第3話 偉大なる一発屋

文字数 3,471文字

『異邦人』は、当初からCMにサビの部分が使用され、少しずつ売上げを伸ばした。1979年11月12日、『コンフィデンス』(オリコンチャート)で55位に初登場。次第に順位を伸ばし、同年12月10日には1位を獲得した。

同年12月13日、『ザ・ベストテン』に5位で初登場した際、久保田の美しい容姿にも注目が集まった。同年12月27日には1位を獲得。1980年1月17日まで3週連続(正月休みを挟み実質4週)1位を獲得し続け同年3月6日まで、12週連続ランクインした。

1979年12月25日までに、「異邦人」のレコード売上がCBSソニー発表で100万枚を突破。

亀山太一とプロデューサーの酒井政利は当初、ヒットの予想時期を1980年の2月末頃とみており、ここまで短期間での大ヒットは予想外であったという。

オリコンチャートの記録で、シングル・レコードの総売り上げ枚数は、144.4万枚とされている。(Wikipediaより)


元々は「白い朝]」というタイトルであったが、「イメージが伝わりにくい」「インパクトが弱い」という理由から、プロデューサーの酒井政利により「異邦人」に変更されたという経緯がある。久保田本人は歌う気持ちにならないくらい気に入らなかったと語っている。また歌詞そのものもシルクロードをテーマにしたものに合わせ何度も書き直しさせられたとのこと。

この曲は元は、美しい並木道で知られる国立駅前の大学通りの景色をイメージして書かれたものだった。「子供たちが空に向かい 両手を広げ …」という歌い出しは、歌詞作りに難渋していた久保田(国立市出身)が、通学の時に乗っていた中央線から見える国立駅近くの空き地で遊ぶ子供たちの姿を電車から見て咄嗟に写しとったものである。

本人も「そんな、ふとした瞬間に出来た曲が、ここまでヒットするとは思わなかった。」と語った。また本人はこの曲が発売されてから半年間はヒットしていくことに戸惑い、その後も「平坦な更地にいきなり10階建のビルが建ってしまい、その後もビルがどんどん大きくなっていった感じ」と、当時は曲が一人歩きしていることに非常に戸惑っていたそうである。デビューして30年経ち、ラジオにゲスト出演した際に、「今ではここまで愛される曲になって、非常に嬉しい。神様のプレゼントだと思っている。」と語った。(Wikipediaより)

デビュー曲ながら、1981年のオリコンチャート週間3位まで上昇、53.4万枚を売上げ、1981年度の年間ランキングは18位。堀江淳の最大のヒットシングルである。(Wikipediaより)
名曲「メモリーグラス」が大ヒットをとばした堀江淳が、カラオケで年間200万くらいの印税が入っていると暴露し、「みなさん是非歌ってください」と語った。

https://kakaku.com/tv/channel=12/programID=32386/page=3/

小坂恭子さんは宮崎出身1974年デビュー。ポプコン出身です。

ほぼ同時期にデビューした(しかもポプコン出身)の小坂明子さんとは混同されがちで、たまに完全に混同してる雑誌記事を見かけたものでした。

「想い出まくら」は3枚目のシングルでオリコン発表で85万枚、レコード会社発表では130万枚の大ヒットとなりました。テレビにはほとんど露出せず、その歌詞も相まって謎の人ではありました。その後活動停止とレコード会社移籍、しかしヒットには恵まれませんでした。

後に語られたところではテレビに出なかったのは事務所の判断、レコード会社移籍の際は1年間活動を停止することの条件が付けられていたそうで、本人はテレビに出たかったし活動を続けたかったようですね。今でも楽曲提供など活動されているようです。

https://music.north-tt.com/01_article.php?article=625


オリコンチャートでの集計では、累計でミリオンセラーを記録した。

TBS「ザ・ベストテン」には1985年10月10日に8位で初登場。12月5日に第1位に到達し、3週連続1位にランクイン。

1986年2月6日の10位まで計18週連続ベストテン入りを果たし、1985年の年間ベストテンでは7位にランクインしていた。(Wikipediaより)

表題曲は、1985年8月30日から放送されたTBS系テレビドラマ『金曜日の妻たちへIII・恋におちて』主題歌に起用された。この曲は、ドラマ放映より1年も前に当時音楽制作会社に勤務していた小林明子がある歌手のために作曲したが、その歌手が引退してしまった。しばらくして偶然にドラマ関係者の耳に入り、湯川れい子が詞をつけ、歌手を誰にしようかと検討したところ、デモテープ用に歌った声がいい、と作曲者自身が歌うことになった。

この歌詞は湯川の実体験によるもので、また湯川が重視したのは「I'm just a woman Fall in love」の辺りという。

湯川は作詞するのにとても時間がかかったと語っている。特に「ダイヤル回して手を止めた」の部分はダイヤル式の電話を指しているが、1980年代後半は公衆電話がダイヤル式からプッシュホン式に替わったケースが多く、この歌詞を変えるべきか迷ったが、ダイヤル式は電話をかける時に時間がかかり、その時に迷う心理を表現するためにあえてこの部分を残して発表した。(Wikipediaより)

青春時代の心情を巧みに綴った歌詞として、当時の若い世代を中心に多大な支持を得た。発売から半年経過でミリオンセラーとなり、大ヒットした。

森田公一とトップギャランはこの曲で翌1977年の『第28回NHK紅白歌合戦』に出場した。(Wikipediaより)

平尾昌晃はデュエット・シングルの発売にあたり、自身が主宰する平尾昌晃ミュージックスクールの生徒の中からオーディションを行い、その結果選ばれた畑中葉子とデュエットすることとなった。

「平尾昌晃・畑中葉子」名義では他にもデュエット・シングルをリリースしているが、『ザ・ベストテン』の通常ランキングに登場したのは本曲のみとなっている。

平尾昌晃・畑中葉子は、本曲で1978年の第29回NHK紅白歌合戦に出場した。当時、男女のデュエットは紅組で歌うことが通例となっていたが、平尾昌晃・畑中葉子は白組で本曲を歌唱した。(Wikipediaより)

この曲がヒットしたことにより、1978年にカナダを訪れた日本人観光客は3割も増加することとなった。
歌手としてはデビュー曲の「夢想花」以外に目立ったヒット曲がなかったことから、それゆえにネタで「一発屋」扱いされるものの、関西ではテレビタレントとして高い知名度を誇る。
この動画は何度も消されては出ているようです。消えないでほしい。

1978年のポプコンで入賞に終わったクリスタルキングのメンバー(特に田中昌之)が「審査基準に納得がいかない」と暴れていたところ、「お前ら、九州の男やったらもう一回勝負するよね?」とポプコンのスタッフから言われ、それをきっかけに「次の大会でグランプリを取る曲を作ろう」となった。

「俺らは『夢想花』のサビのインパクトに負けただけだから、簡単にいえば審査員を驚かせればいい。俺の高音で歌メロが始まれば、びっくりして(審査員が)マルをつけるやろうって(笑)。ギターの山下がベースになる曲を書いてきて、それから3人がかりで詞を考えた」

結果、1979年10月にヤマハのつま恋で開催された第18回『ポピュラーソングコンテスト』の本選会に出場し、「大都会」でグランプリを獲得。続く第10回『世界歌謡祭』でもグランプリ、優秀歌唱賞をダブル受賞。デビューシングルながら118万枚を超えるミリオンセラーを記録した。(Wikipediaより)


雨音はショパンの調べ」は、イタリアの男性歌手ガゼボの歌唱による1983年の楽曲「アイ・ライク・ショパン / I Like Chopin」日本語カバー曲のタイトル。原曲は世界的なヒットをみた楽曲であり、1980年代イタロディスコの中でも最もよく知られた楽曲の一つである。日本では、小林麻美 with C-POINTシングル(日本語カバー)がヒットした。(Wikipediaより)
TBSザ・ベストテン』では8週間ランクインしたものの、テレビ番組で同曲を歌うことは一度も無かった。背景として「気休めは麻薬」という歌詞が放送上問題があった可能性が指摘されている。(Wikipediaより)
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