第18話 天性の歌声カレン・カーペンター
文字数 4,177文字
1966年、初めて契約しようとしていたレコード会社が、家族も、そしてカレン自身も自覚していなかった才能を見出す。「バンドを売り出すためにはボーカルが必要だ」と説得されたリチャードは、あるとき急遽カレンに歌わせることに。妹の才能を知っていた兄が披露させた天性の歌声は比類のないもので、レコード会社はリチャードなしでカレンとだけ契約を結ぼうとした。でもリチャードの才能しか信じていなかった母親は、反対する。
母アギネスは「女は主婦としての能力があって一人前」と考えていた節がある。息子のためならLAに一家で引っ越しすらする一方で、自分が一度過小評価した人間の価値が上がることを認められず、知らず知らずのうちに才能を潰してしまう多くの人たち同様、お転婆で男勝りな娘がドラムを始めるときも、歌手デビューするチャンスにも立ちはだかった。母親は、この後一生涯、カレンが類まれな才能を持っていることを認めなかった。
あるとき、地元紙がカレンのハイスクールでの写真を差し「chubby sister」と紹介したのだ。
「太っちょの妹」。思春期の頃から体形を気にしていたカレンは、このことで食事に対して非常に気を使うようになっていった。さらに、彼女の才能がカレンの体形へのコンプレックスに拍車をかける。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/トップ・オブ・ザ・ワールド_(カーペンターズの曲)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/カレン・カーペンター
「イエスタデイ・ワンス・モア」は、カーペンターズが1973年に発表したシングルである。リチャード・カーペンターとジョン・ベティスの作。本国アメリカでは、1973年7月28日にBillboard Hot 100で2位を記録。日本とイギリスでのカーペンターズ最大のヒット曲で、日本での公称セールスは100万枚以上(オリコンでは約60万枚)。オリコン洋楽チャートでは26週連続1位を記録した。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ナウ・アンド・ゼン_(カーペンターズのアルバム)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/イエスタデイ・ワンス・モア
この頃、食事の場はカレンにとって、皿に乗っている食べ物を右に左に転がすための場でしかなかった。減っているのはコップの中の水だけ。周囲の人たちの望む姿になるべく、痩せ続けていった。
日本でのツアーを終えて、兄妹が建ててあげた両親の家を訪れると、カレンがわざわざ買ってきた着物を母は興味なさげに早々に片付け、新居の案内を始めた。母はカレンをないがしろにする癖を止めることができなかった。当時、ほぼ男性しかおらず、めったにいなかった女性のドラマーとして表舞台に立つ娘の行動は許せなかったのだ。「結婚するまでは女性は家を出ない」ことがマナーだと信じていた保守的な母は、娘の自立すら阻み、カレンの一人暮らしも認めなかった。兄の説得で仕方なく兄妹同居という形でようやく認めたが、娘のプライバシーを絶対に作らせないよう画策した。
「私のママになってよ」。
1980年、若手実業家のトム・バリスと結婚をするも、翌年暮れには破綻。離婚同意書にサインする直前(約束の6時間ほど前)に彼女が死去したため、現在も既婚のままとなっている。
1983年2月4日早朝、両親の家で意識不明になっているところを発見され、同日死去した。満32歳没。死因は急性心不全。長期の闘病生活が心臓に負担をかけていたと思われる。なお、映画『カレン・カーペンター・ストーリー』によれば、晩年は過食症と拒食症の症状が繰り返し起こっており、死去前日は食欲が少し出てきたところで翌日亡くなったことになっている。彼女の死は社会に大きな衝撃を与え、拒食症などの摂食障害が社会的に認知されるきっかけとなった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/カレン・カーペンター
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