第41話

文字数 5,191文字

 菜美は困っている。
 昼の営業時間は終了したのに、典子が厨房の奥から出てこない。いつもは典子と一緒に賄をとり、そのあとで厨房とホールの掃除をしている。他にも、夕方からの営業に向けて仕込みをしなければならない。それなのに、指示役の典子が奥の部屋にこもってしまったのだ。
 不安な顔でいる菜美に栄太が声をかけた。
「お嬢さん。とりあえず、入り口に『準備中』の看板を出しましょう。厨房以外の照明も消せばよいのです。電気代の節約になりますし、店が明るいと営業中だと勘違いされますよ。この時間なら昼ご飯がまだのひともいるだろうから」

 菜美は厨房以外の照明のスイッチを切り、店の入り口へと急いだ。
 昼の営業が終ったら、ランチメニューを書いた黒板を店の中に入れ、その代わりに「準備中」と書いた看板を置かねばならない。
 と、菜美は振り返った。
「ここまでついてきたんやったら、手伝ってくれんやね」
「もちろん、そのつもりですよ」と栄太はランチメニューの黒板に手を伸ばした。
 それを片付けながら、爽やかな笑顔で菜美に話しかけるのだ。
「厨房とホールの掃除が終わったら、あとから秘密基地でお話しませんか」
「えっ。私、おじさんと二人で秘密基地に行って、何の話すんの」
 栄太は意気揚々と答えた。
「ゲームをしましょう。僕の好きなロールプレイングのゲームですよ。理江さんが抜けて、僕らのパーティは三人になってしまったからね。じっくり旅の仲間を再編成しようではありませんか」
 菜美は首をひねった。
「四人目のメンバー入れて、新しいパーティ組むって話やね。あ、四人目は山野さんかも」
「当たらずといえども遠からず、だね」
 栄太は楽しそうに笑っているが、菜美は困惑している。栄太と二人きりで会うことはないと思っていたのだ。しかも、恋人時代には秘密基地でよくデートをしていた。
 菜美の戸惑いを栄太は分かっているようだ。
「お嬢さんにデートを強要しているわけではない」
 にこにこと栄太は話すのだった。
「この店と典ちゃんの将来を僕は真剣に考えているのだ。秘密基地はその話をするには効果的な場所なのさ。展望台からの眺めもね、ぜひお嬢さんに見せたいよ。この村の将来が見えるかもしれないから」
 そう言われると、菜美の心は動いた。栄太は何かを深く考えていて、それを自分にも知ってほしいと願っているようだ。

 秘密基地のドアをそっとノックした。
「どうぞ」と、ドアが開いた。
「ノックの音の大きさでお嬢さんだと分かるよ。話し声は大きいが、ノックはいつも控えめなお嬢さんだ」
「そうやねん」と菜美はくすっと笑った。
「会社で働いてた頃の名残やね。会議中に入室するときは静かにノックしなさいって、あの頃は煩く言われてたんよ」
「そうだったのかい」と栄太はうんうんと大きく頷く。
 菜美は苦笑した。
「会社のことで思い出すんは、悲しいことばっかりやけどね」
 栄太は穏やかに言う。
「自分が働いていた会社に感謝する日が、いつかは来ると思いますよ」
「まあね。今は退職金が貰えて嬉しいわ」
「退職金は嬉しいが、働くということは心身ともに厳しいものがあります」
 菜美は困った。
 今日の栄太は少し理屈っぽい。
「おじさん。山野さんは帰りはったん」
 山野が帰宅したかどうか、菜美は訊いてみた。話を変えたかったのだ。
「山野さんはお腹がペコペコになっていました。それで、さっさと帰られましたよ。僕はお嬢さんと話をしたかったので、あえて帰宅しなかったのです。昼ご飯は自分のコンビニで買ってきました」
「そうなんや」
「そうですよ」
 栄太はいそいそ近くの机にお握りや缶コーヒーを並べた。
「では、お嬢さん。お座りください」と菜美のために椅子を引くのだった。
「有難う。けど、ちょっと待って。風入れるわ。空気、なんか淀んでるわ」
 日頃は閉めっぱなしの秘密基地だった。気持のよい風がこの部屋を横断できるようにと、展望台に通じる掃き出し窓と入り口のドアを菜美は大きく開けた。
 室内に吹き込んでくる風に水色のカーテンが大きく膨らみ、菜美の体にまとわりついてきた。画鋲で壁に貼られている古いポスターも、秘密基地を走り抜けていく風に揺らされている。
 菜美は楽しくなった。
「わー、いい風やわあ」と子どものようにはしゃいでいる。
 栄太は微笑みながら注意するのだった。
「申し訳ないが、お嬢さん。食事中はドアや窓を閉めましょうか。風が強いと、埃が飛んできて食べ物につきますからね」
 菜美は急いでドアと掃き出し窓を閉めて「ごめんね、おじさん」と謝った。
 栄太は目を輝かせた。
「やはりお嬢さんは素直なひとだな。あの頃のままのお嬢さんだよ」
 菜美は返事に困った。
 栄太の眼差しはまるで恋人のようだった。そう、あの頃のままだ。
 
 秘密基地のドアが突然に開いた。
「これはいかん」
 栄太が叫んだ。
「今、典ちゃんがやってくるとは」
 典子は気を悪くしたようだ。
「栄太君。うちが秘密基地に来たらあかんの」
 栄太は慌てて言い訳を始めた。
「いや、そうではありません。典ちゃんにはそんな風に聞こえたとは思いますが。そうでしょ、ドアが急に開くと誰でも驚きますよ」 
 典子はつっけんどんに言うのだった。
「それやったら、ドアは開けっ放しがええんやね」
 栄弥は首を大きく横に振った。
「いつもドアを開放していたら、そこはもう秘密基地ではなくなります」
 典子は吹きだしたが、すぐにきつい表情を見せた。
「ほんま、栄太君はふざけんのが好きなんやから」
「心外だな。僕はふざけていませんよ」
 菜美が典子に状況を説明した。
「ご飯食べよと思て、風がきついからドアと窓を閉めたんです。そのとたんにドアが開いたから、おじさんはびっくりしたんやと思います」
 栄太は強く主張する。
「そうです。僕は本当に真面目人間です。いつも真面目なことを考えていますよ。この村の将来についても、僕はお嬢さんの意見を聞きたかった。そのためには、この秘密基地という場所が良かったのだ」
「ふうん」と典子。
「ここで話せば、僕の考えはお嬢さんに理解してもらえそうでね。本当は典ちゃんにも聞いてほしかったのだよ。なのに、最近の典ちゃんは僕を避けているのさ」
 典子は冷たい声を出した。
「あの人がずっと、栄太君の傍に居てるからやで」
 栄太は苦い笑みを浮かべた。
「とりあえず、食事をしましょう。典ちゃんも一緒に食べようよ」
 典子は机の上に並んだお握りやカツサンドを見て驚いた。
「あんたらのお昼ご飯、バラエティに富んでるやん」
 栄太は得意そうに胸を張った。
「そうです。僕のコンビニでいろいろ買いこんできました。典ちゃんの好きなカツサンドもありますよ」
 栄太は典子の前にカツサンドを置いた。
「さ、遠慮なくどうぞ。お嬢さんもね」
 菜美は典子と並んで座り、お握り弁当とトマトサラダを食べ始めた。しかし、典子はカツサンドを見つめたままでいる。
 栄太が訊いた。
「どうしましたか、典ちゃん」
 典子は目を伏せた。
「さっき、オーダー断ったんをちょっと後悔してんねん。ほんで、謝ろと思て栄太君を探してたんよ」
 栄太は典子の顔を覗きこんだ。
「典ちゃんと山野さんの事情に、僕は何も言わないよ。たしかに思うことはあるが、それを他人の僕が口にするなど、出過ぎたことだから」 
「まわりくどい言い方やな」と典子は苦い笑みを浮かべた。
「栄太君は『たしかに思うことはある』って、うちにしっかり反論してるやん。それ、うちのすることを栄太君はええ風に思てないってことやろ」
 栄太は穏やかな口調で答えた。
「山野のおばさんなら、どんなに嫌いな相手にも食事を提供するだろうよ。そのうえ、ランチの看板や電気を消す作業をしないで、さっさと奥に入ってしまった。お嬢さんはこの仕事に慣れていないのだが」
 トマトサラダを食べかけていた菜美の手が止まった。
 その厳しい言葉に、自分も栄太に叱られているような気がしたのだ。それに、自分としては典子を責める気はなかった。
 栄太は菜美にティッシュの箱を差し出した。
「お嬢さん。そんな悲しい顔はやめて、食事に専念してください。サラダのドレッシングが、机の上に流れ落ちていますよ」
「ほんまや」と菜美は恥ずかしくなった。
 考え事をしていたからだ。口を切ったドレッシングがサラダのパックからはみ出していた。
「あれあれ、ドレッシングが勿体ないで」と典子が笑った。
 慌てて残ったドレッシングをサラダにかける菜美。そんな菜美を、典子は母親のように優しく見守っている。
 栄太が呟いた。
「典ちゃんの意地っ張り」
「ちょっと栄太君。今のん、聞こえたで」と典子はぷっとむくれた。
「典ちゃんは分かりやすくていけない。理江さんやお嬢さんには惜しむことなく愛情を注ぐけどさ、山野さんにはやたらと意地を張っているよ」
 典子は栄太を睨みつけた。
「栄太君は他人やからね。うちの家の問題には黙っといて」
 栄太は顔をしかめた。
「尤もな意見だが『遠山食堂』の存続に関して、今の僕らは結束力を高めるべきなのだよ。典ちゃんは私情を捨てて前向きになった方が良いな。今ならまだ生き残る方法があるからね」
「市会議員になりたいだけの誰かに協力したないねん。この店が潰れんのは嫌やけど、潰れかけてる状態やったら何とか我慢できるわ」
 食べ終えたカツサンドの箱を、典子はくしゃくしゃと両手で丸めて潰した。
「ごみ箱、ここにあったはずやけどな」
 ぞんざいに言いながら、典子は机の下や部屋の隅を見ている。
「あーあ、ごみ箱までうちに意地悪してやるわ」
 栄太は溜め息をついた。
「だめだよ、典ちゃん。誰も意地悪なんかしていないよ」
 自分が仲裁に入ろうと菜美は考えた。しかし、不機嫌な顔をした典子を見れば、それは余計なことにも思えるのだった。

「とにかく、それは僕に下さい」
 栄太はカツサンドの空き箱を典子の手からひょいと取り上げた。
「ああ、勿体ない。完全に壊れちゃうよ」
 典子が潰したカツサンドの空き箱を、栄太は一生懸命に元に戻そうとする。
「普通にほかしたらええやん」
「これは捨てられないよ。このパッケージこそが今の遠山町なのだから」
 典子は顔をしかめた。
「栄太君。いつものことやけど、言うてることの意味がさっぱり分からんわ」
 典子は菜美に訊いた。
「栄太君が言うてること、菜美さんはちゃんと理解できるん」
 菜美は苦笑した。
「私、普段からおじさんの話はいっつも分からんです。適当に聞いてしまうときもあったりして」
 栄太が叫んだ。
「ひどいな。お嬢さんは今までずっと、僕と適当に話していたのか」
「ううん。適当に話すとかやないねん。今もやけど、おじさんの話は時どき難しいから理解できへん」
「なるほど」と栄太はにっこりした。
「では、今から僕の考えをお話しましょう」

 栄太は熱心に話し始めた。
「この話は、お嬢さんに聞いていただいたことがあります。主題は『空き箱』なのですが、その多様性についてを僕は考えたのです」
 菜美は大きく頷いた。
「あ、思いだした。その話、展望台で聞いてる」
 栄太は破顔した。
「有難う、お嬢さん。覚えていたということは、やはり僕の話をよく理解していたからだね」
 菜美は大声で笑いだした。
「あっははっ」

 それは、展望台でデートをしたときの夜のこと。
 チョコレートの空き箱を示しながら、栄太はこのように話していた。
 『空っぽになったら誰も振り向かない。しかし、空いた容器には多様性があるのだよ。この村はチョコレートの空き箱だ』
 『お嬢さん。僕はこの寂れいく村を改革する。人口も減ってしまい何もない村だが、皆が幸せに暮らせる場所にするつもりだ』
 遠山町は何もない村であるが、その方法さえ分かれば発展する可能性がある。栄太はそう考えていたのだ。
 
「あほらし。カツサンドの箱が何なんよ」と典子はつまらなそうだ。
「紙の箱なんてもん、踏んだら潰れてまうやんか。そんなもんに例えた時点で、栄太君の計画のお粗末さがよう分かるわ」
「たった今、僕は納得できない批判を受けました」
 栄太は悲しい顔になった。
「とにかく、典ちゃん。批判をするのなら、僕の話を最後まで聞いてからにしてください」
 典子は笑った。
「批判って、うちはそこまで言うてへん。なあ、菜美さん」
 菜美は答えられない。
 幸せな村を作ろうと一生懸命になっているのに、典子にきつく言われている栄太を可哀想だと思っている。
「踏まれて潰れたら、元の形を変えて再生してみせるさ。長方形の箱なら、潰れた部分を加工して正方形に出来ると思うよ。その正方形で何ができるかと言う話なのだよ」
 典子は言い切った。
「そんなんしたって意味ないわ。悪いけど、うちは興味ない」
 栄太は青ざめ、沈黙した。
 菜美はどうしてよいのか分からない。二人の顔を見て、おろおろするばかりだ。



 
 
 
 

 
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