第16話 カラヤン
文字数 6,077文字
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ヘルベルト・フォン・カラヤン
クラシック史上屈指の指揮者に数えられる巨匠・カラヤンは、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を7回録音していますが、1964年のベルリンフィルとの録音では、3楽章でシンバルが2拍遅れるという、知る人ぞ知る迷場面? と「ティンパニの混乱ぶり」があるそうです。
演奏全体としては、独特の重厚感があり、決して悪い演奏ではなく、むしろ好演だそうです。
ただ、この録音での3楽章でのシンバルの遅れは、かなりの「謎」とされています……
私には何度聞いても迫力ある素晴らしい演奏にしか聴こえませんが……
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カラヤンはマーラーを長らく演奏も録音もしてこなかった。マーラーはユダヤ人であるため、彼の作品は、戦時中ナチスの支配下にあったドイツでは演奏が規制されていた。
しかし1970年代になると、マーラーの作品を意欲的に取り組み、録音もしている。マーラーの交響曲第5番はその最初を飾ったもので、カラヤンがついにマーラーを録音したと話題になったもの。
映画『ヴェニスに死す』のテーマ曲です。これを聴くために、この長い2枚組のLPレコードを買った。指揮者は誰でも良かった……
ただ、第1楽章から自信の無さを感じるのは気のせいだろうか。タタタターのファンファーレから、勇ましさはなく、どこか手探りな感じ。静かだと思ったら急に音量が大きくなったりして、曲の流れもちぐはぐ。第1楽章の途中や第2楽章の冒頭、第3楽章の途中では金管が裏返ることもあり、天下のベルリンフィルでもこの当時はマーラーに不慣れな感じが伺える。後年、1980年代後半にベルナルト・ハイティンク、1990年代以降にクラウディオ・アバド、そして2000年代に入ってからサー・サイモン・ラトルなどとマーラーの交響曲の名演を行ってきたベルリンフィルが、1973年当時はこんな感じだったのは意外だ。正直これだけを聴くとこのカラヤン/ベルリンフィルのマーラーはイマイチだ。
ただ、そんなネガティブな印象が、第4楽章のアダージェットに進むと一変する。
本当に美しい。
この演奏は、1994年に発売されて全世界でトータル500万部を売り上げた「アダージョ・カラヤン」にも収録された1曲。カラヤン美学が詰まったうっとりするほど美しい演奏で、3楽章までのゴツゴツした演奏がこの楽章だけ自信を持って、手の内に入れた演奏になっている。ヴァーグナーやR.シュトラウスに通じるあの官能美が、ここにはある。
そして続く第5楽章では、ベルリンフィルの機動力を持ってスケールの大きな演奏を聴かせてくれる。ただ、何かしっくり来ないというか、違和感はある。クライマックスでも、響きが「そうじゃないんだよな」と思うところがある。
日本の批評家も冷遇
どうやら、このカラヤンのレコードがリリースされたとき、日本では批評家によって冷遇されたようだ。吉田秀和氏の文書「カラヤンのマーラーふたたび」によると、「音楽の外に立ったままで、少しも中に入っていない。精彩な表現が、どれもこれもひえびえとした感触」とか「ロマンティックな傾向が強く、時にそれは過度」とか書かれたようだ。
カラヤンがどうマーラーを演奏したか知る上では大事な一枚で、第4楽章アダージェットだけは別格。ただ、マーラーの交響曲第5番の名演は他にもあるし、この曲を楽しみたい人にはあまりオススメできない演奏。
https://compass-of-music.com/reviews/mahler-sym5-karajan-bpo-1973/
カラヤンは、オーストリア・ナチ党が台頭してきた極めて初期の段階の1933年4月8日に、ザルツブルグ第5地方支部でナチ党に入党し、党員番号1607525として登録された。
さらに不可解なのは、カラヤンはドイツ・ウルムで1933年5月1日に二度目のナチ入党手続きを行ったことである。(党員番号 3430914)この日以降1937年5月1日まで新たな入党が止められたので、カラヤンは駆け込みで入党手続きを取ったことになる。カラヤンがなぜ二度も入党したのか真意は明らかではないが、カラヤンはこのザルツブルクとウルムでの入党という事実をその後一貫してもみ消そうとしてきた。
カラヤンは入党の事実は認めているが、1935年にアーヘンの歌劇場の音楽総監督の地位につくために必要だったからこのときに入党したとしている。
カラヤンはそのときの入党条件を満たしたことにより1935年にアーヘン歌劇場の音楽総監督となることができたとしている。以後、カラヤンはヒットラーの新帝国のために文化宣伝を積極的に行い、1939年にはナチスドイツの国家指揮者に昇格した。
しかし、カラヤンがナチス政権から遠ざけられることになる二つの予想外の出来事が起こった。一件は総統臨席のワーグナー公演で起こった事件、いわゆるボッケルマン事件と、もう一件が自身の二度目の結婚である。
ボッケルマン事件というのは、1940年6月総統ヒットラーが臨席していた「ニュールンベルクのマイスタージンガー」の公演のとき、歌手のルドルフ・ボッケルマンが酔って出だしを間違ってしまい、これを修正するのに手間取ってしまったという事件である。ヒットラーはボッケルマンがお気に入りだったので、この失敗は若い指揮者が生意気にも暗譜で指揮したためだと思い激怒した。ヒットラーは劇場支配人ティーチェンにカラヤンが指揮をするならば二度とオペラを見に来ないとまで言ったという。この事件がカラヤンを表舞台から遠ざけてしまった一つの要因となったのかもしれない。
カラヤンは、1942年10月にアニータ・ギュンターマンと二度目の結婚をしているが、アニータは4分の1ユダヤ人であった。そのため党の特赦中央情報局がカラヤンの調査を開始した。この調査過程で、カラヤンはナチ党からの脱退を宣言したと証言している。しかし、カラヤンの結婚は黙認された形だが、離党ははっきりしないままとなった。
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1945年夏、カラヤンの非ナチ化審査が始まった。非ナチ化とは、被疑者がナチスではなかったということを審査することであるが、そこでカラヤンは、(アーヘンの)音楽総監督に任命されると同時にナチに入党し、四分の一ユダヤ人の血を引くギューターマンとの結婚により1942年に脱党したと供述している。
そして、紆余曲折を経て1947年10月になってやっとカラヤンの活動が公式に認められた。フルトヴェングラーの解禁よりも半年余り遅かった。
こうして見てくると、カラヤンはナチスを利用して駆け上ってきたが、そのナチスによって振り落とされたともいえる。それでもカラヤンは自分がナチスに入党したのは、芸術上の必要に迫られたからで、ナチスについては何も知らず、関心もなかったと多くの伝記は伝えている。何もわからなかったし、関心もなかったというのは、ナチスに関与した者が戦後かならず使っている弁解の言葉である。しかし、カラヤンのように知的で何事にも綿密に計画して動く人物が、何も知らなかったということがありうるだろうか。仮にそれを認めたとしても、戦後ナチスの多くの行状が明るみに出たとき、自らがナチスに所属していたカラヤンは、自らの非を認め、それを正直に認めるべきではなかったろうか。戦後あれだけ成功したカラヤンならば、償う方法はいくらでもあったはずである。
政治と音楽は関係がないから、指揮者は芸術的に最高の演奏ができればよく、どんな政治体制であろうと、それに影響されるものではないというのは詭弁である。人は知名度が増すほどに、その意見や行動が人々に与える影響が大きくなるという意味で公的な人になる。そのような人がナチス党員になれば、ナチスの看板となり、人々に与える影響は大きくなり、ナチスの興隆に寄与しているのである。ナチスには入党したが、ナチスについては何も知らず、関心もなかったというのは、あまりにも思慮に欠けた行動と言わざるを得ない。カラヤンのような人物が、これほど重大な判断を言われるままに決めたとは到底思えない。
カラヤンの楽譜を暗譜して指揮をするその演奏スタイルだけでも聴衆を魅了してしまうが、そこから生み出される音楽は多くの人に感動を与える素晴らしいものだと思う。だからこそ、カラヤンについて語られるときにかならずその裏側とか影という表現がついてまわるのは残念なことである。それが、カラヤンの人間性だけではなく、その音楽についての好き嫌いまではっきりと分かれてしまうことになっているのだろうか。カラヤンがもしナチス時代の行いについて適切に真摯に対応していたら、カラヤンとその音楽に対する評価はどれ程違ったものになっていたであろうか。
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カラヤンと『華麗なるソリストたち』の一枚に数えられている当時17歳のムターが初めて挑戦したロマン派ヴァイオリン協奏曲の名作2曲のレコーディング。どちらもたった2回のセッションで録音されました。17歳のムターがカラヤン&ベルリン・フィルに臆せず立ち向かっていっている姿が彷彿とさせられる白熱したところを感じます。
メンデルスゾーンではカラヤン&ベルリン・フィルの厚みのある響きがムターのソロを盛り立て、スケールの大きな演奏を繰り広げています。
白眉はブルッフ。かつては三大ヴァイオリン協奏曲に位置づけられていた名曲だけに数々名演奏は聞きましたが、これほど迫力に満ちた演奏は初めて聞くような新鮮さを感じます。
この曲は協奏曲としては変わった構成で、第1楽章には「前奏曲」というタイトルを付け、第2楽章がメイン、第3楽章が終曲となっています。聞き所は第2楽章の瑞々しいロマンティシズムで、ムターの魅力が最大限に発揮されています。クライマックスは、これがとても協奏曲の伴奏とは思えぬ素晴らしさで、ムターの力強いヴァイオリンとともに曲の美しさを満喫できます。もちろんカラヤンは威圧的にねじ伏せるようなところはなく、ムターのヴァイオリンを受けて立っているものの、だからと言って手加減はしていない、そんな感じを受けます。
13歳でヘルベルト・フォン・カラヤンに招かれ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演、国際的に天才少女の名をほしいままにする最初のきっかけとなる。
これまでに、グラミー賞を4回受賞している。
元夫は、指揮者・ピアニスト等として広く知られるアンドレ・プレヴィン。プレヴィンとは、2002年に結婚し、2006年に離婚している。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/アンネ=ゾフィー・ムター
(第2話より)
https://tower.jp/item/2385699/カラヤン-ラスト・コンサート1988-LIVE-IN-TOKYO-モーツァルト:交響曲第39番-ブラームス:交響曲第1番
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