第18話 天性の歌声カレン・カーペンター

文字数 4,177文字

カレン・アン・カーペンター1950年3月2日 - 1983年2月4日)は、カーペンターズヴォーカリストドラマー声種はアルトで、3オクターブの声域を持っていた。彼女の声の美しさについては、ビートルズジョン・レノンポール・マッカートニーをはじめとした一流のアーティストたちも絶賛している。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/カレン・カーペンター

遙かなる影」は、バート・バカラックハル・デイヴィッドが作った楽曲。本作品を収録したカーペンターズのアルバムのタイトルから「Close to You」と略記することも多い。

1970年5月20日、シングルA面曲としてカーペンターズのバージョンが発表される。同年7月25日から8月15日にかけてビルボード・Hot 100で4週連続1位を記録した。彼らにとって初のナンバーワン・ソングである。ビルボードのイージーリスニング・チャートでも1位を記録し、ゴールドディスクに輝いた。また、1970年の年間チャート2位を記録した。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/遙かなる影

食べることも大好きで、天真爛漫な性格から多くの友人に恵まれた人気者、カレン・カーペンターは長男リチャードに後れること4年、1950年に生まれた。リチャードがピアノの練習に精を出す傍ら、カレンといえば楽器は何をやっても続かず、すぐ野球をしに出掛けてしまうような活発な性格だった。そんな彼女が唯一本気になれたのがハイスクールのマーチングバンドで出合ったドラム。しかしドラムを担当する女性など当時は数少なく、「女のやることじゃない」と両親は反対。その両親を説得して兄のバンドのドラマーに就任したのが、彼女のキャリアのスタートだった。

1966年、初めて契約しようとしていたレコード会社が、家族も、そしてカレン自身も自覚していなかった才能を見出す。「バンドを売り出すためにはボーカルが必要だ」と説得されたリチャードは、あるとき急遽カレンに歌わせることに。妹の才能を知っていた兄が披露させた天性の歌声は比類のないもので、レコード会社はリチャードなしでカレンとだけ契約を結ぼうとした。でもリチャードの才能しか信じていなかった母親は、反対する。

母アギネスは「女は主婦としての能力があって一人前」と考えていた節がある。息子のためならLAに一家で引っ越しすらする一方で、自分が一度過小評価した人間の価値が上がることを認められず、知らず知らずのうちに才能を潰してしまう多くの人たち同様、お転婆で男勝りな娘がドラムを始めるときも、歌手デビューするチャンスにも立ちはだかった。母親は、この後一生涯、カレンが類まれな才能を持っていることを認めなかった。

https://www.elle.com/jp/culture/celebphotos/g26463935/carpenters-karen-carpenter-story-as-a-working-woman-190315/#

スーパースター」は、デラニー&ボニー1969年に発表した楽曲"Groupie"。1970年に"Superstar"と改名され、1971年にはカーペンターズによるカヴァー・ヴァージョンが世界的にヒットした。リチャード・カーペンターがテレビ番組『トゥナイト・ショウ』を見ていた時に、ベット・ミドラーがこの曲を歌い、妹のカレンにぴったりの曲だと思ったことから取り上げられた。サード・アルバム『カーペンターズ』からシングル・カットされると、本国アメリカでは2位に達し、カーペンターズにとって5曲目の全米トップ10シングルとなった。日本のオリコンでは7位となり、初めて日本でもトップ10入りを果たした。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/スーパースター_(デラニー%26ボニーの曲)
こうして音楽界の大舞台に姿を現したことで、人々の注目を集めるようになったカーペンターズ。しかし皮肉なことにそれがカレンの命を縮めることになる。

あるとき、地元紙がカレンのハイスクールでの写真を差し「chubby sister」と紹介したのだ。
「太っちょの妹」。思春期の頃から体形を気にしていたカレンは、このことで食事に対して非常に気を使うようになっていった。さらに、彼女の才能がカレンの体形へのコンプレックスに拍車をかける。

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トップ・オブ・ザ・ワールド」は、カーペンターズが1972年に発表した楽曲。1973年にBillboard Hot 100において1位になり、デュオにとって2曲目のビルボード誌におけるナンバーワンシングルとなった。元々、カーペンターズ版はアルバム内の1曲として考えられていたが、リン・アンダーソンがこの曲をカバーし、アメリカのカントリーシングルチャートにおいて1973年の中頃2位を達成した。アンダーソン版の成功を受けてカーペンターズはアレンジし直した新しい版を作り直してシングルとして発売してみると、アメリカのポップチャートで1位になった。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/トップ・オブ・ザ・ワールド_(カーペンターズの曲)

子供が大好きで、彼女自身も子供のような無邪気さと純粋さを持ち周囲の人から好かれていた。一方で自らの体形については太りすぎという固定観念を持っており、やがて精神的な病となっていった。事実、その頃のカレンは平均的な女性と比較してぽっちゃりしていた。カレンの身長は163センチで適正体重は58.45キロだが、彼女の体重は最大66キロに達していた。カレンは「絶対に痩せてやる」と発奮しダイエットに励むようになったが、それが彼女の寿命を縮める結果となった。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/カレン・カーペンター


イエスタデイ・ワンス・モア」は、カーペンターズ1973年に発表したシングルである。リチャード・カーペンタージョン・ベティスの作。本国アメリカでは、1973年7月28日Billboard Hot 100で2位を記録。日本とイギリスでのカーペンターズ最大のヒット曲で、日本での公称セールスは100万枚以上(オリコンでは約60万枚)。オリコン洋楽チャートでは26週連続1位を記録した。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ナウ・アンド・ゼン_(カーペンターズのアルバム)

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/イエスタデイ・ワンス・モア

ダイエットのためケーキを出されてもほんのひと口かじるだけの生活。

この頃、食事の場はカレンにとって、皿に乗っている食べ物を右に左に転がすための場でしかなかった。減っているのはコップの中の水だけ。周囲の人たちの望む姿になるべく、痩せ続けていった。
日本でのツアーを終えて、兄妹が建ててあげた両親の家を訪れると、カレンがわざわざ買ってきた着物を母は興味なさげに早々に片付け、新居の案内を始めた。母はカレンをないがしろにする癖を止めることができなかった。当時、ほぼ男性しかおらず、めったにいなかった女性のドラマーとして表舞台に立つ娘の行動は許せなかったのだ。「結婚するまでは女性は家を出ない」ことがマナーだと信じていた保守的な母は、娘の自立すら阻み、カレンの一人暮らしも認めなかった。兄の説得で仕方なく兄妹同居という形でようやく認めたが、娘のプライバシーを絶対に作らせないよう画策した。

発散されることのないストレスと、栄養不足からついに体は限界を迎える。コンサート中の舞台の上でカレンは意識を失い、卒倒。コンサートは中断、病院へ運び込まれた。ベッドの上に横たえられた5 フィート4インチ (163cm)のカレンの体重は平均体重より16㎏下回っていたため、医師はドラッグを疑ったが、彼女が別の病に蝕まれていることに誰も気づかなかった。なぜなら彼女は休むことなくランニングやエクササイズの日課をこなしており、どこからどう見ても「健康的な生活」を送っているようにしか見えなかったから。その生活がたとえ彼女の過度な脂肪への恐怖によって支えられていても……。
なんとか回復したカレンは、実家に引き取られる。家族で退院を祝い、仕事も順調にこなし始め実家で過ごした久しぶりの家族団らん。食卓に出てきたものは、兄リチャードの好物。家族のため、必死で少しずつ食事を口に運んだカレンは、母の足元に頽れこう懇願したという。
「私のママになってよ」。

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この曲は1972年にレオン・ラッセルが書いた楽曲です。 
1976年にジョージ・ベンソンがカバーして大ヒットしました。 
カーペンターズも1973年のアルバムに収録しています。 

1980年、若手実業家のトム・バリスと結婚をするも、翌年暮れには破綻。離婚同意書にサインする直前(約束の6時間ほど前)に彼女が死去したため、現在も既婚のままとなっている。

1983年2月4日早朝、両親の家で意識不明になっているところを発見され、同日死去した。満32歳没。死因は急性心不全。長期の闘病生活が心臓に負担をかけていたと思われる。なお、映画『カレン・カーペンター・ストーリー』によれば、晩年は過食症拒食症の症状が繰り返し起こっており、死去前日は食欲が少し出てきたところで翌日亡くなったことになっている。彼女の死は社会に大きな衝撃を与え、拒食症などの摂食障害が社会的に認知されるきっかけとなった。

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