第41話 『若い歌い手が死んだ まだ26の若さ 』     

文字数 2,637文字

尾崎 豊(1965年〈昭和40年〉11月29日- 1992年〈平成4年〉4月25日)は、日本のシンガーソングライター。青山学院高等部中退。身長178cm。既婚。

1983年(昭和58年)12月、シングル「15の夜」とアルバム『十七歳の地図』で高校在学中にデビュー。ライブでの派手なパフォーマンスや、夢や愛、生きる意味をストレートに曲にし、同世代の若者たちから大きな人気を得た。

1992年(平成4年)4月、26歳で急死し、メディアにて連日報道がされた。死後30年を過ぎてもなお幅広く支持され、楽曲は多くのアーティストにカバーされている。

長男の尾崎裕哉は、同じくシンガーソングライターとして活動。

練馬東中学では生徒会副会長を務めたが、喫煙により停学処分が下る。

高校受験では、青山学院高等部に合格。さらに、陸上自衛隊少年工科学校の1次試験にも20倍の競争率を突破して合格した。しかし髪を短くしなくてはいけないと言う理由で、青山学院高等部に進学することになった。

高校在学中には喫煙やオートバイでの事故などで停学、さらに、高校3年生の時には渋谷で同級生らと飲酒し、同じクラスの女子生徒が一気飲みをした事によって急性アルコール中毒で搬送された挙げ句、その直後には大学生のグループとパトカーが出動するほどの乱闘騒ぎを起こし、無期限停学処分を下される。これがオーディションを受ける契機となる。のちに停学処分は解けたが、出席日数が足りず留年となり、自主退学した。

高校2年生の秋、音楽で生計を立てていくことを決意した尾崎はCBS・ソニーが主催した『CBS/SONY Sound Development Audition 1982』に応募し合格する。

デビューアルバム『十七歳の地図』は初回プレスが2,000枚ほどであり、事務所やレコード会社も積極的なプロモーションも行わなかったためにセールスは伸び悩んだ。

その後口コミにより人気が出て、「卒業」の中の過激な歌詞が話題となり、2ndアルバム『回帰線』は大手音楽チャート1位を記録、尾崎の名は瞬く間に全国へと広がっていった。

特に10代のころは「社会への反抗・疑問」や「反支配」をテーマにした歌を多く歌い、マスメディアからは「10代の教祖」などと呼ばれた。

10代最後の日に3rdアルバム『壊れた扉から』を発売しヒット、同時期に行われていたツアーも満員となるなど人気は絶頂を迎える。

一世を風靡した尾崎は、20歳になり方向性を見失い突然無期限活動休止を宣言し単身渡米する。

当時曲を生み出せないことに苦悩していた尾崎は、何の収穫もないままその年の末に帰国する。

その後、新曲の発売がないまま1年半ぶりのライブツアーが始まるも、肉体的な疲労から倒れ、残りのツアーは中止となる。

その年の暮れには覚醒剤取締法違反で逮捕され精神的に低迷。

復帰後にリリースした「太陽の破片」がヒット、フジテレビ系列の『夜のヒットスタジオ』に最初で最後のテレビ出演を行い、東京ドームにて復活ライブを行う。

一方プライベートでは一般人の女性と結婚、長男が生まれ、新たな価値観を見出した尾崎は1990年(平成2年)、2枚組アルバム『誕生』をリリースし、オリコン1位を記録。翌年には大規模ツアーを行うなど、完全復活を遂げる。

しかし事務所やマスコミへの猜疑心は止むことはなく、個人事務所「ISOTOPE」(アイソトープ)を立ち上げた。経営面の管理のほかにプロモートからライブスケジュールを自ら取り仕切らなければならず、多忙な日々を送る中で、再び精神的に追い詰められた尾崎は自殺を図るなど混迷を深めていった。

その後、遺作となる『放熱への証』の制作に取りかかるが、1991年(平成3年)末に母親が急死。交友関係も狭くなっていき、精神的状況はさらに悪い方向へ向かっていた。


20代になってからの尾崎は、かつての「自由」「反支配」といったものとは違い、「真実の愛」「贖罪」「罪」といったものを主題にした歌を多く作っていった。

1992年(平成4年)4月25日(土)早朝、当時の尾崎の自宅であるマンションから約500メートル離れた、足立区千住河原町の民家の軒先に全裸で傷だらけで倒れていたところを、家主の妻に発見された。

5時45分ごろ、通報で墨田区内の白鬚橋病院に運び込まれる。診察した医師は「生命に関わることも考えられるので、専門医に診てもらった方がいい」と診断したが、尾崎は妻と兄とともに自宅マンションに戻る。

しかし、10時頃になって容体が急変、呼吸が止まっているのに気がついた家族が約1時間後の11時9分に119番通報。

日本医科大学付属病院で手当てを受けるも、午後0時6分に死亡した。死因は肺水腫。


後日、雨の降る中4月30日(木)東京都文京区の護国寺にて葬儀・追悼式が行われ、参列者は4万人近くに上り、規模は美空ひばり、吉田茂に匹敵するものとなった。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E8%B1%8A

若い歌い手が死んだ まだ26の若さ

彼は祭壇に置かれ ジェームス・ディーンになった


1989年東京都生まれ。2歳のときに父でありシンガーソングライターの尾崎豊と死別。

その後母と共にアメリカに移住し、15歳までボストンで過ごす。

帰国後にバンド活動を開始し、大学生活と並行しながらライブや楽曲制作などを続ける。

2010年から2013年に「CONCERNED GENERATION」、2013年から2015年に「Between the Lines」と、InterFMのレギュラー番組でナビゲーターを務めた。

大学卒業後、2016年7月にTBSテレビ系「音楽の日」で初のテレビ生出演を果たし、大きな注目を浴びる。同年9月には東京・よみうり大手町ホールで初のホールコンサートを開催し、初の配信シングル「始まりの街」をリリース。

2017年3月に初のCD作品「LET FREEDOM RING」、10月に2作目のCD「SEIZE THE DAY」を発表した。

2018年4月には「ハリアッ!! feat. SKY-HI&KERENMI (Smooth Drive Ver.)」、11月に「この空をすべて君に」を配信。2020年10月に初のフルアルバム「Golden Hour」をリリース。

https://natalie.mu/music/artist/99886

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色