第44話

文字数 6,783文字

 夕飯と風呂を済ませた後、三人は厚手のパジャマの上に半纏を羽織り、茶の間の炬燵で仲良くお喋りを始めた。
「あとは寝るだけやん。典子さん、菜美さん、三人で思い切り喋ろね」
 無邪気に笑う理江さんの傍らで、典子が大きな欠伸をした。
「うちはそろそろ限界やねんで。今日は緊張したし、ほんま疲れたわ」
 菜美も何か言おうと口を開けたが、典子の欠伸が移ったようで、言葉が出る余裕はなかった。典子が笑いながら菜美の顔を覗きこむ。
「菜美さんもえらい欠伸すんやな。今日は店のオープンで忙して、あんたも疲れたんやろ」
 大きな欠伸をした自分が、菜美は少し恥ずかしい。もじもじしながら答えた。
「私は何もできんかったけど、欠伸だけは一人前なんよ」
 典子と理江さんが陽気に笑った。

 典子が呟くように言うのだ。
「まあな、初日やったからあの客数やと思うねん。弁当が売り切れ御免で嬉しかったけど、明日はどやろね。お客さん、だんだん減っていくんちゃうの」
 醤油せんべいをかじりながら、理江さんが返事する。
「サービスが良かったら来てくれると思うけどな」
 典子はかぶりを振った。
「今日は物珍しさから来ただけやと思うで。栄太君が配ってたちらし見たんやろな。そんで、時間もあるし、ちょっとのぞいてみよかっていう話なんやわ」
 菜美もそう思っているが、ある程度のリピーターはいてくれるような気がするのだ。
「学校帰りの学生さんなら毎日でも来てくれそう。私なら、中に入って休憩できる『遠山商店』でおやつ食べると思うし」
 典子は菜美の意見に頷いたが、やはり不安そうだ。
「それは有り難いけどな、学生さんのおやつだけやったら、客単価はちょっと期待できんわ。学生さんが『遠山饅頭』とかの土産を買うてくれるとも思えんし。美味しい弁当とサービスで頑張るしかないんやろ」
 理江さんはにっこりした。
「あのね、理江はお客さんにもっとサービスするからね。明日は今日以上に頑張るつもり。お弁当が売り切れたとき、お客さんの前でお父さんが半泣きになってんの見たから。お父さんが人前で泣くなんて信じられへんわ」
 菜美もしみじみと話すのだった。
「うん。山野さんは深々と頭下げてはったな。すごい感激してはんのが、見ていてよう分かったわ。それ見たら、私も泣きそうになった」
 典子が急に炬燵から出た。
「布団、うちが敷いとくわ。あんたら、そっちの片付けは頼んだで」
 それだけ言うと、襖を開けて隣の部屋に入ってしまった。真っ暗だった部屋に電気がつけられ、押入れの戸を開ける音が聞こえてくる。
 襖の向こうから典子の独り言が聞こえてきた。
「ああ、寒う。湯たんぽないと寝られへんやん」
 理江さんはくすっと笑い、小さな声で話し始める。
「菜美さん。典子さんって、可笑しいやんね。お父さんの話になったら、急に布団敷いたりして」
 菜美もくすっとした。
「けど、山野さんのこと、もう『あのひと』って呼んでない。典子さん、山野さんとの距離が縮まったみたい」 
「それな、理江も思てたんよ。最近は『山野さん』に変わってきてる」
 理江さんはにこにこしながら、炬燵の天板に置いていた丸盆を引き寄せた。
「後片付けしながら話そな。片付けてなかったら、典子さん怒ってしまうわ」
 理江さんは炬燵の天板からそこに急須と空になった湯呑みを移しはじめた。菜美は薄桃色の台布巾で天板を拭くことにした。
 理江さんは菓子盆を茶箪笥にしまうと、菜美の傍らに立った。
「ね、菜美さん。典子さんがお父さんのことを『山野さん』って呼んでた話やけどね。ほんとはお父さんを許してんやろね」
 菜美が何か言おうとしたとき、布団を敷き終わった典子が茶の間に戻ってきた。
「あんたら、ちょっと話が聞こえててんけど」とやたら怖い顔をしている。
 理江さんが慌てて叫んだ。
「わっ、しもた」
 典子も呆れて叫ぶ。
「あんたらって、ほんまにもう」
 菜美はそんな理江さんが可笑しくてならない。しかし、典子はにこりともしなかった。
「言うとっけど、うちは絶対に『山野さん』を許さへんからな」
 そう言い切る典子に、菜美と理江さんは懸命に笑いをこらえるのだった。それを見た典子は慌てて言い繕う。
「ちょっと言い間違えただけやんか。『山野さん』やない。正しくは『あのひと』や」
 典子は炬燵の周りに置かれた座布団を手荒く集めていった。
「さ、もう寝るで。もう十時になんねんから。うちはな、明日も早よ起きて仕込みせなあかんのや」
 ぶつぶつ言いながら典子は座布団を部屋の隅に積んでいく。
 理江さんは丸盆を持った。
「理江、空いた湯飲みとかを厨房に持って行ってくるわ」
 菜美は自分も行こうと思った。茶の間を出れば、この建物の中は暗くて寒い。
「暗いから危ないやん。私も行くわ」
 大丈夫だと、理江さんは軽く手を振った。
「これぐらいやったら、理江ひとりで十分やわ」
 寝間に居る典子が面倒そうに声をかけてきた。
「一緒に行ったらええやんか。ついでにお喋りもしといで。ここで喋られたら、うちが寝られへん」
「そしたら、菜美さん」
「うん。ちょっとだけ」
 菜美は理江さんと顔を見合わせてにっこりした。

 菜美と理江さんは暗い廊下に出た。
 電気は点けているのだが、古い建物だから薄暗くていけない。建て増しした建物ということもあって、廊下は真っすぐに伸びていなかった。厨房へと行く途中には曲がり角もあるのだ。そのうえ、夜の廊下の壁や床はとても冷たい。
「寒いね、理江さん」
「寒いっていうより、理江はちょっと怖いわ。結婚してから夜の厨房、あんまり来てへんもん」
「ああ、そうやったね。大丈夫なん」
 理江さんは微笑んだ。暗がりの中、理江さんの切れ長の目が明るく輝いている。
「いや、ほんまはそこまで怖ないねん。菜美さんとこうやってパジャマで歩くんも、久しぶりで楽しいわ」
 菜美の顔にしぜんと笑が浮かんできた。
「ほんまや。初めて泊めて貰ったんは理江さんの誕生会パーティのときやね。あの日の私、もうどきどきしっぱなしやったよ。何ていうんやろ。理江さんのファンの一人にすぎない私が誕生会に呼ばれて、泊めて貰ったやんか。こんな凄いことってあるんやって、ほんとに感激してたんよ」
「そやね。あの日が懐かしいわ」
 理江さんは目をうるませた。
「あの頃はおばさんも元気にしてやったし。みんなで仲良く典子さんの特上ねこまんま食べたんやね。栄太君から猫のお世話してもらった苺を分けて貰うてんね。大粒のええ苺やったわ」
「うん。楽しかったわ。『遠山食堂』のひと達は温かいと思たなあ」
 理江さんは小さな声で話し始めた。
「理江はおばさんに助けられた。おばさんが亡くなってからは、典子さんが守ってくれた。理江はな、菜美さん。大阪で皆に嫌われてたんよ、我儘やからって。めっちゃ落ち込んでたら、今度はお父さんとお母さんが離婚してしもた。ほんでお母さんの実家に行ったんやけど、そこでも理江は独りぼっちやった。理江の居場所なんて、どこにもなかったわ」
 辛かった頃を思い出して、理江さんは目を赤くした。
 そんな理江さんを菜美は一生懸命に慰める。
「そんな時期やっただけ。誰にでもあると思うわ、何してもあかん時期は。今の理江さんは我儘やないし、明るくて元気やんか」
 理江さんは何かを訴えるような目で菜美を見つめた。
「菜美さん。理江、今夜は思い切り話したい気分。結婚する前に主人には話したことやけど」
「なんかあったん、理江さん」
「なんかあったと言うよりも」
 理江さんの言葉は途切れた。

 厨房に入った。
 菜美は壁のスイッチを押して流し台の周りだけに照明をつけた。
「理江さんはもうお茶、飲まへんの。それやったらお茶っぱ、捨てるね」
「捨てんの、待って。寒いし、飲みたい」
 ポットは使えない。寝る前にポットを洗浄して空にする決まりだった。朝になれば、典子が営業のための新たな湯をそのポットで沸かすのだ
「菜美さん、こっちに来て理江とくっついて。そしたら温まると思うわ」
 暗くて寒い厨房の一角で、菜美は理江さんと体を寄せ合って湯を沸かすのだった。
「ね、理江さん」
 菜美は赤い格子柄の半纏を揺らして笑った。
「私、合宿してるみたいな気分になってきてるわ」
「うん。理江も学生時代を思い出したわ。深夜にこっそり部屋を出てウロウロしてたなあ」
「分かる、それ。先生に見つかって叱られたわ」
 二人は顔を見合わせて明るく笑った。

 熱い湯のみを両手で胸に抱え、ホールの端の席に二人は並んで座った。
「お父さんが言う通り、自販機コーナー作って良かったわ。学生さん、けっこう来てたね」
「うん。秘密基地から厨房に行くとき、私も学生さんけっこう見たわ。自販機コーナーに集まってやった」
 理江さんはお茶をすすりながらぽつぽつと話す。
「この自販機、栄太君が商品の補充とかするんやって。業者さんに頼んだらお金要るんやってね」
「そうなんや。自販機はおじさんの仕事なんやね。自販機、二台あるから大変やわ」
「お父さんと栄太君、経費節減、経費節減って口癖やよ。赤字返上したいからって」
 菜美は熱い湯飲みで両手を温めながら相槌を打つ。
「私もそれ、聞いてる。おじさんが昨日もそう言うてた」
「栄太君は自販機を三台欲しかったみたいやね。ぱっと見たときに明るい色の自販機が三台並んでたら、休憩所がゴージャスになるからやて。飲みもんの種類がバラエティ豊かになって、お客さんの購買意欲がわいてくるって言うてやった。けど、お父さんが今は二台で十分って言うたんよ。厨房でもある程度の飲みもん出すし」
「それも節約やね」
「うん。この村も過疎化って言うの、それが進んでるからやろな。学生さんの数が減ってる。遠山高校、去年も入学の志願者が定員割ったらしいわ」
 菜美は深刻な顔になった。
「どこでもそうなんちゃうの。私が卒業した大阪の女子高、何年か前に共学になったんよ。噂で聞いてんけど、今は子どもの数が少ないやんか。共学にして生徒数を増やそとしたんやて」
 理江さんは重々しく頷いた。
「遠山小学校も一学年で一クラスやねんて。まあ、昔からそうやけど。けど、生徒数は昔ほどにないみたい」
「私らのときはもっと生徒数あったよね。一学年で何クラスかあったもん」
 菜美は心配になった。理江さんは何か考え込んでいるようで、返事をしてくれないのだ。
「私、何か余計なこと言うたんかな」
「ううん。そんなんやない」と理江さんはためらいがちに口を切った。
「こんな話してええのか分からんのやけど。理江ね、お金を少しやけど、お父さんに渡そとしたんよ」
 菜美は本当に驚いた。
 お茶を飲むことをやめて、理江さんの顔を覗き込むようにして訊くのだった。
「山野さんにお金渡すって、何でなん」
 理江さんは困った顔をした。
「お金を渡そうとした理由は言うけど、理江をええ格好しいやって思わんとってな」
 菜美は微笑んだ。
「思うわけないやんか」
「有難う。そしたら話すわ」と理江さんは頬を紅潮させた。

「ブログとか動画サイトのおかげで、理江にも貯金ができたんよ。それを全部やないけど『遠山食堂』の赤字うめにお父さんに渡そと考えたんよ」
 それはなかなか出来ないことだと、菜美は感動した。
「そうなんや。お父さん思いなんやね」
「ちゃう、ちゃう。お父さんを好きやけど、そこまで親孝行やない。おばさんと典子さんに感謝する気持ちがすっごくあったからね。恩返しする機会が来たと思うて、貯金の一部をお父さんに差し出しただけ」
「どっちにしても、理江さんは立派やね」
「理江は立派やないし、これは当り前のことやと思てる。理江が貯金できたんは、おばさんと典子さん、栄太君のおかげやねん。理江は勝手におばさんの家へ駆け込んで、そのまま居ついてしもた。もう一人暮らしもできる年齢やったけど、おばさんやったら理江を受け入れてくれそうな気がしたから」
 理江さんはふっと笑った。
「それでな、他人にまた嫌われて無視されるんが嫌で、理江はお店から外に出んかったんよ。そんな理江を心配して、おばさんは典子さんと栄太君に相談した」
 理江さんは指先で涙を拭った。
「栄太君の車で典子さんと三人であちこち出かけた。気分転換やね。天橋立とか伊根とか。福井とか鳥取も行ったし。そんときに撮った理江の写真がほんまに綺麗やからって、栄太君がブログにお出かけの記事を書いてみるかって言うてくれた。理江が嫌なら、無理にとは言わないからって」
 菜美は黙って理江さんの手を強く握りしめた。理江さんの深い悲しみを知った菜美には、そうすることしか出来ないのだ。
「けどな」と青地の半纏に包まれた理江さんの肩が悲しそうに震えている。
「それ、理江は嫌やった。ブログ見た大阪の知り合いが、理江のことを何か悪うに言いそうで怖うなってね。理江が嫌われ者やった話をネットで拡散されたらどうしょうと思たわ」
 菜美は胸がつまった。
 力を込めて言わずにはいられない。
「理江さん。さっきも言うたけど、昔のことはもう忘れて。誰かって、何しても上手くいかんかったり、人間関係でも辛い時期があるんやから」
 理江さんは頷いた。
「栄太君もそう言うたわ。我儘で高慢だった理江は大阪で修行していたのだって。昔の理江を持ち出して煩く言うひとがいるかもしれないけど、その行為こそが世間の非難を受けるのだとも。それで理江は決心したわ」
「理江さんは強いと思うわ。辛さを乗り越えて今の自分になったんやから」
「有難う」と理江さんはさらに涙をこぼすのだった。
「この頃から典子さんも優しなってきて、撮影前に理江の髪を結ってくれるようになったわ。顔隠せるような帽子とかショールも、典子さんが買ってくれてたんよ」
「典子さん、口はちょっとあれやけど、ほんまは優しいひとやもんね」
「実はね」と理江さんは打ち明けるのだった。
「理江は散歩しながらいろいろ呟いてたけど、実はあれ、典子さんが作ってた文章なんよ。野の花が可憐で愛おしいとか、遠山町の空はとても青くて透明だとか。理江はそれを普通に読んでただけやねん」
「知らんかったあ」と菜美は明るく笑った。
 正直なところ、理江さんの心優しい呟きが典子の創作だったことにがっかりはしている。アンニュイで美しい理江さんの、自然を愛する繊細な感性に惹かれたのだから。しかし、理江さんの人柄を知った今は、驚きの告白をされても優しい気持ちになれるのだ。
「前置きが長うてごめん。そんなわけで、理江はおばさんと典子さんに恩返しがしたかった。そやから、お金を出そうと思たんよ」
 菜美は頷いた。
 自分が理江さんなら、やはり同じことをしたと思うのだ。
「お父さんの反応は微妙やった。けど、典子さんが絶対に受け取らないって言うてね、終いに怒り出したんよ」
「えっ。典子さんが理江さんに怒ったってことなん」
「怒ったと言うより、あれはアドバイスやろな。長い人生、何があるか分からんのやから、しっかり貯金せなあかんって言われたわ。理江が働いて貰ったお金なんやから、自分自身のために使わなあかんとも言うてた。それ聞いて、お父さんは黙ったんやけど」
 理江さんは小さくて寂しげな笑みを浮かべた。
「店頭でお茶配るサービスも自分からするって言うたわ。典子さんは嫌な顔してたけど、理江の頑張りでお客さんが来てくれたら嬉しいと思たから」
「そうやったんや。理江さん、お客さんと写真も撮ってたしね。ずっと笑顔で居てる理江さんは凄いと、私は思てたんよ」
 理江さんは湯飲みをテーブルの上にコトンと置いた。
 改まって、菜美の顔を見つめて話すのだった。
「しばらく『遠山商店』で暮すつもり。典子さんは理江を気遣って、手伝いは要らんって言うたけどな。主人は出張であんまり家に居てないし、この話をしたら『行ってきたらええ。お父さんを手伝うて、お店の売り上げに貢献してこい』って賛成してくれた」
「優しい旦那様やね」
「主人はね、この村を繁栄させたいお父さんの計画を応援したいみたいやね。いずれは、お父さんの仕事を手伝うんやないかな。まあ、主人がお父さんの店を手伝えって言うてんやから、理江は家に帰らんで思う存分に『遠山商店』で働けるわ」
 理江さんは少し得意そうに、えへへと笑うのだった。
「けど、理江がしょっちゅう『遠山商店』に居てんのはあれやろうね。そやから、理江は典子さんに代わって家事仕事をするつもり。洗濯したり、掃除したり。たまにだけ店頭に出るわ」
「凄いやん、理江さん」
 菜美は笑顔を見せたが、心は重く沈むばかりだった。
 山野の村おこしの計画に、理江さんの夫は賛同している。それもあるから、妻が『遠山商店』に泊まりこんで働くことに異存はないのだ。菜美はそれを羨ましく思った。自分も理江さんのように、父や夫の夢を叶えるために生きたかった。

 
 
 
 
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