第35話

文字数 5,447文字

 栄太は七時を過ぎてから『遠山食堂』にやってきた。
「気持ちは焦りましたが、忙しい僕にはこれでもベストタイムなのです」
 とたんに典子が怖い顔を見せた。
「栄太君。皆さん、お待ちかねやってん。ベストタイムの自慢話する前にちゃんと謝ってな」
 栄太は屈託のない笑みを典子に向けた。
「全くその通りだよ。僕って失礼だよね」
 呆れてものが言えない典子に、栄太は大きく膨らんだレジ袋を差し出した。
「今夜はお嬢さんも一緒だからね。頂きものだが、美味しいデザートを持ってきたのさ」
 栄太の言葉に、真っ先に喜んだのは理江さんだった。
「きゃっ。理江の大好きなあんこたっぷりのお饅頭かも」と、子どものようにレジ袋のなかを覗き込んだ。
 栄太が笑いながら答えた。
「残念だが、これは和菓子ではない。高級フルーツゼリーだよ」
 典子が露骨に嫌な顔をした。
「ゼリーなんて、うちはしょっちゅう自分で作ってる。ここの庭で採れたもん使うてのゼリー、自然な美味しさで絶品やねんけどな。それやのに栄太君、わざわざ他所で作ったゼリーなんか持ってきたんや」
「典ちゃんのゼリーは絶品だと僕も思っている。だから、いつも僕は言っているのさ」
 菜美は二人の会話をじっと聞いていた。その経緯はよく分からないが、栄太が何かの考えがあって、典子に話しているような気がする。
 その横では「オレンジとパイン。こっちは何やろね」と理江さんが楽しそうに呟いている。レジ袋の中を覗き込み、フルーツゼリーに入っている果物を確かめているのだ。
 そんな理江さんに栄太は微笑んだ。
「理江さんはゼリーより水羊羹だと思っていたよ。それにしても、楽しそうにゼリーを見ているのだね」
「栄太くんがくれたゼリーは可愛いラッピングやから。こんな可愛いデザート、見たら誰かて食べたなるやん」
 栄太はにっこりした。
「そうです。ゼリーには透明な美しさがありますね。食感も良いし、贈られると嬉しくなると思うよ」
「やれやれ」と典子が溜め息をついた。
「今日も例の話を始めよと思てんやろ、ゼリーの用意までしてきたんやね。もう、昔から栄太君はしつこいんやから」
 典子の不機嫌な顔を見ても、栄太は一向に怯まなかった。それどころか、明るい笑みを浮かべて話すのだった。
「そうです。僕はしつこいのですよ。しかし、今日は意図してゼリーを選んだわけじゃない。これは本当に頂き物で、僕はお嬢さんのためにおすそ分けに持ってきたのだ」
 典子は首を横に振った。
「うちを説得しよと思て、栄太君はいい加減なこと言うてんやろ。菜美さんはな、ゼリーより肉まんとかチョコレートが好きやねんで」
 不機嫌な典子に栄太は真面目に話すのだった。
「典ちゃん、僕は本当に心配なのだよ」
 典子は暗い表情になった。
 傍らで理江さんが心配そうに典子の顔を覗き込んでいる。
「僕は前から思っていた。典ちゃん特製ゼリーを店のメニューに加えれば良いって。箱や熨斗を用意出来たなら、なお更に良いことになる」
 栄太は理江さんの顔を見た。
「理江さんもそう思いませんか」
「うーん」と理江さんは首をひねって考えている。
 理江さんは菜美に訊いてきた。
「菜美さんはどう思う」
 答えに困っている理江さんのために、菜美は一生懸命に考えた。
「典子さんのゼリー、美味しいから絶対に売れると思う。箱に入れたらお遣い物にもなって喜ばれるし。何かのお返しとかに、町までわざわざお菓子買いに行かんでも済むもんね。そうなったら、私もブログ書く度に典子さんのゼリーを大々的に紹介する」
 栄太は拍手をした。
「我が意を得たり、だよ。お嬢さんは実に頼もしいぞ」
 栄太があまりに喜ぶから、菜美はつい逆らってしまった。
「ちょっと待って。おじさんの考えに賛成してるん やない。私は単に、典子さんのゼリーが美味しいって話してんやけど」
 今度は理江さんが吹きだした。
「もう、二人がお喋りしたら、すぐにそのパターンになんやから」
 皆が笑う傍らで、典子はひとりむくれていた。
「うち、そんなんこと知らんわ」と拗ねたように言い捨て、そのまま厨房に入っていった。
 理江さんが困ったように小さな声で話をする。
「典子さんはこの店が心配やねん。ちょっと人手不足なんやけど、理江が結婚したらこれは深刻な問題になるやろね。手伝いには来るけど、前ほどは働かれへんわ。典子さんは今も朝から晩まで仕事してるけど、体力がもう限界。そんなんで今のお店は不安定やから、ゼリーの話まで考える余裕はないと思うねん」
 ここで理江さんは困惑した顔になった。
「あのな、菜美さん。実はライバル店が出来んねん」
 理江さんは小さな声でその話を教えてくれた。
「大遠山町に大衆食堂が出来るって噂があんねんわ。こっからは遠くやない場所やからね、典子さんは心配でたまらんのよ」
 菜美は思った。
 自分が『遠山食堂』に通って典子の手伝いをすれば良いのだ。
 会社を辞めてからは、資格を取るための勉強を優先する生活となっている。そのために短期のアルバイトをしていて、定職には就いていないのだ。今の菜美なら典子を手伝う時間はあった。
 栄太が大声を出した。
「違うのです、理江さん。僕の考えはですね」
 栄太の話を遮るように、厨房から典子が怒鳴るように叫んだ。
「理江さん。早よ手伝うてくれへんかなあ。栄太君、勝手に菜美さんの歓迎会に飛び入り参加して、ここに来るのんも遅かったんや。おかげでうちは手間取ってる」
 栄太は言いかけた言葉を引っ込めた。
「僕は肩身が狭くなりましたよ」
 理江さんは「なんでやのん」と言って笑った。
「とにかく、理江も厨房行ってくるわ」
 菜美は微笑んだ。ばたばたと厨房へ行く理江さんの後姿は、少女のように可愛いかったからだ。
 栄太もそう思ったようだ。
「結婚してからも、理江さんは純粋で可愛いままなのだろう」
「そやろね」と菜美は頷いた。
 厨房から理江さんの明るい声が聞こえてくる。
「典子さん。ごめーん。理江って、ついついお喋りしてしまうねん」

「では、僕は今から秘密基地へ行ってきます。そこで山野さんに連絡を取ります。ゼリーの件については、僕らはまだ協議の途中なのですよ」
 菜美はぼう然とした。
「山野さんとゼリー。関係あったんや」 
 栄太は難しい顔になった。
「今、この店は転換期に入っている。うっかりすれば永遠に閉店することになるだろう」
「えっ」
「人手が足りないのですよ。しぜんと商品提供は遅くなるし、レジも待たせることになるよね。近くで他の飲食店が開業すれば、客は当然のようにそっちへ流れて行くよ。それで、山野さんはホールを閉めるつもりだ。『遠山食堂』は近いうちに、地元の名産品以外にお弁当も販売する『遠山商店』に転向するよ。そのときは典ちゃんのゼリーを目玉商品として扱いたいのだ」
 菜美は肩を落とした。
「そうやったんや」
「そうだ。もともと客の多い店ではなかったからね、理江さんの代わりになるひとを雇う力がない」
「知らんかったわ」
 栄太は暗い眼差しになった。
「お土産屋にすれば店は何とかなると思うのだよ。山野さんもずいぶんと悩んだが、この結論に達した」
「大変やね」
 栄太は考え深い眼差しになった。
「典ちゃんはそれを嫌がっているが、最終決定権は山野さんにあるのだよ。あの建物は山野さん名義のものなのさ」
 菜美は目を丸くした。
「そんなんや」
「そうですよ。営業自体はおばさんがしてきたのだが」
「びっくりしたわ」
 栄太は重々しく頷いた。
「税金も山野さんがずっと払っていたのさ。売り上げは店を切り盛りするおばさんへのお礼だと言って、山野さんは決して受け取らなかったが」
 正直なところ、菜美には意外な話だった。山野は何かと強欲な男だと思っていたのだ。
「そうやったんや」
「面白いね」と栄太が笑い出した。
「お嬢さんは一言だけの短い返事が好きなのかい。さっきから、僕ひとりで話をしている気分だよ」
 菜美は涙が出るほど笑った。
「ごめん。おじさんの話にびっくりしてる。お土産屋とか、お店は山野さんのものやったとか」
「そうだね。お嬢さんでなくても驚く話ばかりだろうね」
 急に鋭い目になって、栄太は菜美を見つめた。
「山野さんは世間が言うほど悪いひとではないのだよ。典ちゃん母娘を捨てたのは真実だがね。山野さんは自分の両親に逆らえなかった。理江さんのお母さんと結婚するようにと、強く言われたようだね。典ちゃんのお母さんに夢を追う生き方を罵倒されたのが、別れのきっかけではあるが」
 菜美は黙っていようかと思ったが、やはり栄太に自分の考えを話してしまった。
「山野さんの人柄がよう分からへん。山野家と関係ない私が言うのもなんやけど、今でも夢を追ってる話は何となく分かるんよ。けど、ほんまに好きやったら、結婚できへん相手との間に三人も子どもを作らへんわね。相手の女のひとが苦労するんちゃうの。今度のお土産屋のことかって、山野さん、典子さんの気持ちを考えたら何も言えないと思うんやけど」
 栄太は顔を紅潮させた。
「分かってほしいよ、お嬢さん」
 栄太は悲しげに声を震わせる。
「お嬢さんの考えは正しいと思うな。でも、山野さんは自分の過去を思い、今はとても苦しんでいる。それで、あのひとは皆のために頑張っているのだ」
「皆って、それは」と菜美は言いかけて口をつぐんだ。
 栄太の話を最後まで聞いてから自分の意見を言おうと思った。 
「そう、山野さんは皆のためになりたいのだ。山野さん自身の名誉欲もあるが、人々のために村おこしを考えている。ここは何もない村だから、いつかは本当に何も無くなりそうで心配だと言っていたよ」
「おじさんもそれが心配なんやね」
 栄太は少しだけ黙った。
「それは少し違うかもしれないね。僕は何もない村で良いと思うから。自分達で米や野菜を作り、静かに暮せば良いと考えている。それはそうなのだが」
 栄太は悲しく微笑んだ。
「それはそうなのだが、この村には医者がいない。体調を崩せば、一日に数本しかないバスに乗って町の病院に行くことになる。僕の周りでも、通院に苦労しているひとが何人もいるよ。それと、実用的な衣料品をこの村ではほとんど販売していない。村で暮らす皆が皆、ネットで買い物が出来るとは限らないよ。結局、バスに乗って町に行くことになる。往復のバス代を考えてごらん。このままでは村の人口は減っていくだろう」
 菜美は頷く。
「ちょっと不便やね」
 栄太はいっそう真摯になって、菜美に夢を語り始めた。
「山野さんは遊歩道周辺を観光地化して、日本海へ行くひとのためにも簡易宿泊施設をつくることを考えている。それに合わせて、小規模で良いから商業施設も欲しいともね。僕はその商業施設の中に診療所や洋品店を入れたいと考えたのだ」
 菜美は呟く。
「凄い話やわ」
「そうだ。これは凄い話だよ。なんとか実現できても、それからの運営は大変なことだからね。施設は作れても、どれだけのひとが来てくれるだろう」
 栄太は姿勢を正した。
「僕はこの夢を選んだからお嬢さんと別れることにした。本当に申し訳なかったが、僕は自分個人の幸せよりも大切なものがあったのだ。ここは僕が生まれた村だからね」
「うん」としか菜美は言わなかった。
「僕は山野さんと二人、これからの人生を歩いていく。趣旨などの違いはあっても、二人に共通している考えは、この何もない村を豊かにすることなのだよ。山野さんの名誉欲から出た話だがね、僕はその手伝いを申し出たのだ。上手くいけば、ここは医者のいない村でなくなるのだ。僕は山野さんに約束したよ。山野さんに何かあっても、僕が跡を継ぐことを」
「そうやったんや。おじさんから山野さんに協力するって言うたんや」
「そのときにね、山野さんは僕に問いただした。お嬢さんを幸せにできないなら、自分を手伝わなくて良いと言われたよ。自分と同じ轍を僕らに踏ませたくないようだ」
 はっとして菜美は栄太の目を覗きこんだ。
「これは言うたらあかん話やけど、私が典子さんのお母さんと同じようになるってことやね」
 栄太は真摯な眼差しで菜美を見つめ返した。
「山野さんは危惧したのだよ。若くて明るいお嬢さんに苦労させてはいけないって。これは僕の推測だが、典ちゃん母娘を哀しませたこと以外に、山野さんは妹であるおばさんの死がとても辛かったようだ。可愛い妹に死ぬまで苦労をさせたからね。山野さんは言っていたよ。人生では、幾つもの幸せを手に入れることは難しいものだと」
 菜美は目をうるませた。
「もう、山野さんのことは何も言いません。私のことも考えてくれてたんやから」
「そうだね。山野さんは皆の幸せと『遠山食堂』の存続について、今は一生懸命になっているよ」
 そう話す栄太は目をきらきらと輝かせていた。

 菜美は不思議な気分になっている。
 心のどこかで、栄太の生き方に尊敬に似たものや憧れを感じてならないのだ。
 山野についても、菜美は考え込んだ。
 自分の夢を叶えるために周囲の人々を捨てた山野の罪は、そう簡単に消えるものではないだろう。しかし、それを後悔して、典子をはじめとする人々に尽くすのなら、山野の罪も少しは許されたい。そう考える自分は間違っているのだろうか。典子達の苦労を知らないで、勝手なことを言っているような気もするが。

 厨房から典子が叫んでいる。
「菜美さんも手伝いしてな」
「はあい」と菜美は笑顔で応えた。
 今夜、ゆっくり考えよう。山野の話より、今は典子の手伝いが先だった。
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