置いてあった新しいタオルを典子が持ってきた。
「雨あがりやし。長靴履いたら良かったんや」
 ぶつぶつ文句を言いながら、そのタオルを栄太に渡した。
「有難う、典ちゃん。助かるよ」
 典子は苦々しく言う。
「お客さん用のタオルやねん。何で栄太君が使うんよ。ここに雑巾がないから、それを渡しただけや」
 栄太は急いでタオルを畳んだ。
「では、このタオルは新郎にお渡しますね。僕は雑巾に慣れています」
 典子は吹きだした。菜美も笑った。栄太のとぼけ顔が可笑しくて仕方がない。
「理江さん、今のん聞いたやろ。栄太君は相変わらずやな」
 そう言って理江さんを見た典子の顔から笑みが消えた。
 理江さんはまだ山野を呼び続けていた。
「お父さん、居てないの」
 泣いているのか笑っているのか、よく分からない理江さんの声だった。
「理江さん。そんな大声だしたらあかんやん。近所に丸聞こえやで」
 典子は眉を寄せたが、理江さんはまだ木戸の向こうの闇に叫んでいる。
「ねえ、お父さん。遠慮は要らんのよ」
「その通りだ、理江さん。今夜の山野さんは花嫁の父だから、遠慮は要らないのだよ」
 典子に貰ったタオルで顔をごしごし拭きながら、栄太は力強く話すのだった。
「しかし、ここは何もない村だからね。夜は本当に静かなのだよ。しかも、お隣のお婆ちゃんは八時を過ぎたら眠る習慣だ。大声を出してはいけない」
「あ、ほんまや。理江、騒がしかったんや」と理江さんは慌てて口を押さえた。
 しかし、その場から動こうとはせず、木戸の向こうをひたすら見つめている。
 栄太は思慮深い眼差しになって、典子に話しかけた。
「とまれ、山野さんは帰ってしまった。典ちゃんと理江さんの前に出る立場ではないと、自分で考えたようだね。本当は可愛い娘の晴れ姿を見たかったと、僕は思うのだが」
 典子は嘲笑った。
「へえ、恥は知ってんやね。おかげで、披露宴の用意が中断されて、うちは迷惑やったわ」
 栄太は不愉快な顔をしたが、すぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「僕が水たまりで難渋している間に、いつの間にか山野さんは帰宅されましたよ」
 理江さんは寂しそうに栄太を見上げる。
「がっかりやわ。理江の結婚披露宴は、お父さんと典子さんが和解するチャンスやと思てたんよ」
 典子はつんとして理江さんに訊いた。
「理江さん。誰と誰が仲直りするって言うてんのかな」
 理江さんの切れ長の目は悲しみでいっぱいになった。唇がふるえている。それでも、理江さんは典子に自分の思うことを懸命に話した。
「そうやんか。今日を逃したら、典子さんがお父さんと話をする機会がなくなるもん」
 典子は返事をしない。
 菜美も横で見ていて、二人のやり取りにはらはらしてしまった。理江さんの大切な記念日に争い事を避けたいと思うのだ。栄太もそう考えているようだ。とりなし顔で理江さんに言った。
「今はこの場所から、自分の想いを素直に話そうよ。何を言っても大丈夫だからね。ホールにも素敵な背景をセットしておいた」
 理江さんはうなだれて「分かった」と小さな声で答えた。典子がほっとため息をつく。
 栄太は時計を見た。
「そろそろ披露宴の時間だよ。遅くなったら大変だから、早く撮影を始めよう」
「あ。そうや」
 典子は何かを思い出したようだ。
「理江さん。その動画撮る話やけど、ホールは後からにしたんよ。庭が先やで」
 理江さんは慌てて典子に聞き返した。
「庭が先って、何でやのん。ホールで理江がモノローグして、それから夜の庭で披露宴って話やったやん」
「ちゃんと分かってんで、理江さん」と典子は理江さんの肩を優しく抱いた。
「理江さんは月光差す庭の雰囲気出したかってんな。うちもそのつもりやったよ。けど、夜に騒いだら近所迷惑やって栄太君に言われたから」
 がっかりしている理江さんを栄太は慰めた。
「ご近所付き合いも大切だよ。僕らのささやき声も、静かな夜にはね、周囲にはどんちゃん騒ぎしているみたいに煩くなるのだよ」
 理江さんがしぶしぶ「うん」と返事をすると、栄太は静かに微笑んだ。
「では早速、夜空に結婚の報告してしまおうね」
 理江さんは夫を手招きした。
「ねえ。動画で永遠の愛を誓うシーン、今から撮るから来て」
 オレンジ色のライトを浴びた木々の間に立ち、新郎新婦は見つめあい、そのまま頬を寄せあった。
「そういう訳なのだ。お嬢さん。約束通り、今夜は僕の撮影助手を務めてください」
 菜美は首をひねった。そんな約束をした記憶がないのだ。しかし、理江さんを見守る栄太の優しい表情を見たら、菜美は言われるままに大きく頷いた。
「早速だが、お嬢さん。花嫁の髪を直してください。ティアラが少しずれている」
 ティアラの位置を直そうとする菜美に、理江さんは涙声で礼を言うのだった。
「菜美さん。理江は幸せやわ。お父さんは来んかったけど、みんな理江に優しいもん」
 こみ上げるものがあったが、菜美は明るく微笑み、心からの思いを理江さんに告げた。
「結婚おめでとう。私、理江さんが大好き」

 ついに披露宴が始まった。
 庭に置かれたテーブルには、典子が丹精こめて作り上げたおもてなし料理や飲み物が並んでいる。
 栄太はその料理を写真に収めながら典子を褒めた。
「さすがだね、典ちゃん。美味しそうだよ」
 菜美も「見た目も綺麗。私、ブログにあげるわ」と約束した。
 典子は少しはにかんだが、ぶっきらぼうに言うのだった。
「うちは料理しか出来へんし」
「ご謙遜だ」と栄太が笑った。
 それには答えず「着替えに行こ」と典子は菜美を誘うのだが、顔が誇り高く輝いている。素直に喜ばないだけで、典子は料理作りに生きがいを感じているのだ。

 典子は上品な紫色のドレスと黒いパンプスという格好で庭に戻ってきた。長い髪を結い上げた細い首に、二連の真珠のネックレスがよく似合っている。
 このように淑やかな服装でいる典子を見ると、改めて美しいひとだと菜美は思ってしまうのだ。
 菜美自身は、ピンクの花柄のワンピースを今日のために選んでいる。滅多に着ることないワンピースのやわらかな生地に、菜美は自分が美人になったような気がしている。
「それでは」と栄太が皆に声をかけた。
「いよいよ披露宴が始まります。最初だけ『花のワルツ』を流しますが、近所迷惑を考えて、それ以降の音楽はありません。しかし、お聞きください。この庭を抜ける風の音、木々のざわめきを。これこそが理江さんを育てあげたこの村の音なのです。理江さんは幼い頃からこの音を聴いて、このように心豊かな女性となりました」
 新郎の両親は真剣な眼差しを夜空に向けた。そして、耳を澄ましている。
 典子もそっと涙をぬぐうのだった。そんな皆の姿に菜美は感動せずにはいられない。
「新郎新婦は席におつきください」
 栄太の言葉を聞いて、皆はいっせいに拍手を始めた。
 その拍手のなか、新郎新婦は手を取り合ってメインテーブルへと歩いていく。あちこちから差すライトの眩しい光を浴びる理江さんは、まるで童話に出てくるお姫様のようだった。宝石を散りばめたティアラが眩しく輝き、ミモレ丈の白いドレスの裾がさやさやと揺れて。そして、豪華なレースがふわり。
 その優美さに、菜美はため息をもらした。
 しかし、典子はあまりに現実的な話を始めるのだった。
「なあ、菜美さん。理江さんが庭で披露宴したいなんて言うから、ドレスはミモレにしたんやけど、やっぱり正解やったねえ。マキシのドレスやったら、裾を地面に引きずって汚れるもん」
 菜美は笑いをこらえた。

 披露宴もたけなわになった頃。
 撮影の合間に栄太は、典子が作ったおもてなし料理を食べていた。
「ご馳走だね。撮影を放りだして食事に専念したいぐらいだ」
 栄太が傍らの菜美に話しかけた。ローストビーフの皿を持って、菜美は明るく返事をする。
「うん。ほんと、美味しい」
「典ちゃんはね、料理の腕は素晴らしいだが、口が悪すぎるのさ」
「でも、すごく優しいひと」と菜美。
「そうだ。そして、寂しがり屋だよ」
 栄太は新郎と話している典子を、次に庭の角に置かれた椅子を見つめた。
「空いた椅子は塞がらないままだ」
 それは菜美も気になっていたことだ。出席するはずの新郎の友人がまだ来なくて、用意された椅子は空いたままになっている。
「典ちゃんは思い切って招待したのだが。一体どうしたのだろうね」
「うん。心配やね」
 理江さんの私生活をすべて公開したくない典子は、本当の身内だけで披露宴をするつもりだった。それを、栄太が「僕とお嬢さんも本当は身内ではないのだ」と言ったから、新郎の友人をひとりだけ招待することになった。
 しかし、新郎の友人はまだ来ないのだ。
 


 *
 『花のワルツ』
 P.チャイコフスキーの『くるみ割り人形』のなかの一曲です。
 ノクターンにしようかと迷いましたが、理江さんは花が大好きなので、こちらにしました。





ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み