第26話 マイケル・ジャクソン(続き)
文字数 6,028文字
1984年1月27日、ペプシのコマーシャル撮影時に、ステージに仕掛けてあった花火が予定より早く作動し、マイケルさんの髪に引火。マイケルさんが気づくまでの11秒間勢いよく燃え続けた後、周りのスタッフらが一斉に駆けつけて消火したが、マイケルさんは頭や顔などに第二~三度の火傷を負い、当時大きく報道された。
マイケルさんの髪は瞬く間に燃え広がり、消火した後も大きな円形跡が残って、その部分は二度と頭髪が生えてこなかったという。この事故がきっかけで、マイケルさんは複数回にわたって頭皮の外科手術を受け、多量の鎮痛剤を常用するようになったと言われている。
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/eiga.com/amp/news/20090716/19/%3Fusqp%3Dmq331AQIKAGwASCAAgM%253D
1988年1月、自伝『ムーンウォーク』を発表。
同年5月、推定3800万ドルで購入した豪邸「ネバーランド・ランチ」に引っ越す。
この背景には、少年の父親エヴァンが多額の金を必要としていた事実がある。この時点でエヴァンはすでに少年の母親のジューンとは離婚していたが、週末は息子が父親宅に来て一緒に時を過ごしていた。少年がマイケルと親しくなることを当初はエヴァンも歓迎していたが、少年がマイケルに夢中になるにつれ、父親である自分への愛情を奪われたと感じ始めた。またエヴァンは歯科医であったが映画脚本家になりたいという夢を持っており、この夢の実現のために多額の金を必要としていた。
少年は母のジューンに引き取られており、エヴァンは養育費の支払いも滞っていた。そして当時少年をめぐって、ジューンとエヴァンは熾烈な親権争いをしていた。こうした背景において、エヴァンにとっては、マイケルは金をゆするうってつけの対象だった。エヴァンは、自分の陰謀にぴったりの悪徳弁護士バリー・ロスマンに代理を依頼し、2人でマイケルから金を恐喝する策略を立てて行動に出た。
少年は当初、マイケルは自分に対して何も不適切な行為をしていないと語っていた。しかしあるときから突然この意見を変えてしまう。当時、少年の歯を抜くためにエヴァンが治療を行った際、バルビツール酸系の催眠鎮静剤であるアモバルビタールを使用した直後のことであった。
裁判ではこの事実を持ち出せば無罪になる可能性が高かった。
警察がマイケルのネバーランドおよびロサンゼルスのマンションの家宅捜査令状を取って動き出すと、この情報がメディアに流れて世界中に報道され、一大ショックを巻き起こした。家宅捜索の際に警察官はマイケルの家の花瓶を蹴り倒し、25万ドル相当の金貨数枚も紛失したが、この件に関しては不問とされ起訴もされなかった。また1993年12月20日、警察はマイケルを全裸にして体中を調べ、ペニス、尻、太ももを撮ったが、少年の証言と一致するような証拠は見つからなかった。しかし、このようなマイケルにとって有利なニュースは大々的に報道されることはなかった。
裁判が推定7年近くかかることや、マイケルが精神的に危険な状態にあったことなどにより、音楽活動への多大な影響を懸念してマイケル側は和解金を支払うことを選択した。ここで和解を結んでしまったことで世間からは偏見の目を向けられることとなり、この問題は後のマイケル・ジャクソン裁判まで尾を引いてしまった。
マイケルはすでに「Dangerous World Tour」を欧州から開始していたが、刑事捜査と同時に民事訴訟が提起されるなど、とてもツアーを続けられるような状況ではなくなってしまった。これらのプレッシャーとストレスに加え、10年前のCM撮影で負った頭部やけどの皮膚再生手術をツアー直前に受けていたこともあって鎮痛薬を処方されていた。そのためこの薬物の依存症になり、ワールドツアーを途中で断念せざるを得なくなってしまった。彼はメキシコでツアー中止の理由として「虚偽の疑惑からの屈辱と不名誉、メディアの虚偽報道などからくるストレスとプレッシャー、パフォーマンスで必要とされる大きなエネルギーとが、僕を追い詰め、身も心も疲れ果ててしまいました」と発表した。マイケルはツアーを中断して薬物依存症の集中的治療を受けるべく、エリザベス・テイラーの献身的な支援に支えられてメキシコから英国に渡った。
マイケルの死後に少年が米タブロイド紙に「僕は父に嘘を言わされた。マイケルごめんなさい。」と語ったと掲載されたが、実際の本人のコメントなのかどうかは不明。少年はこの件に関して公式にコメントしていないとされている。
2009年11月初旬、少年の父親エヴァンが、アパートの管理人により自宅のベッドの上で死亡しているのが発見された。頭部側面に拳銃による銃創があり、発見時に拳銃を手に持ったままの状態だったことからジャージー市警は自殺と断定。市警のスポークスマンより「自殺と断定した。死亡時に複数の処方薬が発見され、重篤な病だったと思われる。遺書などは見つかっていない」と公式に発表した。彼は再婚し2児をもうけていたが離婚し、子供たちとも疎遠になっていた。またマイケルのファンからの反発を避けるため整形手術を行っており、その容姿は以前とは全く異なっていたと伝えられた。
1994年5月、エルヴィス・プレスリーの娘であるリサ・マリー・プレスリーと結婚。
1996年1月、リサと離婚。
「普通の結婚生活だった。しかし彼がある時点で、彼の血を吸い取るような人たちとドラッグか、または彼らか私かを選ばなくてはいけなくなり、彼は、私を遠ざけることを選んだ」と語っている。
同年11月、デビー・ロウと結婚。
マイケルは活発な慈善活動家としても知られていた。
2003年11月、ベスト盤『ナンバー・ワンズ』を発売。先行シングルとして「ワン・モア・チャンス」がカットされた。
マイケルは少年に対する性的虐待をしたとして2度の疑惑をかけられ、それぞれ民事裁判と刑事裁判が行われたが、有罪判決を受けたことは一度もない。この一連の疑惑についてFBIも10年以上に渡る捜査と監視を行ったが、FBIはマイケルが有罪であるという証拠を一切発見できず、無実だったと結論づけている。
度重なる整形手術や著しい肌の色の変化は、度々マスメディアの注目を集め、議論や憶測を呼んでいた。
初めて整形手術を施したのは1979年にステージで負った鼻の大怪我を早急に治癒する目的があった。1984年に負った頭部の大火傷で顔面の骨格や皮膚に後遺症が残ったことや、もともと幼い頃に家族から「デカ鼻」といじられ容姿にコンプレックスを抱いていたこともあって、その後も晩年に至るまで鼻と顎を中心に整形手術を繰り返したとみられる。1988年の自伝『ムーンウォーク』で自身が語ったところによれば、当時の時点で彼が施した整形手術の回数は「鼻が2回、顎が1回」であるという。
一方で、肌の色の変化は尋常性白斑という疾患に由来するもので、死後の検死報告で公式に明らかにされた。この病気が進行し始めたのは1979年から1982年の頃で、体中の皮膚の色が斑状に変化していったという。1990年代以降に病気は急激に進行し、外出中は紫外線を断ち切るために常に大きな帽子、傘、サングラス、マスクの着用を余儀なくされていた。長年彼のメイクアップを担当していたカレン・フェイは「彼も周りもずっと病気のことを隠そうとしていた。最初は白い部分を茶色のファンデーションで隠していたが、白斑が全身に広がると白くメイクするように切り替えるしかなかった」と話している。また、1984年に負った頭部の大火傷も病気の進行を早めたと言われている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/マイケル・ジャクソン
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/尋常性白斑
(ログインが必要です)