第39話 エレジー
文字数 5,146文字
エレジーは、悲しみを歌った詩などの文学作品、楽曲。日本語では悲歌、哀歌、挽歌などと訳される。
長富彩 埼玉県さいたま市出身。2002年、東京音楽大学付属高等学校のピアノ演奏コースに特待生奨学金を得て入学し、2005年同高校を卒業。最終学歴は、東京音楽大学付属高等学校卒。
同2005年、ハンガリーに留学。リスト・フェレンツ音楽大学(リスト音楽院)の教授であるジョルジュ・ナードルにレッスンを受け、2年後に帰国した。
2008年、ニュージャージ州のプリンストン大学でのシンポジウムに奨学生として参加してエドナ・ゴランスキーにターブマン奏法を学んだ。同年、すみだトリフォニーホールにて開催された賛育会病院の創立90周年チャリティーコンサートに出演した。
2014年、FMヨコハマのラジオ番組「Classic Color」のパーソナリティを務める。
ラフマニノフ:幻想的小品集Op.3
作曲年:1892年
執筆者 : 和田 真由子
ラフマニノフがモスクワ音楽院を卒業した翌年の1892年に作曲された。この曲集の第2
1. 悲歌 変ホ短調 "Elegie"
4分の4拍子。左手で奏される分散和音の上に、哀愁ただよう旋律が歌われる。中間部では、低音部に旋律がおかれ、これがさらに高音にあらわれたのち徐々に感情の高まりをみせる。
2010年2月に行われたバンクーバーオリンピック。初のオリンピックシーズンに浅田がフリースケーティングで選んだ曲は、ラフマニノフが19歳のときに書いたと言われる『前奏曲嬰ハ短調Op.3-2 鐘』である。原曲はピアノ曲だが、彼女が選んだのは管弦楽版。しかしあまりにも重厚な曲、さらにトリプルアクセルを2回入れ、演技の3分半越えてから怒涛のステップが入るという難度の高いプログラムだったため、シーズン前半は思うような結果につながらなかった。「彼女の雰囲気に合っているのか」「別の曲に変えた方がいいのでは」など、心配する声も上がっていた。
だが彼女はこのチャレンジングなプログラムに真正面から取り組んでいった。引退発表後のテレビ番組『引退特別番組 浅田真央26歳の決断~今夜伝えたいこと~』のインタビューで自身の演技を見た浅田は、「このときが一番強い気持ちだった気がする」「鬼みたいだった気がする。自分が」と振り返っている。
7集第4曲目は悲歌(エレジー)と呼ばれているわりには、優しくてあたたかい雰囲気の1曲です。ずっと遠くのその先の、おとぎの国の物語。そんな幻想的な1曲です。
https://www.alpacablog.jp/entry/mendelssohn-songs-without-words
実はこの歌を載せたくて、わざわざエレジーを集めたのです。レコードを買ったわけでもないのに、何故か覚えている、メロディーと歌詞、歌手の変わった名前。調べてみたらまた発見が……
1970 年に「ガロ」という雑誌に発表された恋愛マンガです。主人公は幸子と一郎。二人はアニメ業界の底辺で仕事をしています。小さなアパートの一室でいっしょに暮らしていますが、お金も将来の展望もありません。一郎は漫画家になりたいのですが道は開けません。幸子は親に普通の結婚を迫られています。とくべつな事件はなく、傷つけ合ったり、仲直りしたり‥‥出口が見えない情況の中で二人のせつない生活が続きます。このマンガに惚れ込んだあがた森魚が同名の唄を作り大ヒットしました。当時の大学生には幸子と一郎の世界に憧れて同棲するカップルもあったそうです。動物の中で、ヒトだけは求愛に学習が必要だといいます。文学、音楽、演劇、映画、ドラマ、そしてもちろんマンガにも、このテーマがとても多いのはそのせいかもしれません。昭和の恋愛も今につながります。
由利 耕一(元マンガ編集者)https://gakushumanga.jp/manga/赤色エレジー/漫画家を目指すアニメーターの青年・一郎と、その恋人・幸子の同棲生活を描く。
作詞・作曲 あがた森魚、八洲秀章
チャート最高順位
週間7位(オリコン) 1972年度年間37位(オリコン)
林静一の同名劇画に、あがたが感銘を受けたことにより作られた。そのため、林がシングル盤のジャケットイラストを描いている。
作曲者が八洲秀章となっている理由は、曲が八洲の作曲した『あざみの歌』に似ていることからレコード会社側の判断で八洲の作曲と表記したのであって、実際は作曲もあがたが手掛けている。あがたは直接八洲と会っており、その際に八洲から譜面を出されて「一緒じゃないか」と指摘されるも、あがたは「別にあなたの曲を聴いてこの曲を作ったわけじゃない」と反論、押し問答をしてそのままになった。後日「作曲者は八洲先生になりました」と報告を受け、解せないまま終わりになったという。 なお、蜂蜜ぱいがバック演奏を担当していることから、シングル盤のレーベルでのアーティスト表記は「あがた森魚+蜂蜜ぱい」となっている。
ベルウッドレーベル最初のシングル盤として発売され、60万枚を売り上げ、大ヒットした。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E8%89%B2%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%BC
オマージュだのパクリだの、よくわからないけど……今まで投稿してきた中にもあります。第6話と7話。
メロディーはたった12音階を組み合わせて出来ています。
たった12音階のパズルでも「良いメロディー」と人間が感じられる組み合わせはごく僅かです。
自分が「良いメロディー」だと思って考えだしたメロディーが、既に既存曲で存在していた!なんて事も珍しくありません。
自分の知らない楽曲をパクってた…なんて、正直防ぎ用がありませんよね。
「無意識な盗作」を防ぐ為に使用するツール、それは「弾いちゃお検索」です。
弾いちゃお検索はYAMAHAが制作しているツールで、メロディーの音階を打ち込むと、そのメロディーに似ている楽曲を表示してくれるというものです。
凄く精度が高く、僕自身楽曲制作の際に使用する事が多いです。
「本牧メルヘン」(72年・昭和47年)は朴訥な背中を持った阿久悠さんがカウンターで描いた大人の悲しい童話です。〝恋をしたこともなく悩みもないのに〟自ら命を絶って、〝かもめになった〟女性。阿久さんは70年代を「さびしさが死ぬ価値だった時代」とし、そこへと駆り立てたのは「豊かになったあとの虚無さ」であるとしています。戦後の急速な高度成長によって本牧も夢のお城ではなくなってしまった時、若者たちの胸にはかなわぬ夢よりもつらい白壁がひび割れていました。
そんな物語を、洋行帰りの鹿内孝さんは劇中のジョニーとスミスさながら、虚無の中で熱く優しい吐息をこよなく描きます。それは哀悼の〝苦めのコーヒー〟に溶かされていくクリームのよう。針を落とすたび、汽笛のけむりに似た哀れな湯気が、瞳の奥でぐしゃと崩れます。
https://www.kanaloco.jp/news/culture/bunka/article-453424.html
反骨精神旺盛情緒魚座水瓶座寄り。身長:174cm、血液型B。
1959年に鹿内タカシ&ブルーコメッツを結成し日本劇場でのウエスタン・カーニバルに出演。
1961年、渡辺プロに入り「ロカビリー歌手」として売り出し。
1966年から1968年までアメリカ合衆国へ音楽留学。1968年に「想い出のブルーレイン」で活動を再開。
こたび作詞:阿久悠さん、作曲:ブルコメ井上忠夫さん、編曲:川口真さん
の手によるこの五臓六腑に染みこむ唄で歌謡港に帰ってまいりました。
もし世界にこれで参ったかと我が国ポップを突きつけるとしたらこの曲が威力一番かとも思う
この時の時代の臭いを本牧の埠頭に打ち寄せる波の潮の臭いをもぶちこんだ名曲です98点。
東宝映画・日テレ・読売テレビ制作作品『愛の流刑地』主題歌。原作と映画台本を元に書き下ろされた楽曲で、ヒロイン・冬香の描写にインスパイアを受けた結果、初めて女性目線の楽曲になっている。タイトルは100以上もの案の中から、「エレジー」という言葉の雰囲気と実際の意味が曲に合っているということでつけられた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%93%80%E6%AD%8C_(%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%BC)
「石狩挽歌」は、1975年6月25日に発売された北原ミレイの8枚目のシングル。
作詞・作曲 なかにし礼(作詞)浜圭介(作曲)馬飼野俊一(編曲)
石狩の海の鰊漁を舞台に、大きな夢を見て それをつかめないままに終わってしまう男、そんな男と人生をともにする女の気持ちが、鮮やかな情景とともにうたわれている。
なかにし礼自身の幼少時の体験、兄に対する複雑な気持ち、人生に対する想いが織り込まれている。なかにし礼には、15歳年上の、破滅傾向で疫病神のような兄・正一がおり、その兄が引き起こすトラブルや葛藤が人生にしつこくつきまとった。幼少時、なかにし家は貧困の中にあり、兄はバクチのような鰊漁を行ったことがあり、せっかく大漁に恵まれたのに、それで満足せず、わざわざ本州まで運んで高く売ろうとしたために、結局せっかくの鰊も腐らせてしまい、全てを失い膨大な借金だけが残ってしまった。そして一家は離散することになった。なかにしの内にある、そうした原体験とでも呼べるようなものがこの歌には込められているのである。
ある時期、なかにし礼は作詞に行き詰まっていたが、そこに兄が現れ、兄自身が「鰊のことを書けばいいじゃないか」と言ったという。そうしてこの作品は生まれた。ただし、こうした体験をただそのまま表現しただけでは なかにしの体験をしていない人の心にはすんなり響かないだろうから、聞く人と気持ちを共有できる言葉を詩に織り込んだ、といった主旨のことを なかにし礼はあるテレビ番組のカメラに向かい語っていたことがある。
ヒット当時に北原歌唱版のものが有線放送でさかんに流れ一気に日本人の心に焼きつき、また八代亜紀もテレビで歌唱、その後も石川さゆりや坂本冬美らによるカバーなどもテレビで視聴され、氷川きよしなど若手の歌手も歌うなど、多くの歌手によって歌われている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%8B%A9%E6%8C%BD%E6%AD%8C
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