第19話 夫婦だった

文字数 4,159文字

江利 チエミ1937年昭和12年〉1月11日 - 1982年昭和57年〉2月13日)は、昭和期に活躍した日本歌手女優タレント

1959年(昭和34年)、ゲスト出演した東映映画での共演が縁で高倉健と結婚、家庭に入るものの、1960年(昭和35年)に本格的に復帰。高倉と結婚した3年後の1962年、チエミは妊娠し子供を授かるが重度の妊娠高血圧症候群を発症し、中絶を余儀なくされ子宝には恵まれなかった。

チエミの姉(異父姉)による横領事件などがあって、高倉に迷惑をかけてはならない、と1971年(昭和46年)にチエミ側から高倉に離婚を申し入れることに。チエミは数年かけて数億に及んだ借財と抵当にとられた実家などを取り戻す。

1982年(昭和57年)2月13日午後、チエミが港区高輪の自宅マンション寝室のベッド上でうつ伏せの状態で吐いて倒れているのをマネージャーに発見され、既に呼吸・心音とも反応がなく死亡が確認された。45歳没。死因は、脳卒中吐瀉物が気管に詰まっての窒息誤嚥)によるものだった。チエミの死は、数日前から風邪を引き体調が悪かったところにウイスキーの牛乳割りをあおり、加えて暖房をつけたまま風邪薬を飲んで寝入ったことが一因とも言われている。

あまりにも突然過ぎる死に、チエミの親友だった「三人娘」のひばりといづみ、他にも清川虹子中村メイコらもショックを隠しきれずに号泣し、チエミの葬儀の席でも深い悲しみに暮れていた。高倉もチエミの葬儀に姿を現さなかったものの、葬式当日に本名の「小田剛一」で供花を贈り、また会場の前で車を停めて手を合わせていたという。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/江利チエミ

酒場にて」は、1974年9月25日に発売された江利チエミのシングル。オリコンチャートの最高位は22位だったがロングセラーとなり、翌1975年のオリコン年間順位は第67位にランクされ、江利自身久々のヒット曲となった。累計売上は16万8千枚。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/酒場にて
高倉 健1931年2月16日 - 2014年11月10日)は、日本俳優歌手

1959年2月16日(高倉が28歳の誕生日の時に)江利チエミと結婚。

江利の命日には毎年、墓参りは欠かさず、花を手向け、本名を記した線香を贈っていた
時代おくれの酒場」は、加藤登紀子1977年10月21日にリリースした楽曲。

1983年11月12日公開の東宝映画『居酒屋兆治』の主題歌に採用される。

『幸福の黄色いハンカチ』の冒頭で、刑務所から刑期を終え出所した直後の食堂で、女性店員についでもらったグラスに入ったビールを深く味わうように飲み干した後、ラーメンとカツ丼を食べるシーンがある。その収録で「いかにもおいしそうに飲食する」リアリティの高い演技を見せ、1テイクで山田洋次監督からOKが出た。あまりにも見事だったので、山田が問い尋ねると「この撮影の為に2日間何も食べませんでした」と言葉少なに語り、唖然とさせた。
好きなミュージシャン大塚博堂である。「自分にない何かがある」と感銘を受けたことがきっかけだった。デビュー曲『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』はじめ、大塚とよく組んで仕事をしていた作詞家の藤公之介に「大塚と組んで曲を作ってほしい」と電話で頼んだこともあったが、この時は大塚が多忙で別の作曲家が曲を担当した。しかし、その後間もなく大塚が急死したため、「夢のコラボ」は幻に終わった。直接対面することは無かったが、大塚のメモリアルイベントなどでは、一ファンとして何度かメッセージを贈っていた。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%80%89%E5%81%A5

浅丘 ルリ子1940年7月2日 - )は、日本女優

1971年、日本テレビのドラマ『2丁目3番地』での共演をきっかけに石坂浩二と結婚。石坂は当時の世の男性の羨望を一身に集める事となったが、程なくして別居。2000年に離婚。

愛の化石」は、浅丘ルリ子がテイチクレコードから1969年8月5日に出したシングルレコード。この曲をモチーフに、翌年の1970年には、浅丘と田宮二郎主演で同名映画も製作された。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%B8%98%E3%83%AB%E3%83%AA%E5%AD%90

芸名の由来は、親友の大空眞弓が自分の好きな作家・石坂洋次郎と俳優・鶴田浩二からそれぞれ拝借して名づけたことによる。

音楽ではクラシックを好み、特にベルリオーズが好きで、日本ベルリオーズ協会の会長を務めたことがある。

映画では1976年、横溝正史原作・市川崑監督による映画『犬神家の一族』に金田一耕助役で主演し、同年の邦画配給収入2位(13億200万円)のヒットとなり、シリーズ化される当たり役となった。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%9D%82%E6%B5%A9%E4%BA%8C

テレビCMへの出演も多く、とりわけ、和服姿でぷっと頬を膨らませ、かすれた声で甘えるように「すこし愛して、ながーく愛して」という台詞で知られる、サントリーレッドのCMは、その言葉どおり多くの人に長く愛され、1980年(昭和55年)から1990年(平成2年)まで放送された。歌手としても、数枚のレコードをリリースした。明石家さんま清水ミチコによく声真似をされた。
2009年8月6日、連絡が取れず不審に思って警察に通報していた実弟らによって、自宅で死亡しているのが発見された。62歳だった。亡くなる2年ほど前から「私は死ぬときにはスーッと消えて、そのままいなくなりたい」と言うようになっており「孤独に追い込まれたのでなく、自ら『孤高』を選んだ」という見解を示している。

1973年(昭和48年)9月、俳優・渡瀬恒彦と結婚したが、5年後の1978年(昭和53年)2月13日に離婚。1980年(昭和55年)6月には、歌手・森進一と再婚したが、1984年(昭和59年)に破局に至った。森との結婚生活については離婚会見で「家庭に男が2人いた」と振り返った。

渡瀬恒彦と離婚したあとも、渡瀬恒彦のことが好きだったという。渡瀬との離婚の原因については、大原ははっきりとしたことを言っていない。

大原の死去後のお別れ会には森、渡瀬の元夫2人も出席した。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8E%9F%E9%BA%97%E5%AD%90

「お祭りマンボ」(おまつりマンボ)は、1952年8月15日に発売された美空ひばりのシングル盤レコードである。

9歳でデビューし、その天賦の歌唱力で天才少女歌手と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで目覚ましい活躍をし自他共に歌謡界の女王と認める存在となった。昭和の歌謡界を代表する歌手であり、没後の1989年7月2日に国民栄誉賞を受賞した。

1962年、小林旭と結婚。出会いは雑誌が企画した対談の場だった。交際を始めるが、小林は結婚をまだ考えていなかったにも関わらず、ひばりが入れあげ、父親代わりでもあった田岡一雄に、自分の意志を小林へ伝えるよう頼んだ。ひばりの意を汲んだ田岡は小林に結婚を強引に迫ってきたので、小林は断れず1962年(昭和37年)に結婚した。小林は「結婚生活でのひばりは懸命によき妻を演じようとし、女としては最高だった」と『徹子の部屋』で述懐している。小林は入籍を希望していたが、ひばりの母に不動産処分の問題があるからと断られ続け、入籍しておらず、戸籍上ではひばりは生涯にわたり独身であった。ひばりは一時的に仕事をセーブするようになるが、実母にしてマネージャーである喜美枝や周辺関係者が二人の間に絶え間なく介入し、結婚生活はままならなかった。また、ひばりも歌に対する未練を残したままだったため、仕事を少しずつ再開し小林が求めた家庭の妻として傍にいてほしいという願いも叶わなかった。

別居後の1964年、わずか2年あまりで小林と離婚。「和枝(ひばりの本名)が僕と結婚しているより、芸術と結婚したほうが幸せになれるのなら、と思って、理解離婚に踏み切った」と説明。この「理解離婚」という言葉は当時流行語となった。「未練はいっぱいある。皆さんの前で泣きたいくらいだ」と離婚は小林の本意でなかったとも語っている。

その1時間半後にひばりも田岡に同席してもらい、記者会見を行った。ひばりは田岡に口添えされながら、「理由をお話したいのですが、それを言ってはお互いに傷つける」「自分が幸せになる道を選んだ」と答えた。また「私が芸を捨てきれないことに対する無理解です」「芸を捨て、母を捨てることはできなかった」とも語り、今後は舞台を主に頑張ると語った。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E7%A9%BA%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A

自他ともに認める小林の大ファンを公言していた大瀧詠一が書き下ろした楽曲で、ストリングス(弦楽器)を用いたサウンドが特徴。味の素ゼネラルフーヅ(現・味の素AGF)「マキシム」のCMソングに採用された。

小林によると、デモテープの時点ではいまいち気乗りのしない曲だったが、スタジオに入ってストリングス・アレンジの事を知り、イントロを聞いた際に「日活映画の世界ではなく、西部開拓史、ジョン・ウェインの世界だ」と気付き、これならいけると思ったという。

翌年に渡って売り上げを伸ばし、累計約37.6万枚を売り上げた。オリコンチャートでの最高位は第12位だったが、1986年のシングル年間チャートでは、第20位に入った。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E3%81%8D%E5%BF%83%E3%81%AB

素敵な曲だとは思っていたけど大瀧詠一さんの曲だとは知りませんでした。
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