第23話

文字数 3,083文字

 栄太が手を差しのべた。
 「お嬢さん。立ちましょう。そんな湿ったところには座らないほうが良いと思います」
 菜美は素直に頷いた。
 「うん。地面がちょっと湿ってる」
 デニムのお尻がひんやりしていて気持ちが悪い。菜美の困った顔に栄太が笑った。
 「今日はもう、お風呂に入って休んでください」
「寝れるわけないやん」
 菜美はむくれた。
 「私な、久しぶりに遠山町まで来たんよ。それやのに、急に別れ話なんかされたわ。不意討ちを食らった気分やね」
「すみません。お嬢さんの言う通りだね」
 うなだれた栄太に菜美は文句を言い続ける。
 「私、今から大阪に帰ろかと思てる。誰でもそう思うんちゃうかな」
 「本当に申し訳ない。しかし、電車はもう動いていないよ。朝までここに居たほうが良いと思います」
 菜美は素っ気なく答えた。
 「典子さんらが居てるから、今夜は泊めてもらいます。明日の朝に大阪へ帰るから」
 栄太は水道の蛇口をひねった。
 「では、僕は顔を洗いますね。今夜は暑いです」
 栄太は長身をかがめて、じゃぶじゃぶと大量の水で顔を洗い始める。いつまでも顔を洗い続けている様子に、菜美はやっと気がついた。
 「おじさん、泣いてんの」
 「そうです。お嬢さんをこんなに怒らせた自分を僕は責めています。どうしてあんなことを言ってしまったのだろう」
 栄太は蛇口を強くひねって水を止めた。首に巻いていたタオルで顔をそっと拭う。
 「初めはお嬢さんとのお別れが辛くて涙が出ました。泣かないでおこうと思ったのですが、どうにも涙が止まらなくて。今はこれほどに女々しい自分が悲しくて泣いています」
 菜美は、つい笑ってしまった。
 「おじさんって、ほんまに面白いね。どんなときでも笑えるひとなんやね」
 栄太はしょげたまま、首を横に振った。
 「そんなこと、笑いながら言えるお嬢さんに僕は驚いています」
 菜美は夜空に向かって両手を広げた。
 「見て、おじさん。空は大きいし、星がきれいやね」
「そうだね」
 栄太も夜空を見上げた。
 「しかも、空は実に神秘的な存在だ。地球から遠くにある星達が、この場所にいる僕らに畏敬の念さえ感じさせる。宇宙は想像できないほど素晴らしい世界だと思うよ」
「ほんま、私も分からんなりに凄いと思うわ」
 夜空の星に見とれている菜美。
 栄太は尋ねた。
「ところでお嬢さん、話を急に変えましたね」
「うん、知って話を変えたんよ。私と別れたいおじさんの話は分かってるし、それは仕方ないと思うわ。けど、私はきちんと考えてから話がしたい」
「そうだね。僕も無粋だな。今夜は夏の星座について語りあかそう」
 菜美は呆れた。
「別れたいひとと夏の星座について語りあかすなんて、おじさんはそんなこと考えるんやね。私にはそんな気、全然ないわ」
「尤もだ。お嬢さんの考えは一般的です。いや、平均的と言い換えようか」
 栄太は顔を拭いたタオルをバケツの縁に掛けた。菜美にはそれを不思議に思った。
「タオル、バケツで干すんやね。ちょっと変わってるわ」
「僕は変わったことをしていない」
 栄太はこともなげに答えた。
「見てください。これはタオルではなく、ただの雑巾です。タオルはタオルハンガーに、雑巾はバケツで干すものなのです。そう、僕は一般的な干し方をしている」
「おじさん、雑巾で顔を拭いてたんや」と菜美はまた呆れている。
「もちろん、そっと拭きましたよ。ごしごしと雑巾で顔を拭きたくないですよ」
 菜美は笑いながら栄太を見上げた。
「やっぱり、おじさんはどんなときでも笑える」
 栄太は寂しそうにうつむいた。
「好きで雑巾を使っているわけではない。好きで誰かを笑わせているわけではない」
 余計なことを言ったかと、菜美は栄太に申し訳なく思った。
「そんな顔しなくても大丈夫です。それより、僕のお嬢さんへの想いを知ってほしいと思っています。そのひとを好きだからこそ、別れることもあるのです」
 菜美は遠慮なく言った。
「好きだから別れるって、おじさんは言うてんやね。何にしても失礼過ぎて私は怒ってる。このタイミングで、急に別れ話なんかされたんやし。けど、別れる理由は知りたいと思うわ。話し合ってきれいに別れんのがほんまやろうね」
「有難う。僕は嬉しいです」
「どういたしまして」
 返事は明るいが、菜美は目を伏せている。今日は霧子を見舞うために遠山町に来たはず。それが、着いたその日に栄太に別れを告げられた。
「お嬢さん。ご覧なさい」
 栄太は夜空を指さした。
「僕は夢を追い、現実に悩み、空を見て考える」
 菜美は自分が立っている地面を栄太に示した。
「こっちも大事やけどな」
「なるほど。お嬢さんは地に足がついた考え方をしているんだね」
 栄太は腕を組んで考えている。
「僕には夢がある。その夢を叶えるためには、それだけにエネルギーを注ぎたいんだ。それが出来ないと夢はどんどん遠くなるのだよ。僕はそう思っている」
 菜美は理解した。栄太は自分が嫌いになったわけではない。ただ、夢を追っている今は、恋愛や結婚を必要とはしていない。
「僕はこの人生を有効に使いたい。妻や恋人と暮らすことだけが幸せな人生ではない」
 菜美は腹が煮えくり返る思いだ。感情的にならないように、菜美は努めて話をしてきた。それなのに、栄太は自分を突き放したのだ。
 少し黙ったあとで菜美は栄太を責める。
「それでええやんか。物事、そんな簡単なもんやないと私は思うけど、おじさんがそんな風に考えるんならね。おじさんはひとりで夢に生きてる。それやから、他のひとには夢を見せてあげられないんやね」
 栄太はさすがに衝撃を受けたようだ。
「お嬢さん。僕は」
 何か言いかけたが、栄太は勝手口に引き返し、口を固く結んだままで鍵を開けた。
 振り返り、菜美を手招きする。
 菜美は勝手口から炊事場へ入った。その後に栄太は自分も入って鍵をかけた。
「お風呂に入って休んでください。お嬢さんの寝室は玄関横の客間だからね」
 栄太は再び黙り込んで炊事場の電気を点けた。

 明るくなった炊事場で栄太は困惑している。
 ダイニングテーブルには白いレースのクロスが掛けられていた。その上には紙箱が置かれてあり、薔薇の模様の包装紙で包んである。その傍らに二人分の紅茶茶碗とティーバッグが用意されていた。
「手紙もあるぞ」
 栄太は水色の封筒を取り上げた。
「お嬢さん。これは理江さんからのプレゼントですよ。手紙には『ごめんね。遠山町には喫茶店とかレストランがないの。ここは何もない村なんよ。炊事場で悪いけど、久しぶりにデートしてね』とあります」
 菜美は理江さんに申し訳ないと思う。
「おばさんが病気で大変やし、自分も忙しいのに。私らのためにお茶の用意してくれたんや」
「そうだね」と栄太は暗い目で理江さんからの手紙を封筒にしまった。

「わっ、びっくりしたあ」
 突然、素っ頓狂な声がした。
「ごめーん。二人が居てんの、知らんかった」
 炊事場から居間に行く廊下に理江さんがいた。無邪気に笑っている。
「まだ庭を散歩してると思たんよ。理江、冷たいもん、取りに来ただけやから」
 そう言うと、理江さんは急いで居間に入ってしまった。閉められた戸の向こうで、理江さんが叫んでいる。
「二人とも楽しそうで良かったわあ」
 菜美は栄太と顔を見合わせる。
「言えないな」
 栄太の呟きに菜美は頷いた。
「今はね」
 栄太は椅子を引き「お嬢さん。お座りください」と微笑んだ。
「今はおばさんが第一だ。僕らは以前のように恋人でいよう」
「腹は立ってるけど仕方ないわな。こんなときに皆に心配かけたらあかんもん」
 菜美は素直に応じた。

 









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