第35話 ユーリ・シモノフ 踊っているような独特の指揮
文字数 6,423文字
プーチン氏批判しないロシア芸術家、欧米で締め出しも 深まる分断
ロシアによるウクライナ侵攻を受け、プーチン政権に近いとみられているロシア出身の芸術家を排斥する動きが欧米で活発になっている。一方、ロシアの芸術家からプーチン政権を明確に批判する声はなかなか出てこない。日本の芸術家からはウクライナ支援の動きが広がっているが、「政治と芸術は別」という声も。こうした対応の違いの背景には各地域で芸術家に求められるものの差異があり、世界の分断が深まっている。
世界的指揮者・歌姫も…広がるロシア排除
プーチン大統領の熱烈な支持者として知られる世界的指揮者のワレリー・ゲルギエフ氏は、伊ミラノ・スカラ座や米ニューヨーク・カーネギーホールなどでの公演を次々にキャンセルされ、締め出しに遭っている。3月1日には独ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者の職を追われた。ウクライナ侵攻への明確な批判を求められたにもかかわらず、沈黙を貫いたのがその理由だ。
同じく親プーチンとされる世界屈指のソプラノ歌手、アンナ・ネトレプコ氏も、独バイエルン州立歌劇場や米ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場などからボイコットされている。ネトレプコ氏は自身のSNSで「私はこの戦争に反対だ。私はロシア人で祖国を愛しているし、ウクライナにも多くの友人がいて、彼らの苦境に心を痛めている。この戦争の終結と平和が私の望みであり、祈り。付け加えるなら、芸術家に祖国への糾弾を強制するのは正しいやり方ではない。政治的分断を超えた和合が私の目的だ」と訴えたが、プーチン政権の批判はしなかった。
露ボリショイ劇場と仏トゥールーズ・キャピトル管弦楽団の音楽監督を兼務していた指揮者のトゥガン・ソヒエフ氏は6日、双方を辞任すると発表した。「愛するロシアの音楽家たちと、愛するフランスの音楽家たちのどちらかを選ぶという不可能な選択を迫られた」ことを理由としている。
名門ボリショイ・バレエも、スペイン・レアル歌劇場やロンドンのロイヤル・オペラハウスでの公演を次々にキャンセルされている。外国人ダンサーは続々と職を辞して帰国しているという。
芸術祭や映画祭でロシアの関係者や作品を締め出す動きもある。伊ベネチア・ビエンナーレ国際美術展は4~11月に開催される第59回展にロシア館が参加しないと発表した。同館のキュレーターらが、ウクライナ侵攻について「耐えがたい」として辞任したためだという。仏カンヌ国際映画祭は5月に開幕する同映画祭とマーケットに、ロシアの代表団やロシア政府と関わりのある人物を受け入れないことを決めた。
欧州を中心とするミュージシャンらが競う「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」の主催者は5月の大会でロシアからの参加を認めない方針を示した。主催する欧州放送連合(EBU)は「ウクライナにおける未曽有の危機を考慮すると、今年の大会にロシアからの参加者を含めることは大会の評判をおとしめかねない」との声明を出した。(毎日新聞2022年3月15日)
世界的指揮者の「決断」
2月末、ロシア軍がウクライナ侵攻を開始したとき、エストニア系米国人の指揮者パーヴォ・ヤルヴィはモスクワに滞在していた。何年も前から計画していた、ロシア国立青年交響楽団との共演のリハーサルをしていたところだったのだ。
しかし、突然の開戦でヤルヴィは難しい決断を迫られた。
友人たちは侵攻に反対するためにコンサートを中止すべきだと促したが、ヤルヴィはロシアの若い演奏家らを失望させたくないとして予定通りに決行。侵攻から2日後の2月26日、リヒャルト・シュトラウスの交響曲を指揮して、その翌日にモスクワをたった。
ヤルヴィは1962年、当時ソビエト連邦の一部だったエストニアの首都タリンで生まれた。現在はチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団と日本のNHK交響楽団の首席指揮者を務めている。
そのヤルヴィが、ウクライナ侵攻直後のロシアで指揮台に立ったことは、音楽界の一部から批判を浴び、彼はコンサート翌日に次のような声明を発表した。
「彼らのような若い演奏家が、政府が犯した野蛮な行為について罰せられるべきではないし、そんな罰が許されてもならない。私は若い仲間たちに背を向けることはできない。音楽家は皆、兄弟であり姉妹なのです」
ユーリ・シモノフ(1941年3月4日 - )は、ロシアの指揮者。
1941年に旧ソ連のサラトフのオペラ歌手一家に生まれる。 12歳の時に学校のオーケストラでモーツァルトの交響曲第40番を指揮。レニングラード音楽院でアレクサンドル・ラビノヴィチに師事。
1966年には全ソ連指揮者コンクールで優勝。1968年には第4回ローマ・サンタ・チェチーリア指揮者コンクールでロシア人として初めて優勝。この後、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団でムラヴィンスキーの助手を務める。 1969年にはボリショイ歌劇場に招かれ、「アイーダ」でデビューを飾る。そして、翌年の1970年には同歌劇団史上最年少で首席指揮者となり、1985年までその地位を保持して最長在任記録を作る。1998年にはモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任。
教育者としては、1978年にモスクワ音楽院の指揮科教授となり、1991年まで務める。
1982年 コヴェント・ガーデン王立歌劇場にて「エフゲニー・オネーギン」で英国デビュー。
1986年 コヴェント・ガーデンのシーズン初日にヴェルディの「椿姫」を指揮。
1989年 ボストン交響楽団とロサンゼルス・フィルハーモニックで米国デビュー。
1994年 ベルギー国立管弦楽団の音楽監督に就任、後に名誉指揮者となる。
モスクワ・フィルを伴っての来日は多く、NHK交響楽団にも客演している。以前はピアニストのフジ子・ヘミングをはじめとする、ソリストの伴奏者としての来日ばかりだったが、現在ではわずかながらオーケストラとの単独公演も開かれるようになっている。シモノフが披露する、昨今ではあまり聴かれなくなった、ブラスセクションを大きく鳴らし打楽器を炸裂させる重量感ある大きな音楽には、ファンとなる者も多い。来日時のアンコールに期待する声も多く、その際の踊っているような独特の指揮姿には、演奏中にもかかわらず会場から笑い声が漏れるほどである。楽屋口でのいわゆる「出待ち」にも気軽に応じ、ファン・サービスの精神が旺盛な指揮者といえる。
劇場上がりの指揮者であることからも推察されるように、その演奏曲目は非常に幅広く、チャイコフスキーやラフマニノフなどのロシア系は当然のこと、モーツァルトやベートーヴェンに始まり、ベルリオーズ、マーラーからイタリア・オペラに至るまで、多彩なレパートリーを持つ。
指揮者、とは。
楽団員を一つにまとめ、深遠なる素晴らしいオーケストラのサウンドを生み出すリーダー。
指揮者のひと振りで、響きがガラッと変わるので、指揮する人間の責任は、実に重大なもの。よほど真面目で、きっちりとした、冗談も通じないような性格の人でないと、とても務まらない仕事、だと思っていました。
ですがね。
こういう考えは、必ずしも正解ではないようです。
とりわけ指揮棒を振らなくても、指揮者の仕事は成り立つみたいです。
更に言うならば、指揮棒を置いて腕組みして目つぶって、じっと音楽を聞いていても良いらしい。
極論すれば、オーケストラに合わせて、踊っちゃってても良いみたいです。
そんなヘンテコ指揮者の中の筆頭株、ユーリ・シモノフ。
モスクワフィルハーモニー管弦楽団、首席指揮者。
御年、今年80歳!
この方、年取ってから、こんな自由自在になったのかなーと思っていたら、若い頃から、こんなユーモラスな指揮振りしてたんですな。
でもなかなか男前だし、若い頃はさすがに体力があるから、妙な指揮の振り方も、ヘンテコな指揮振りながら、変にキレが鋭く、なんだかそれなりにかっこいい!
そして、それが今や円熟味を増し、その指揮振りはついに、
” 楽しいおじいちゃん “
へと、進化を遂げました。
いや、相変わらず、音楽はとても素晴らしいのです。
ただひたすら、棒振ってるそのお姿が、ドッカンドッカン腕を出したり、コミカルに踊り出したり、実に楽しそうで。
なんか、ただの微笑ましい、楽しいおじいちゃんにしか見えない。
で、そこに楽団員が、ばっちりついてきている。
それが、この方の凄いところです。
もう、若手楽団員がね、ノリノリ。
80御年のリーダーが、こんだけやってくれると、後に続けー!!って気分にもなりますわな。
年? なにそれ? って感じで。
いやあ、人生こうありたい。
ソプラノアルトテナーバリトンサックス奏者 渡辺 順一(2021年6月15日)
1:10ワーグナー〜マイスタージンガー前奏曲
2:46ポッケリーニ〜メヌエット
3:56ショパン〜ポロネーズ軍隊
7:25ドボルザーク〜交響曲第9番新世界より
9:34ハチャトリアン〜仮面舞踏会よりワルツ
12:21ベートーベン〜交響曲第7番
17:24モーツァルト〜トルコ行進曲
18:48ブラームス〜交響曲第1番
21:37メンデルスゾーン〜結婚行進曲
23:23ムソルグスキー〜組曲展覧会の絵
29:49マーラー〜交響曲5番5楽章
34:12ショスタコーヴィッチ〜交響曲第10番
35:07R・シュトラウス〜交響曲ドン・ファン
38:53ストラヴィンスキー〜バレエ火の鳥
45:05ヨハン・ストラウスII〜ポルカ仮り
47:40チャイコフスキー〜大序曲1812年
51:56チャイコフスキー〜戴冠式行進曲
『ハンガリー舞曲集』に作品番号は付いていない。これが自作ではなく、伝統音楽の編曲にすぎないことをブラームスが慮ってのことであった(とはいえ、第7曲、第11曲、第14曲、第16曲の主題は、完全にブラームスの創作であったらしい)。のちにレメーニは『ハンガリー舞曲集』の成功を知ると、これが盗作であるとしブラームスを相手に訴訟を起こした。結果はブラームスが「作曲」ではなく「編曲」としておいたことが幸いして、ブラームスが勝訴した。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E8%88%9E%E6%9B%B2
トルコ行進曲は、西欧の作曲家が、西欧人がトルコと呼んだオスマン帝国の軍楽隊の音楽に刺激を受けて作曲した行進曲である。以下の2曲が有名。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのピアノソナタ第11番第3楽章
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの劇付随音楽『アテネの廃墟』の行進曲
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3%E8%A1%8C%E9%80%B2%E6%9B%B2
この作品には偽作説がある。一般にはバッハの最も初期の作品と言われているが、他のフーガとは異なった趣を持ち、また曲の規模のわりに内容が平易であるといったことも特異である。
偽作説の根拠は、バッハの自筆譜が現存せず、最も古い筆写譜が18世紀後半のものであること。
フーガの書法が異例であること。特に主題が単独で提示されるオルガンフーガ、および短調の変終止で終わるオルガンフーガはバッハの全生涯を通じて他に例がないこと。
いささか表面的な減7の和音の効果や技巧の誇示が認められること。
などが挙げられる。ロルフ・ディートリッヒ・クラウス は、この曲の作者をテューリンゲン地方のオルガニスト、ペーター・ケルナー(1705年 - 1772年)としている。なお、フーガ主題の前半はブクステフーデのオルガン作品『前奏曲とフーガ ニ短調 BuxWV 140』に見られる。
『楽興の時』(がっきょうのとき)D 780は、シューベルトが作曲した6曲構成のピアノ曲集。1823年から1828年にかけて作曲され、28年に作品94として出版された。日本では多くのCMで採用され、広く知られている。特に第3番ヘ短調が名高い。
フランス革命後の世界情勢の中、ベートーヴェンのナポレオン・ボナパルトへの共感から、ナポレオンを讃える曲として作曲された。しかし、完成後まもなくナポレオンが皇帝に即位し、その知らせに激怒したベートーヴェンは「奴も俗物に過ぎなかったか」とナポレオンへの献辞の書かれた表紙を破り捨てた、という逸話がよく知られている。
1817年(第9交響曲を作曲中のころ)、「自作でどれが1番出来がいいと思いますか」という詩人クリストフ・クフナーの質問に対し、ベートーヴェンは即座に「エロイカ」と答え、「第5交響曲(運命)かと思いました」と言う言葉に対しても「いいえ、いいえ、エロイカです!」と否定している。
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