第15話
文字数 4,598文字
「お嬢さん。僕は今でも東京が好きだ。あの日、本当は東京に戻る気でいたんだ」
栄太は寂しそうに菜美を見つめた。
「それがね、僕は典ちゃんが心配で遠山町に留まってしまった。あの気の強いひとが僕に悩みを打ち明けて泣いたのさ。典ちゃんは向こうっ気が強いだけだよ。本当はとても繊細なんだ」
菜美は姿勢を正した。栄太の話は真面目なものだから、自分もきちんとした姿勢で聞いたほうが良い。
「そのときは祖母の葬式があって、たまたま僕は遠山町に帰っていたんだ。いろいろ大変だったので、母が僕を頼ってね、なかなか東京に戻れなかった。そんなときに、典ちゃんが泣いたのさ。結局、僕は自分の母親と典ちゃん姉妹のためにここに残ったんだ。これでいいのかと一年ぐらいは自問を繰り返したよ。でも悩んだ結果、自分がここで生きる道を見つけることが出来たからね」
「おじさんは信頼されてたんや。優しいもんね」
「僕が優しいとかの話ではないだろうな。父は僕が高校生のときに死んだ。名古屋にいる兄は仕事が忙しくて、祖母が死んだときはあまり休めなかった。僕は無職だったからね、母も頼みやすかったと思うよ」
「えっ、そうなんや」
菜美は驚いた。思わず口に出る。
「おじさんって、東京にいてるときから無職やってんね」
栄太はのけぞって笑った。
「いやはや、このお嬢さんは素直すぎるぞ。何を言っても言われても、いつも真っ直ぐな言葉しか出てこないひとだ。僕にはそこが魅力なのだが」
菜美も笑いながら栄太に抗議した。
「素直すぎる性格やったら、小さい子はそれでええけどな、私の歳やったらただのあほやんか。どうせやったら、もっと上手に褒めてほしいわ」
「ああ、僕は幸せだなあ。この村に留まったおかげで、こんなに可愛い女性に巡り会えたんだ」
栄太はうるんだ瞳で夜空を見上げた。栄太につられて、菜美も遠くの夜空を見上げる。
菜美は感嘆した。なんて清浄な空なのだろう。あの遠くに見える山々の際まで、星に満ちた空は途切れることがないのだ。自分の存在を忘れそうになる、いや、自分の存在がいかに小さなものだと教えてくれる神秘なる世界だった。それは突然の発見だった。全ては大自然のなかにあって、自分や隣にいる栄太も大いなる力が産み出したものなのだ。
「圧倒される」
菜美が呟くと、栄太は「えっ」と聞き返す。菜美は輝く瞳を栄太に向けた。
「うん。ここは現実世界のどこなんやろね。車の音がなかったら、私は道に迷ってしまうだけ」
静かな夜とはいえ、時おりに車が過ぎていく。その音が菜美を現実に引き戻すのだった。
「ね、続きを聞かせて。おじさんが遠山町で生きる理由はこの景色が見たいからなん」
「それもあるが」と栄太は笑った。
「東京で暮らして得たものを、僕は遠山町に帰ったときに捨てたんだ。それを後悔した日もあるが、今の僕は違うよ。僕がこの村で得たものは、東京にもあったかどうか分からない。お嬢さんにも会えなかっただろうな。人生は上手くできている。今の僕は大切な人々と生きている。それがお嬢さんの質問への答えだ」
「ふうん。おじさんはひとりで東京へ居てたんやね」
「そうだよ。本当のひとりではなかったが」
菜美は黙った。心の中で「なんにしても、私は寂しいやん」と呟く。真面目な話をすると、栄太はやはり十六歳年上の男性の顔になってしまう。穏やかな眼差しや笑ったときに見える優しい皺が、話の内容と相まって、菜美には分からない世界のひとだと感じさせた。大人に甘えている小さな子どものようだとも、菜美は自分を思うのだった。
栄太があまりに大人だと、これからも二人の心はすれ違っていくだろう。そんな二人なら、結婚しても幸せにはなれない。今の状況で結婚したなら、自分の両親のようになるような気もした。父の単身赴任を母は喜んでいる。父が勤務先に戻ると母は楽しそうになり、ひどいときは解放されたと言って夕食にピザの配達を頼むのだった。父が留守をすると気楽で嬉しいと母は言う。
菜美は再び迷いはじめた。結婚を決めるには早すぎる。栄太という人間をまったく知らない。
「お嬢さん。どうかしましたか、また急に沈みこみましたね。もし良ければ、僕は悩み相談も受けつけていますから」
菜美は決心した。ずっと心にあった栄太への疑問を、今こそ本人に聞いて解決しよう。
「ね、さっき私は言うたやん。おじさんに聞きたいことがあるって。」
栄太は嬉しそうに微笑んだ。
「僕への関心が高い証拠だな。恋愛感情変動のバロメーターとして見逃せない。僕のことが知りたいなら、直接聞いてみて下さい。全ての質問に答えます」
菜美はコーヒーを飲んだ。心を落ち着かせたい。緊張しているなと自分でも思った。
「ひとつめの質問からね。おじさんはなんで私とデートするの。地元のひとやったらいつでも会えるし、共通の話題もあるやんか。私とはブログのコメントで話するだけやん。それも、おじさんの場合はコメントというよりコントになってる」
「それはそうですが、僕にも選ぶ権利があるのですよ。しかも、遠距離恋愛はスリリングで楽しい」
「冗談はやめて。スリリングな恋愛は落ち着かへん」
「お嬢さん。そんなに興奮してはだめです。落ち着きましょう。さ、コーヒーをもう一杯どうぞ」
栄太は笑って菜美の紙コップを引き寄せた。
「ワン・モア・ア・紙コップ・オブ・コーヒー、ですよ」
栄太はポットから菜美の紙コップにコーヒーを入れる。
「僕はお嬢さんに愛されたい。しかし、それは難しい問題です」
「何が難しいのか、私にはさっぱり分からんわ。具体的に話して」
菜美は頼んだ。
「まず年齢差や生きている環境の違いだ。それに、何もないこの村で僕は生きていくのです。若いお嬢さんには退屈だろうな。僕自身は田舎にうずもれる覚悟が出来ているよ」
「それやったら、なんで私を誘ったんかも言わなあかんよ。おじさんが積極的やから私も本気になったやんか」
栄太は照れ隠しに笑った。
「初めて会った日、気取らない性格に驚いたんだ。美人でも気取っていたら僕はだめになってしまう。あれからもお嬢さんのブログを読むたびに、明るくて素直なひとだと僕は思っていた。恋愛は無理でも、仲良しの関係は続けたいと願った。ある意味では、僕は片想いが良いと思うのだよ。恋愛は美しいが壊れやすいものだ。好きな女性との永遠の友情は、なかなか魅力があると思っている」
納得はしないが、菜美はとりあえず頷いておいた。栄太は自分の質問にきちんと答えてくれたと感じている。
「正直、私の顔が好きって言うてほしかったけど」
菜美は朗らかに笑いだした。
「ずっと年上のおじさんに人間として好かれたんなら、こんな私やけど格好ええとこあるんやね」
「お嬢さんは素晴らしいぞ。聞いてすぐに正しい解釈ができるとは」と栄太は感激している。
「二つ目の質問やけど」
言いかけて、菜美は少しためらった。この質問をするのはやはり勇気が要る。
「遠慮は要らないよ」
栄太が頷くから菜美は思い切って聞くことにした。
「なんでおじさんが無職なんか分からへんのよ。他にもあるねん。東京に戻る気でいたのに、典子さんが泣いたからここに残った話もよう分からんの」
栄太はチョコレートの空き箱を指さした。
「これと同じだ。空っぽになったら誰も振り向かない。しかし、空いた容器には多様性があるのだよ。この村はチョコレートの空き箱だ。それと、典ちゃんの身の上話は少し待ってくれ。山野のおばさんや理江さんの身の上話にもなるからね。よく考えながら話したい」
菜美は叫んだ。
「チョコレートの空き箱の話、ぜんぜん分からんわ。おじさんは何が言いたいのん」
栄太はいきなり菜美の手を取った。
「お嬢さん。僕はこの寂れいく村を改革する。人口も減ってしまい何もない村だが、皆が幸せに暮らせる場所にするつもりだ」
栄太の壮大な計画を聞いて、菜美は声も出ないほど驚いている。
「典ちゃんは無理だと言うが、この村の人々が何事もなく穏やかに生きることを僕は望んでいるんだ」
菜美の手を握ったまま、栄太は淡々と話し続ける。
「僕は定職についていないが、おかげでやることはあるし、それのお礼も頂いている。しかし、本格的な奉仕活動ではないのだよ。まだまだ不充分だ」
「奉仕活動って、おじさんはボランティアなんやね」
菜美に聞かれて栄太はにっこりした。
「この村には高齢のひとが多くてね、頼まれたら庭の草抜きや風呂のカビ取り、病院への送迎など何でもしている。悩み相談も受け付ける。お礼を要らないと僕が言ったら皆が困ったんだ。それで、お茶をご馳走になったり畑の野菜を貰ったりしている。今日は隣の猫達を預かって高級な苺を頂いた。このように温かい社会を僕は望んでいる」
「そうやったんや」と菜美は溜息をついた。
「何でもええけど、私の手になんで触ってんの」
「夜風が冷たいので、僕の判断でお嬢さんに温めて貰っています。だめですか」
菜美は吹きだして「好きなだけどうぞ」と答えておいた。
重ねた栄太の手が意外とごつごつしていて、菜美にはそれが男らしく感じられるのだ。自分の手に重ねられた栄太の手にうっとりしている。しかし、菜美は思ったことを言い続けた。
「悪いけど、それがおじさんの言うような改革とは思われへんわ。改革というより、楽しい近所付き合いの延長やね」
「十六歳の誕生日に、僕はこの村を出た。あれがこの世界を救う冒険の始まりだった」
菜美はクスクス笑う。
「そうなんや。オープニングがちょっと似てるね」
「そう、お嬢さんに笑ってほしかったからね。僕は十九歳で村を出た」
栄太も笑ったが、急に真面目な顔になった。
「本当だよ。武器と防具はなかった。あったのは、中学から学年のトップを続けてきた自信だけだったよ。広い東京に行ってからは、僕は自分が特別な存在ではないと知った。しかし、人生の経験値は上がってレベルアップ、転職も出来るようになったのさ」
東京で栄太は苦労したのかなと菜美は思った。
「おりからの不況で就職した会社の経営は傾いた。そんなとき、友人が起業したんだ。僕も退社して、そこに迎えられる予定だった」
栄太はしんみりと話す。
「だが、世の中は甘くない。僕は友人と袂を分かった。そんなときに祖母が死んだ」
「それで遠山町に帰ったんやね」
栄太は赤くなった目を擦った。
「今はこの通りだ。祖母に死なれて弱っていた母も元気になった。今はコンビニのオーナーをしているよ。事務と掃除は僕がやってるけど」
菜美は思い出した。
「私、初めてここに来たとき、肉まんと缶コーヒーをあの店で買うたんよ。あのときの店員さん、おじさんのお母さんやったんや」
「違う。あれは僕の従姉だよ。主婦のパートをしている」
栄太は菜美の手を取ったままで立ち上がった。引っ張られて菜美も立った。
「お嬢さん。見て下さい」
栄太は府道を渡ったさきの田舎道を指差した。
「僕は決めている。あの道の先に皆が安らげる家を作るんだ。それがこの村の改革であり、僕の使命だと思っている」
星空の輝きを受けている砂利の道を菜美は見つめた。その先にある土地に、栄太は何を作るつもりなのだろう。皆が安らげる場所だと栄太は言うが、そのようなものは簡単に作れないと思うのだ。
栄太は寂しそうに菜美を見つめた。
「それがね、僕は典ちゃんが心配で遠山町に留まってしまった。あの気の強いひとが僕に悩みを打ち明けて泣いたのさ。典ちゃんは向こうっ気が強いだけだよ。本当はとても繊細なんだ」
菜美は姿勢を正した。栄太の話は真面目なものだから、自分もきちんとした姿勢で聞いたほうが良い。
「そのときは祖母の葬式があって、たまたま僕は遠山町に帰っていたんだ。いろいろ大変だったので、母が僕を頼ってね、なかなか東京に戻れなかった。そんなときに、典ちゃんが泣いたのさ。結局、僕は自分の母親と典ちゃん姉妹のためにここに残ったんだ。これでいいのかと一年ぐらいは自問を繰り返したよ。でも悩んだ結果、自分がここで生きる道を見つけることが出来たからね」
「おじさんは信頼されてたんや。優しいもんね」
「僕が優しいとかの話ではないだろうな。父は僕が高校生のときに死んだ。名古屋にいる兄は仕事が忙しくて、祖母が死んだときはあまり休めなかった。僕は無職だったからね、母も頼みやすかったと思うよ」
「えっ、そうなんや」
菜美は驚いた。思わず口に出る。
「おじさんって、東京にいてるときから無職やってんね」
栄太はのけぞって笑った。
「いやはや、このお嬢さんは素直すぎるぞ。何を言っても言われても、いつも真っ直ぐな言葉しか出てこないひとだ。僕にはそこが魅力なのだが」
菜美も笑いながら栄太に抗議した。
「素直すぎる性格やったら、小さい子はそれでええけどな、私の歳やったらただのあほやんか。どうせやったら、もっと上手に褒めてほしいわ」
「ああ、僕は幸せだなあ。この村に留まったおかげで、こんなに可愛い女性に巡り会えたんだ」
栄太はうるんだ瞳で夜空を見上げた。栄太につられて、菜美も遠くの夜空を見上げる。
菜美は感嘆した。なんて清浄な空なのだろう。あの遠くに見える山々の際まで、星に満ちた空は途切れることがないのだ。自分の存在を忘れそうになる、いや、自分の存在がいかに小さなものだと教えてくれる神秘なる世界だった。それは突然の発見だった。全ては大自然のなかにあって、自分や隣にいる栄太も大いなる力が産み出したものなのだ。
「圧倒される」
菜美が呟くと、栄太は「えっ」と聞き返す。菜美は輝く瞳を栄太に向けた。
「うん。ここは現実世界のどこなんやろね。車の音がなかったら、私は道に迷ってしまうだけ」
静かな夜とはいえ、時おりに車が過ぎていく。その音が菜美を現実に引き戻すのだった。
「ね、続きを聞かせて。おじさんが遠山町で生きる理由はこの景色が見たいからなん」
「それもあるが」と栄太は笑った。
「東京で暮らして得たものを、僕は遠山町に帰ったときに捨てたんだ。それを後悔した日もあるが、今の僕は違うよ。僕がこの村で得たものは、東京にもあったかどうか分からない。お嬢さんにも会えなかっただろうな。人生は上手くできている。今の僕は大切な人々と生きている。それがお嬢さんの質問への答えだ」
「ふうん。おじさんはひとりで東京へ居てたんやね」
「そうだよ。本当のひとりではなかったが」
菜美は黙った。心の中で「なんにしても、私は寂しいやん」と呟く。真面目な話をすると、栄太はやはり十六歳年上の男性の顔になってしまう。穏やかな眼差しや笑ったときに見える優しい皺が、話の内容と相まって、菜美には分からない世界のひとだと感じさせた。大人に甘えている小さな子どものようだとも、菜美は自分を思うのだった。
栄太があまりに大人だと、これからも二人の心はすれ違っていくだろう。そんな二人なら、結婚しても幸せにはなれない。今の状況で結婚したなら、自分の両親のようになるような気もした。父の単身赴任を母は喜んでいる。父が勤務先に戻ると母は楽しそうになり、ひどいときは解放されたと言って夕食にピザの配達を頼むのだった。父が留守をすると気楽で嬉しいと母は言う。
菜美は再び迷いはじめた。結婚を決めるには早すぎる。栄太という人間をまったく知らない。
「お嬢さん。どうかしましたか、また急に沈みこみましたね。もし良ければ、僕は悩み相談も受けつけていますから」
菜美は決心した。ずっと心にあった栄太への疑問を、今こそ本人に聞いて解決しよう。
「ね、さっき私は言うたやん。おじさんに聞きたいことがあるって。」
栄太は嬉しそうに微笑んだ。
「僕への関心が高い証拠だな。恋愛感情変動のバロメーターとして見逃せない。僕のことが知りたいなら、直接聞いてみて下さい。全ての質問に答えます」
菜美はコーヒーを飲んだ。心を落ち着かせたい。緊張しているなと自分でも思った。
「ひとつめの質問からね。おじさんはなんで私とデートするの。地元のひとやったらいつでも会えるし、共通の話題もあるやんか。私とはブログのコメントで話するだけやん。それも、おじさんの場合はコメントというよりコントになってる」
「それはそうですが、僕にも選ぶ権利があるのですよ。しかも、遠距離恋愛はスリリングで楽しい」
「冗談はやめて。スリリングな恋愛は落ち着かへん」
「お嬢さん。そんなに興奮してはだめです。落ち着きましょう。さ、コーヒーをもう一杯どうぞ」
栄太は笑って菜美の紙コップを引き寄せた。
「ワン・モア・ア・紙コップ・オブ・コーヒー、ですよ」
栄太はポットから菜美の紙コップにコーヒーを入れる。
「僕はお嬢さんに愛されたい。しかし、それは難しい問題です」
「何が難しいのか、私にはさっぱり分からんわ。具体的に話して」
菜美は頼んだ。
「まず年齢差や生きている環境の違いだ。それに、何もないこの村で僕は生きていくのです。若いお嬢さんには退屈だろうな。僕自身は田舎にうずもれる覚悟が出来ているよ」
「それやったら、なんで私を誘ったんかも言わなあかんよ。おじさんが積極的やから私も本気になったやんか」
栄太は照れ隠しに笑った。
「初めて会った日、気取らない性格に驚いたんだ。美人でも気取っていたら僕はだめになってしまう。あれからもお嬢さんのブログを読むたびに、明るくて素直なひとだと僕は思っていた。恋愛は無理でも、仲良しの関係は続けたいと願った。ある意味では、僕は片想いが良いと思うのだよ。恋愛は美しいが壊れやすいものだ。好きな女性との永遠の友情は、なかなか魅力があると思っている」
納得はしないが、菜美はとりあえず頷いておいた。栄太は自分の質問にきちんと答えてくれたと感じている。
「正直、私の顔が好きって言うてほしかったけど」
菜美は朗らかに笑いだした。
「ずっと年上のおじさんに人間として好かれたんなら、こんな私やけど格好ええとこあるんやね」
「お嬢さんは素晴らしいぞ。聞いてすぐに正しい解釈ができるとは」と栄太は感激している。
「二つ目の質問やけど」
言いかけて、菜美は少しためらった。この質問をするのはやはり勇気が要る。
「遠慮は要らないよ」
栄太が頷くから菜美は思い切って聞くことにした。
「なんでおじさんが無職なんか分からへんのよ。他にもあるねん。東京に戻る気でいたのに、典子さんが泣いたからここに残った話もよう分からんの」
栄太はチョコレートの空き箱を指さした。
「これと同じだ。空っぽになったら誰も振り向かない。しかし、空いた容器には多様性があるのだよ。この村はチョコレートの空き箱だ。それと、典ちゃんの身の上話は少し待ってくれ。山野のおばさんや理江さんの身の上話にもなるからね。よく考えながら話したい」
菜美は叫んだ。
「チョコレートの空き箱の話、ぜんぜん分からんわ。おじさんは何が言いたいのん」
栄太はいきなり菜美の手を取った。
「お嬢さん。僕はこの寂れいく村を改革する。人口も減ってしまい何もない村だが、皆が幸せに暮らせる場所にするつもりだ」
栄太の壮大な計画を聞いて、菜美は声も出ないほど驚いている。
「典ちゃんは無理だと言うが、この村の人々が何事もなく穏やかに生きることを僕は望んでいるんだ」
菜美の手を握ったまま、栄太は淡々と話し続ける。
「僕は定職についていないが、おかげでやることはあるし、それのお礼も頂いている。しかし、本格的な奉仕活動ではないのだよ。まだまだ不充分だ」
「奉仕活動って、おじさんはボランティアなんやね」
菜美に聞かれて栄太はにっこりした。
「この村には高齢のひとが多くてね、頼まれたら庭の草抜きや風呂のカビ取り、病院への送迎など何でもしている。悩み相談も受け付ける。お礼を要らないと僕が言ったら皆が困ったんだ。それで、お茶をご馳走になったり畑の野菜を貰ったりしている。今日は隣の猫達を預かって高級な苺を頂いた。このように温かい社会を僕は望んでいる」
「そうやったんや」と菜美は溜息をついた。
「何でもええけど、私の手になんで触ってんの」
「夜風が冷たいので、僕の判断でお嬢さんに温めて貰っています。だめですか」
菜美は吹きだして「好きなだけどうぞ」と答えておいた。
重ねた栄太の手が意外とごつごつしていて、菜美にはそれが男らしく感じられるのだ。自分の手に重ねられた栄太の手にうっとりしている。しかし、菜美は思ったことを言い続けた。
「悪いけど、それがおじさんの言うような改革とは思われへんわ。改革というより、楽しい近所付き合いの延長やね」
「十六歳の誕生日に、僕はこの村を出た。あれがこの世界を救う冒険の始まりだった」
菜美はクスクス笑う。
「そうなんや。オープニングがちょっと似てるね」
「そう、お嬢さんに笑ってほしかったからね。僕は十九歳で村を出た」
栄太も笑ったが、急に真面目な顔になった。
「本当だよ。武器と防具はなかった。あったのは、中学から学年のトップを続けてきた自信だけだったよ。広い東京に行ってからは、僕は自分が特別な存在ではないと知った。しかし、人生の経験値は上がってレベルアップ、転職も出来るようになったのさ」
東京で栄太は苦労したのかなと菜美は思った。
「おりからの不況で就職した会社の経営は傾いた。そんなとき、友人が起業したんだ。僕も退社して、そこに迎えられる予定だった」
栄太はしんみりと話す。
「だが、世の中は甘くない。僕は友人と袂を分かった。そんなときに祖母が死んだ」
「それで遠山町に帰ったんやね」
栄太は赤くなった目を擦った。
「今はこの通りだ。祖母に死なれて弱っていた母も元気になった。今はコンビニのオーナーをしているよ。事務と掃除は僕がやってるけど」
菜美は思い出した。
「私、初めてここに来たとき、肉まんと缶コーヒーをあの店で買うたんよ。あのときの店員さん、おじさんのお母さんやったんや」
「違う。あれは僕の従姉だよ。主婦のパートをしている」
栄太は菜美の手を取ったままで立ち上がった。引っ張られて菜美も立った。
「お嬢さん。見て下さい」
栄太は府道を渡ったさきの田舎道を指差した。
「僕は決めている。あの道の先に皆が安らげる家を作るんだ。それがこの村の改革であり、僕の使命だと思っている」
星空の輝きを受けている砂利の道を菜美は見つめた。その先にある土地に、栄太は何を作るつもりなのだろう。皆が安らげる場所だと栄太は言うが、そのようなものは簡単に作れないと思うのだ。
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