第33話 IKUZO IKZO
文字数 2,574文字
吉 幾三(1952年11月11日 - )は、日本の歌手、シンガーソングライター。青森県北津軽郡金木町(現・五所川原市)出身。青森県在住。公式愛称はIKZO。本名は鎌田 善人(かまた よしひと)。血液型はB型。身長178 cm、体重70 kg。靴サイズ25.5 cm。既婚。子供が3人おり、長女は歌手のKU(くー)。次女は女優の寿三美(ことぶき みみ)。
父親は昭和天皇の御前で民謡を披露したほどの民謡の名手であり、そのことについて吉は「親父は超えられない」と語っている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B9%BE%E4%B8%89
「俺ら東京さ行ぐだ」は、シンガーソングライター・吉幾三が1984年(昭和59年)11月25日に発表した楽曲である。
吉幾三本人が後日語ったところによると、歌詞の「テレビもラジオも電話もガスも電気も無い」など自虐的な部分が、発売当初は出身地である青森県北津軽郡金木町(現:五所川原市)から「うちはそんなに田舎じゃない」と猛抗議を受けたという。また、日本中の小さな農村から「ふざけるな!!」「私たちの村を馬鹿にしてるのか!?」と凄い数のクレームが押し寄せてきたとも語っている。しかし、彼自身の幼少期である1960年〜1970年代においては、本当に歌詞の内容と近いものだったという。
1985年屈指の注目曲であり「NHK紅白歌合戦」出場も有力視されていたが、歌詞の中に「レーザーディスク」という実在の商品名や、警察官を「おまわり」と表現している事が問題視され、「『レーザービデオ』などに歌詞を変えたらどうか?」と提案されたが、吉が、年末年始は家族サービスをしたい意向があったのと「歌詞を変えてまで出る気はない」とNHK紅白歌合戦の出演はなかった。
この曲が有線を中心にヒットチャートを上り始めたことに注目した徳間ジャパンは、1984年にプロモーションの一環として、吉本人主演によるビデオシネマ『俺ら東京さ行ぐだ 〜純情篇〜』を製作。
作品発表から24年が経過した2008年(平成20年)にはこの楽曲がきっかけで、インターネット上において「IKZOブーム」が起こった。
吉は5月に志村のレギュラー番組「志村でナイト」にゲスト出演することが決まっていたという。ゴールデンウィーク明けの収録予定で、志村は1月に番組制作会社を介して、「台本もないけど、とにかく吉さんにゲストに来て欲しい。久しぶりに話したい」と伝えてきた。トークコーナーへゲスト出演してほしいと熱望していたという。吉もできるだけ早く会いたいと、スケジュールを前倒ししていたが、そんな矢先の訃報だった。
「とても信じられません。
この5月に久しぶりに番組に出る予定でいたのに…。
『入院された』との事は聞いておりましたが、何が何だか分かりません。残念でなりません。
今はとにかく貴方の分まで生きてみせます。
いろいろと本当にありがとう。
僕が病気の時は、あなたに気を遣ってもらい、何もしてあげられないのが悲しくてつらいです。ごめんネ…。
ゆっくり休んでください。
吉 幾三」(2020年3月)
あの頃は車に乗るとすぐに眠気が。幾三さんのフォークソングにいい曲があったが思い出せない。カセットテープはすでにないし……
シンガー・ソングライターで女優のりりィ(本名・鎌田小恵子)さんが2016年11月11日朝、肺がんのため死去した。64歳だった。
「私は泣いています」などのヒット曲で一世を風靡した。長男は、ドリームズ・カム・トゥルーの吉田美和さんの夫で、ロックバンドのFUZZY COTROLのJUONさん。
74年、100万枚に迫る大ヒット「私は泣いています」で名前が知られるようになる。
所属事務所のプロフィールでは、生まれたころの詳しい家庭環境は記されていないが、日本人離れした容姿をしており、独特のハスキーがかった声質が特徴。なんとなく不幸感や倦怠感が漂っていた。大ヒットとなった「私は泣いています」は、単に失恋の歌というよりも、もっと広く、時代から置き去りにされた若者たちの心に響いた。
すでに一部で熱狂的に支持されていた浅川マキさんや、少し遅れて登場する森田童子さんらと同じく、自身の謎めいた世界にこだわる歌い手の1人だった。歌謡曲の世界では当時、同い年の藤圭子さんがドスの効いた声で「圭子の夢は夜ひらく」や「命預けます」を歌っており、メジャーとマイナーの歌世界がどこかでつながり、共振しているような時代だった。
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