第12話 20世紀最大の指揮者フルトベングラー

文字数 3,569文字

チャットノベルにフルトベングラー指揮のオペラが投稿されていて、動画が鮮明で驚いた。

フルトベングラーは一時期本を読んだ。名盤を山野楽器に探しに行った。その頃は簡単には聴けなかった。 

ある時、百均で、フルトベングラーのCDが売られていた。

どういうこと? 著作権が切れたらしいが憤慨!

今はYouTubeで聴けるのでありがたい。ありがたすぎるが。

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者を1922年から1945年まで、終身指揮者を1947年から1954年まで務め、20世紀前半を代表する指揮者のひとりとされている。

現在でもCDが続々と発売され、放送録音、海賊録音の発掘も多く、真偽論争となったレコードも少なくない。

音が出る前から指揮棒の先が細かく震え始め、アインザッツが非常にわかりにくいその独特の指揮法から、日本ではフルトヴェングラーをもじって「振ると面食らう」などと評され、「フルヴェン」の愛称で親しまれている。

ベートーヴェンブラームスワーグナー等のドイツ音楽の本流を得意とした。一般には後期ドイツ・ロマン派のスタイルを継承した演奏とされ、作曲家としても後期ドイツ・ロマン派のスタイルを継承したことから、ライバルのトスカニーニと対極に位置づけられることもあるが、「堅固な構築性をそなえた演奏を『ロマン主義的演奏』というだけで片付けてしまうのは軽率」とする見解もあり、またフルトヴェングラー自身は「後期ロマン主義者」と看做されることを極度に嫌い、「私はロマン主義者でも古典主義者でもない」と語ったともいわれる。


音楽評論家の吉田秀和はフルトヴェングラーについて、「濃厚な官能性と、高い精神性と、その両方が一つに溶け合った魅力でもって、聴き手を強烈な陶酔にまきこんだ」「(ベートーヴェンが)これらの音楽に封じ込めていた観念と情念が生き返ってくるのがきこえる」と評している。
ベートーベン交響曲第5番ウィーンフイル1954年
フルトヴェングラーを神格化して、他人に勧めまくる評論家やウェブ批評家が結構多いが、私は異を唱えたい。
フルトヴェングラーの、今では絶滅しかかっている古き演奏様式は時として魅力的であるし、例のバイロイトの第9のように奇跡的な演奏もある。ただそれらは歴史的価値として評価すべきものであって、貧弱な録音を乗り越えて特別視するほどではないと言いたいのだ。
問題は二つある。一つは言うまでもなく録音が悪いことである。EMIの正規録音もひどいものであるし、いろいろ発掘されたライブ録音などは聴くに堪えないものが殆どである。
そもそも録音が悪ければ、指揮者が苦労して築き上げた各楽器の響きは伝わらないし、各楽器間のバランスなどの重要な要素も全くわからない。聴けるのは速度や全体音量の違いだけになってしまう。これはいくらフルトヴェングラーが凄い指揮者だったとしても、その魅力の半分ぐらいしか聞けないことになる。
逆説的に言えば、速度変化や音量変化しかわからないのに神格化する連中は、かえってフルトヴェングラーに対して失礼なのではないか、とさえ思う。

そもそもフルトヴェングラーは録音、レコードというものにあまり信頼を置いていなかったことが伝わる言葉の端々にうかがえる。今の貧しい録音をあがめ奉る連中には苦笑いするか、「私の芸術はこんな音で伝わるわけがない」と怒り出すのではないか。
二つ目の問題は、そのロマン主義的、感情移入的演奏があまりに極端であり、曲そのものの構造まで壊してしまう域に達することが多い点である。
個人的には昨今の貧弱で味気ないピリオド奏法などよりよほど心の琴線に響くし、猛烈なアッチェレランドなどの劇的手法も嫌いではない。ただ、残された大体の録音において、そのやり方が大袈裟すぎるし、ワンパターンだと思ってしまう。交響曲なら終楽章でテンポを思いっきり揺さぶった挙げ句に強烈に加速して終わる、というのが見え見えなのだ。言ってみれば演歌調が過ぎて、感動に至らないのである。
その点上記演奏、WPhとの5番1954年スタジオ録音は、彼の悪癖である極端なテンポ変動やステレオタイプの終曲前加速が控えめであり、欠点が少ない。その上でやたら速い演奏が多い最近の演奏と異なり、ベートーヴェンらしさを生み出すテンポ設定が誰よりも優れている。フルトヴェングラーのすべての録音の中で最も好きな演奏である。

http://chuyounotoku.jugem.jp/?eid=54&pagenum=1#gsc.tab=0

ベートーベン交響曲第3番『英雄』ウィーンフイル1944年
ベートーヴェンの交響曲第9番1951年(7月29日バイロイトの第九
1951年 バイロイト音楽祭再開記念演奏会でベートーヴェンの交響曲第9番を指揮(7月29日バイロイトの第九)。

1954年 肺炎により死去。68歳。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/

1933年 ベルリン国立歌劇場ワーグナーの「マイスタージンガー」を指揮した際、首相ヒトラーと握手している写真を撮影される。9月15日ヘルマン・ゲーリングの指令により、プロイセン枢密顧問官に就任。同年11月15日には帝国音楽院副総裁に就任。

1934年 ヒンデミット事件によりナチス政府と対立。12月5日、ベルリン・フィル音楽監督、ベルリン国立歌劇場音楽監督、プロイセン枢密顧問官および帝国音楽院副総裁を辞任。

1935年 客演指揮者としてベルリン・フィルに復帰。

1936年 ニューヨーク・フィルの次期音楽監督にトスカニーニから指名されるが、ナチスの妨害により破談。

1938年 ドイツのオーストリア併合後、ナチスによるウィーン・フィル解散を阻止。

1939年 第二次世界大戦が勃発するがドイツに残る。国内のユダヤ人音楽家を庇護。

1945年2月 ウィーン・フィルの定期演奏会後にスイスへ亡命(彼を嫌うナチス高官ハインリヒ・ヒムラーから逮捕命令を出されていた)。5月 戦時中のナチ協力を疑われ、演奏禁止処分を受ける。

1947年 「非ナチ化」裁判の無罪判決をうけ、音楽界に復帰。ベルリン・フィルの終身指揮者に。

1948年 シカゴ交響楽団の常任指揮者就任の要請を受けるが、ホロヴィッツルービンシュタインミルシテインピアティゴルスキーハイフェッツを含むユダヤ系音楽家たちからの抗議により破談。

1937年、トスカニーニはザルツブルクの路上でフルトヴェングラーと会い口論となった。両者は前年のニューヨーク・フィルの引き継ぎをめぐって感情のしこりがあったが、フルトヴェングラーがドイツに留まっていることに対し、トスカニーニは彼がヒトラーの言いなりであると解釈しており、双方は険悪な関係となっていた。

「あなたはナチだから出ていけ!自由な国と奴隷化された国の双方では指揮する資格はない」

「あなたにまかせるなら出て行きます。でも音楽家にとって自由な国も奴隷化された国もない。演奏するのがたまたまヒトラーの国といって、ヒトラーの部下とは限らない。偉大な音楽こそナチスの敵ではないですか!」

第三帝国で指揮する者は全てナチスだ!」

といった内容で喧嘩別れした。以後、2人が会うことはなかったといわれる。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/アルトゥーロ・トスカニーニ

フルトヴェングラーの名声には、いまもなお、暗い影がさす。彼が、ナチ政権下のドイツに留まるという、宿命的、悲劇的決断をしたためだ。一九三三年のナチスによる政権奪取後、数千人のインテリや芸術家は亡命した。しかし、フルトヴェングラーは終戦直前までドイツに留まった。この、決意ゆえに、彼は「ナチスの宣伝マン」「ヒトラーのお気に入り指揮者」「悪魔の楽匠」という、永遠に続く糾弾と非難の的となった。しかし、彼がナチに追従したどころか、公然とヒトラーやヒムラーに叛旗をひるがえし、生命の危険もかえりみず闘ったことを、本書は文献資料を駆使して克明に描き出す。下巻では、敗戦直前のドイツからの脱出劇、非ナチ化審理の過程、そして復帰後の活動を描く。さらに、遺された膨大なレコードから、『トリスタンとイゾルデ』や『指環』、ベートーヴェンの第九をはじめとする、伝説的名盤の数々を論評する。フルトヴェングラーには音楽や政治的存在の他にも種々の側面があった。読者は、この端倪すべからざる人物が問題の多い作曲家であり、多弁なエッセイストであり、日記を丹念に書き続ける人であり、誠実な友人だが逆らえば強敵となる男であり、しかも救いようのない漁色家であることを知るであろう。

フルトヴェングラー 悪魔の楽匠-下巻 
サム・H・白川著 藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代 訳

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