第25話 この子を殺すつもりか?
文字数 4,372文字
クイーンの歴史はスキャンダルとの戦いでもあった。特にフレディは特異な出で立ちもあって、タブロイド紙に追いかけ回され人格攻撃的な記事さえ書かれ続けた。
もともと繊細なフレディは常にそれと戦ってきたのだが、どこかで吹っ切れてしまったような気がする。クイーンが解散の危機に直面していた80年代初頭から、彼の生活は乱れに乱れ始める。一方で愛を求め、愛に生きた男は誰よりも美しい曲をこのアルバムに残してくれた。それが「生命の証(There Must Be More To Life Than This)」である。驚くことにこの曲には、アルバムには収録されていないマイケル・ジャクソンとのデュエットテイクが存在するのだ。
1983年4月にフレディがマイケルの住むロスアンゼルスを訪ねた際、録音されたのだが未完成のまま放置されていた。そして遂に2014年、『クイーン・フォーエヴァー~ベスト・オブ・ラヴソングス』に正式な完成版が収録された。
マイケルも、スターダムの孤独の中で愛を欲して生きたカリスマである。「人生にとってより大切なものがあるんだ 僕たちは愛のない世界の中でどうして生きられよう?」と2人がデュエットする時、スターであることの苦悩に悩まされ続けたフレディとマイケルが、僕たちの心の中に、美しい愛に似た感情をもたらしてくれる。
マイケル・ジャクソンにも『BAD』というアルバムがあった。2人の「バッド・ガイ」は、命の炎を燃やして愛の伝道者となった。その愛は、世代を超えて伝わってくる。
初めてのテレビ出演は子供の視聴が多い土曜の夕方に放映され、放映直後はテレビ局に問い合わせの電話が殺到した。1973年に世志凡太がプロデュースし、漫画家の水島新司がレコードジャケットのイラストを手掛けた「個人授業」を発売すると、ミリオンセラーとなり一気に知名度が上がる。その後「恋のダイヤル6700」「学園天国」などをリリース、いずれもミリオンセラーとなった。テレビ・映画にも多く出演した。楽曲のテーマは学校における恋愛で一貫していた。
5人の中でも特に、年少の晃と妙子に注目が集まった。デビュー当時は11歳と10歳で、あどけない姿でステージをこなす姿が人気となった。晃が「目立ちたいから」とトレードマークとしたトンボ形のサングラスが大流行した。
大人気によるハードスケジュールのために晃が過労で入院すると、病床の写真が週刊誌に掲載され、医師は関係者に「あなたたちは、この子を殺すつもりか」と告げた。晃が変声期で「声変わり」を防ぐため、関係者らが女性ホルモンの注射を強く勧めたが本人は断った。
1975年、ハードスケジュールは限界に達し、休養も兼ねて1975年から1976年に米国に留学する。これまで芸能活動で得た収入は、渡航費用で全て使い切った。芸能活動に一切口を出さなかった父の「芸能界で稼いだ金など、あぶく銭だ」とする考えも反映されていた。
帰国後は、長く日本を留守にしていたこと、メインボーカルの晃が変声期で従来のようなハイトーンが出せなくなったこと、彼らのやりたい音楽とファンのニーズが乖離してヒットに結びつかないことなどから人気が急落した。後の晃の述懐によると、どうすれば売れるかは分かっていたがそれは自分たちがやりたくないことであり、割り切って自分たちのやりたいことをやろうとしたら売れなくなったという。
末期は晃に代わり妙子をメインボーカルに据えたり、バンドとしてメンバー自らの演奏を前面に出すなどを試みるも人気は回復せず、1978年に実質的に解散した。その後メンバーの一部は、ザ・フィンガーズなど、いくつかのバンドを結成し活動するが、大きくブレイクすることはなかった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC5
当初、晃のトレードマークの大きなトンボ眼鏡はかけていなかった。ラジオの公開番組で布施明がサングラスで歌っているのにヒントを得て、新宿伊勢丹で似た眼鏡を買ってステージに立とうとした。ところが長兄が猛反対。晃は本番直前にかけて客の前にでた。怒る長兄。NHKのスタッフが晃のトンボ眼鏡を絶賛した。以後、晃のトレードマークになる。
猛烈に忙しかった晃は、40度の高熱が出てもステージに立った。
「緞帳の影でマネージャーが僕にささやくんです。”晃、みんなお前のことを観に来てるんだよ。ここでおまえが倒れて、病院に行ったらこの子たち、どうする?”って。正論なんだけど、当時のオレには酷だったね。命ここまで使い切らせるんだって。子どもだから残りの10パーセントのエネルギー全部使うからね」
仕事の途中で何度も倒れて救急車で運ばれ点滴を打った。廊下で医師がマネージャーに「あんた、これ以上仕事させたら死ぬよ」と警告した。
晃の体に変化が起きた。思春期を迎える少年にとって避けられない変声期である。
「マネージャーに渋谷の耳鼻咽喉科まで連れていかれて、女性ホルモン注射打つしかないってことになった。成長を止めて、声変わりをしのぐしかないって。でも打つと毛がはえなくなるし、あそこが小さくなるって。それは無理、その場で断った。親にも兄妹にも言えなかった」
変声期がきっかけになって、人気に翳りがでた。幼いアイドルから大人に脱皮する時期が一番難しい。ショービジネスの世界で大成功をおさめながら、19歳でいさぎよく芸能界から引退した。
フィンガー5が大成功したときでも、父親はずっと東村山の冷凍工場で働いていた。前から芸能界入りを反対していた父親は子どもたちが一般人にもどることに大賛成だった。
晃が転じた次なる世界は電化製品の飛び込みセールスマンだった。
「売上げゼロでノイローゼ、メシも食えない。ガリガリで二度目の死にかけだった。地獄だったね。自殺しようと思った」
先輩から、「もっと開き直れ」と言われてからは、訪問先で挨拶代わりにかつての持ち歌を歌い、中に招き入れられ、電化製品を売り、成績アップになった。売れるとやる気がでた。20年前から歌手に復帰。
「いやなこといっぱい観てきたから、真逆で生きればいいと思った。自分は純粋でいられるから」
私はもう一つ質問してみた。
ーーフィンガー5って、スキャンダルがなかったですね
「ないもん。親父に殺されるから。まっとうに生きることが僕らの仕事だった」
すでに空に旅立った父親は、琉球空手の師範で、警察で教えるほどの腕前だった。
歌の世界にもどれて何がよかったといえば、尾藤イサオと同じコンサートステージに立てることだった。
「死を考えたとき、尾藤イサオさんが歌う『あしたのジョー』の主題歌に励まされて、思いとどまったんですよ。ジョーが少年院から這い上がるじゃないですか。おれもジョーに負けられないって勇気づけられる歌でしょう。尾藤さんがステージで歌っていると、緞帳の横で涙がぎゅーっと来た」
公園でエリック・クラプトンの「チェンジ・ザ・ワールド」を弾く晃。
苦楽はメロディを味わい深くするスパイスになっていた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/bd4c34c030aefd496a1ef8b6429504ffdd230441
♬だけど~ルルルル~ルルル~ルル~ルルル~
実はこのルルルの部分にはちゃんとした歌詞があったのを
尾藤さんがレコーディングの時歌詞を忘れてルルルでごまかしたのが
そのまま使われたそうです(本人談)コメントから。
映画『フェノミナン』において音楽総指揮を務めていた、ロビー・ロバートソンの提案により実現したエリック・クラプトンによるカヴァーは、R&Bプロデューサーで、当時グラミー賞の常連であったベイビーフェイスが、大御所ロック・ミュージシャンをプロデュースしたことで話題となり、楽曲の美しさもあって、シングルは大ヒットした。
1997年5月には、全米シングルチャートで最高5位を記録した。また、アダルト・コンテンポラリー・チャートでは1位を13週も記録し、1年半(80週)もの間チャート内に居座る当時としては珍しいロングヒットとなった。
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