第33話

文字数 2,882文字

 霧子が亡くなってから一年と半年が過ぎた。
 季節は春となり、この遠山町にも桜が咲き始めている。その薄紅色の花に見とれるひとの姿に、霧子を失った『遠山食堂』の人々もうららかな季節の訪れを思うのだった。

 三月のある晴れた日。
 菜美は理江さんと二人で『遠山食堂』から遊歩道へと歩いていた。午後の散歩である。
 理江さんは楽しそうに空を見上げた。
「散歩にちょうどやね、今日のお天気」
 菜美も同じように空を見上げて、しみじみと話すのだった。
「うん。空がほんまに青いんやねえ。久しぶりに遠山町に来たんやけど、やっぱり私はここが自分の故郷みたいに思えるんよ。今の私、心が広々してるわ」
 理江さんは戸惑ったように小さな声で菜美に聞いてきた。
「なあ、菜美さん。理江の結婚披露宴に来てくれること、ほんまに抵抗なかったん」
 菜美は笑った。春の野に相応しい、明るくて楽しそうな笑い声だった。
「何でそんなこと言うのん。当たり前やんか。私は理江さんを友達やと思てんやから」
 理江さんはほっとしたようだ。
「有難う。理江は菜美さんが一番の友達やと思てる。それやから、菜美さんを怒らせたらあかんって悩んだんよ」
 菜美は理江さんの腕をとった。
「理江さん、気にしすぎやで。典子さんに聞いたわ。理江さん、私を結婚披露宴に呼ぶの、すっごい迷うてんってね」
 理江さんは困った顔をした。
「だって、そうやんか。栄太君のことを蒸し返すようで悪いけど、理江ひとりが幸せになるのは気が咎めたんよ」
「かまへんのよ、そんなん」と、菜美は大声で笑い出した。
「おじさんのことなら気にせんといて。実は私、別れて良かったと思てんねん。理江さんの結婚披露宴でおじさんに会うても、私はほんまに大丈夫やからね」
 理江さんは感心したように言うのだった。
「菜美さん、ほんま強いなあ」
「私は人生をリセットしただけ。遠山町に初めて来た頃から私、ずっと人生のリセットを考えてたんやけどね。とりあえず、私は転職したわ。今はいろんな資格に挑戦中やねん。そんなんやから、おじさんが自分の元彼やとか、もうきれいに忘れてたわ」
 理江さんは立ち止まり、穏やかな春風に長い髪を揺らした。
「菜美さん。人生をリセットしても」とお茶目な顔を見せて笑う。
「理江のことは覚えていてくれて、ほんまに嬉しいわ」
 菜美は理江さんの顔に見惚れた。微笑む理江さんは薄紫の花のように優しくて美しい。結婚が決まったからだろう、儚げな顔立ちには変わりないが、眼差しや口元から穏やかに満ち足りたものが溢れていた。

 理江さんはいきなり菜美にぴたりとくっついた。
「菜美さん。理江と腕組んで歩かへん」と腕を差し出す。
「うん、そうやって歩こか」
 菜美は理江さんと腕を組んだ。そうやって仲良く遊歩道へ入っていく。心からの友人なら、腕を組むだけでも幸せな気持ちにしてくれるのだ。
 寒い冬が終わって、春という明るい季節になったからだろうか。遠山川の流れも穏やかだと思える。
「菜美さん。ちょっと座ろか。川を見ていたいねん」
 菜美は理江さんに誘われてベンチに座った。 
「ジュースとお菓子、菜美さんの分も持ってきたんよ」
 手に提げたトートバッグから、ソーダ水とミルクチョコレートを理江さんは取り出した。
「ゴミはこの袋に入れてな」と古くなったレジ袋も菜美に見せるのだった。
 菜美は顔いっぱいの笑顔で礼を言った。
「有難う。遠慮なく頂くね」
 霧子の葬式以降は、栄太と別れたこともあって、菜美は遠山町を訪問していない。
 それでも、メールをしたり『仲良しブログ』からメッセージを送ったりして、菜美と理江さんは互いの近況を知らせあってきた。『遠山食堂』の客とこの三月に結婚すると決めたときも、理江さんはすぐに菜美に知らせている。
 しかし、こうして理江さんの顔を見ながら話が出来る嬉しさは、言葉にならないものだった。
 理江さんも菜美と同じ気持ちでいるようだ。以前と変わらない話し方をしているが、理江さんは時どき、声を詰まらせてしまった。菜美はそれを笑いながらも、自分も声が震えて仕方がなかった。
 ソーダ水を飲み終えたころ、理江さんが時間を気にしはじめた。
「四時やね。そろそろ帰ろか。典子さんが待ってるし」
 今夜は『遠山食堂』で菜美の歓迎会が行われるのだ。菜美は典子の手料理を楽しみにしている。

 遊歩道を出るとき、理江さんが「ごめん」と菜美に謝った。
「この時間って、栄太君は家に居てるみたいやねん」
 遊歩道から『遠山食堂』に行くには、栄太の家の前を通らねばならなかった。菜美たちが遊歩道に行くときは栄太も留守をしていたようだ。しかし、この時間には家に戻っていることが多いと、理江さんは申し訳なさそうに言った。
 菜美は無理に微笑んだ。
「そうやったんや。おじさん、留守やないんやね」と呟くように言った。
 体調が本当に悪くなった霧子は栄太の家で療養していた。それで、菜美は栄太の家まで見舞いに行ったことがある。あのときに霧子の死が近いと感じたことや、栄太に別れを告げられた記憶が、菜美にまざまざとよみがえったのだ。
 理江さんが不安そうに声をかけた。
「菜美さん、菜美さん。大丈夫なん。遠回りしたら栄太君の家の前は通らへんけど、時間がかかりすぎるしなあ」
 菜美は急いで笑顔を作った。
「大丈夫。私は平気やで」
 理江さんは黙ってしまった。菜美の思いを察したようだ。
 
 栄太の家に近づいた。
 黙りがちな理江さんに菜美は楽しそうに話しかけた。
「見て、理江さん。おじさんの庭に菜の花がいっぱい咲いてる」
 理江さんは小さく頷き、菜の花を見つめるのだった。
 栄太の庭には畑があり、その周りに黄色の可愛い菜の花が並んでいる。
 その向こうに人影が見えた。そのひとはしゃがんで忙しく手を動かしている。畑で草抜きをしているようだ。
 あれは栄太なのだと菜美は思うが、今まで通りに挨拶するのは何となく気が進まない。
 別れてから一年以上が過ぎたが、栄太は今も、菜美のブログ記事に「いいね」はくれている。しかし、コメントはなく、もう連絡を取っていないも同然ではあった。
 どうすれば良いのか分からない。人生をリセットしたつもりだが、やはり、栄太と顔を会わす勇気が菜美にはなかった。かと言って、知らない振りをして通りすぎることも出来ない。それは失礼だと思うのだ。
 理江さんは菜美の気持ちが分かったようだ。
「お願い、菜美さん。理江が栄太君に挨拶するからな。理江と一緒に、栄太君に『今日は』って、してくれへん」
 菜美は正直に答えた。
「有り難う。実は助かるわ。平気なつもりやったけど、おじさんが近くに居てたら緊張してあかんわ」
「無理もないわ。ただな」と理江さんは控えめに話すのだった。
「栄太君とは理江の結婚披露宴でも顔会わすんやし。もちろん、栄太君もいろいろ考えてると思うけど」
 菜美はゆっくり頷いた。
「そうやろね。私もそう思てるし」
 理江さんは栄太の家の前に立ち止まった。両手を大きく振りながら、栄太に聞こえるように大声で叫んだ。
「栄太くーん。理江やよお。今日はっ」










  


 



 
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