第42話 『歌に疲れ果て山の村に逃げた……』

文字数 2,704文字

岡林 信康(おかばやし のぶやす、1946年7月22日- )は、日本シンガーソングライター

実家は教会で、父親は牧師

「友よ」は、社会変革を訴える歌として受け止められ、1960年代末の学生運動などが盛んだった時期に、盛んに歌われるテーマソングのような存在となり、岡林は「反体制の象徴」となり、関西フォークを代表する大スターとなっていた。特に、歌詞中で繰り返される「夜明けは近い」という印象的なフレーズは、強いメッセージ性をもつものとされた。


1969年8月9日から翌10日にかけて行なわれた第1回全日本フォークジャンボリーでは、最後に岡林を含む参加者全員が「友よ」を合唱した。


あまりに活動家の中で歌われるようになったため、「お前の名前が警視庁のブラックリストに載っているぞ」と言われ、「陰の指導者」だと勘違いされるくらい「反体制の象徴歌」だった。


当時岡林は、「絶望的な暗さの中であえて夜明けは近いと歌いたいんです。夜明けが近いんじゃなくて、今が暗やみだから火を燃やそうと思ったんです。はじめ二番しか作ってなかったのだけれども、元フォークキャンパーズのリーダーをやっていた鈴木君が三番をつけてくれました。友よ闘いの炎を燃やせ!」と語っていた。


岡林自身は、後年のインタビューでこの曲について、「根幹にあるのも賛美歌だ」と語っており、別のインタビューではこの曲について、「当時の左翼運動のテーマソングになったかと思ったら、片や自衛隊の駐屯地でも歌われていたらしい」とし、作り手の意図を超えて左翼運動と結びついていったという見解を述べている。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8B%E3%82%88_(%E5%B2%A1%E6%9E%97%E4%BF%A1%E5%BA%B7%E3%81%AE%E6%9B%B2)

岡林信康

1968年に『山谷ブルース / 友よ』でメジャーデビュー。日本語のフォークとロックのシンボルとして、最初のカリスマ的存在となった方です。彼を語る時に必ずつく呼び名は「フォークの神様」。1960年代終わりから1970年代にかけての激動の政治の時代を象徴する人ですが、本人の意識や意図とは別に祭り上げられてしまった面の方が大きかったかもしれません。1970年代の初め、岡林さんは東京を引き払って京都の山村に移住するんです。今も音楽活動と農作業を並行しております。1980年代には新しいポップスを目指し、1990年代には日本の伝統音楽と取り組んだ。まさに孤高の軌跡です。彼は何を求めて、何と戦って、どう自分自身であろうとしたのか?

https://rollingstonejapan.com/articles/detail/35679/1/1/1

小さい頃、父から無理やりピアノを習わされた(教会で賛美歌のオルガン奏者をみつけるのに苦労し、自分たちの子どもにそれをやってほしいという思いから、姉も弟も習わされていた)が苦痛で、小学校二年から始めて三年間でバイエル四十番までしかいかず、教える先生もさじを投げるほどだった。

浪人していた頃、友達がギターを置かしてくれと持って来た。

「ギターにはコードっていうのがあって、コードはこうやって弾くんだよ」

と教えてくれた。これでグループサウンズの歌なんかができるんだぞって言われ、弾き語りをしたり、作曲をしたりしたと言う。加山雄三の詩に違うメロディーをつけて作曲もしていた。

本格的にやり始めたのは高石ともやを聴いてから。

初めて買ったギターは、山谷の質屋で3,200円だった。

高石ともやのコンサートで「受験生ブルース」を聴いて感動し、ギターを持ち始めたのが後に“フォークの神様”とよばれた岡林信康だった……


上京して飯場にいたとき、居酒屋の有線放送で岡林信康の『山谷ブルース』が流れて。

歌詞で『今日の仕事はつらかった、あとは焼酎をあおるだけ』ってのがあって、これ俺のこと言ってる! って思ったんです」

岡林信康との出会いから独学で音楽を始めた友川かずき氏は数年後、当時のアルバイト先で知り合ったミュージシャン・宇崎竜童氏に見出され、歌手デビューを果たした。

「トドを殺すな」(1976年)『作品の中の音楽』47話。

山谷に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」でビクターよりレコード・デビュー。翌年までに、「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」、「くそくらえ節」、「がいこつの歌」など、名作・問題作を発表。

その内容から、多くの曲が放送禁止となった。プロテスト・フォーク、反戦フォークが若者の間でブームとなり、中でも岡林は一世を風靡し、「フォークの神様」と言われた。

しかし、勤労者音楽協議会との軋轢や周囲が押しつけてくるイメージと本人の志向のギャップ(同時期、岡林はすでに直接的なプロテストソングに行き詰まりを感じており、ロックへの転向を模索していた)などにより1969年9月、3カ月余りのスケジュールを残したまま一時蒸発した。

書き置きは「下痢を治しに行ってきます」

被差別部落に関わるきっかけは、山谷での日雇い労働での経験から来ており、それまで見たことのない人々や社会にショックを受け、地元の滋賀に帰ってから、琵琶湖のほとりでテントを張り、自問自答していく中で、自分の身近にある社会問題に目を向けたところ、それが被差別部落問題だった。そのことから、山谷に行ったり来たりしながら、地元の被差別部落区域でも日雇い労働を経験しながら、部落解放運動にも参加した。
『作品の中の音楽』46話に『くそくらえ節』と『山谷ブルース』があります。
松山千春と山本コウタロー。

松山千春が、フォークシンガーを目指すきっかけとなった歌です。

当時12歳の少年が足寄の公民館で初めて歌に感動しフォークソングに興味を持ち始めた岡林信康の代表作(コメントより)

『自由への長い旅』です。イントロのギターは大瀧詠一さんだそうです。

1970年4月、コンサートに再登場、「ごめんやす。出戻りです。お互い堅くならんといきましょう」と話した。

この時期からボブ・ディランに影響を受けたロックを、当時無名だったはっぴいえんどをバックに展開し始める。「それで自由になったのかい」「私たちの望むものは」「自由への長い旅」などの作品を発表、喝采を浴びて東京に移り住み、一夫一婦制ナンセンスを唱えて自由なヒッピー風生活をするが行き詰る。

1971年の日比谷野外音楽堂での「自作自演コンサート 狂い咲き」および、「第3回中津川フォークジャンボリー」を最後に、再び表舞台から姿を消す。

続く。
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