第32話 演奏不可能 「50年経てば人も弾く!」
文字数 4,739文字
『ワルトシュタイン』は子供が習っていたピアノの先生が弾いたので興味を持った。
今は携帯で32曲を通して聴ける。『ハンマークラビーア』が馴染んだのは最近だ。
ベートーベンのベストテンをNHKの番組でやっていた。ゲストの反田恭平さんが『ハンマークラビーア』が入っていないのに憤慨していた。
同感!
角野隼人 千葉県八千代市生まれ。母はピアノ講師で、自宅でピアノ教室を主宰。家のリビングにあるグランドピアノに物心の付いた時には触れていた。3歳から本格的に母の指導を受け始め、6歳から金子勝子に師事。9歳時のテレビ出演において絶対音感、小学2年時点で作曲能力を有している「天才音楽家」として紹介された。
2014年に開成高校から東京大学理科一類に合格。
大学では、「東大ピアノの会」と「東大POMP」(バンドサークル)に所属。
2018年8月のピティナ・ピアノコンペティション特級に、恩師金子勝子の強い勧めもあって、挑戦し特級グランプリを受賞。音楽家になる決意を固め、プロピアニストとして活動をはじめる。
2018年9月より半年間、東大研究室の教授推薦により、フランス音響音楽研究所 に留学し、音楽情報処理の研究に従事。
2020年3月、在学中のピティナ特級グランプリ受賞・国内外でのピアニストとしての活躍が評価され、課外活動の分野で東京大学総長大賞を受賞し、大学院(修士課程)を修了。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E9%87%8E%E9%9A%BC%E6%96%97
ベートーヴェンはハ長調のソナタを2つしか書いていません。それは、第3番と、第21番ワルトシュタインです。他のピアノ曲には、ピアノ協奏曲第1番Op.16が挙げられます。
当時、ベートーヴェンのもとに新しいピアノがたくさん送られ、講評を求められていました。その中でエラールというピアノは、当時できなかった連打を可能にし、このワルトシュタインを生み出しました。
ベートーヴェンは音楽界の革命家だったので、このような斬新で、当時は受け入れられないような作品も作り上げました。
「ワルトシュタイン」とはこの作品が献呈された人の名前です。第3楽章にはオクターヴグリッサンドがあり、またこの曲の冒頭は低音和音連打で、当時のピアノ制作技術の発展が見受けられます。
古典的な音列のため、大変弾きにくい作品となっていますが、脱力と感覚によって乗り切ることができます。しかし、この感触と脱力ができていないと第3楽章の最後の和音の上行形で、最後に足を引きちぎられることになってしまいます。最後の最後でテクニックが全てばれてしまう恐ろしい曲です。
大曲には悪魔が取り憑いています。この作品は比較的ボロボロになる演奏を聞かないのですが、最大限注意を払って演奏してくださいね。オクターヴグリッサンドは無理しないでください。
https://koukipfblog.com/beethoven-sonate-53-waldstein
幼少時にはピアノ教師から手が小さすぎるためプロのピアニストになるのは難しいと言われ、成人後も小柄であるが、彼女の演奏はそれを感じさせないと評されている。
ステージにおけるドラマティックで活気あふれるカリスマ的な魅力についても、耳の肥えた聴衆からクラシック初心者まで幅広く好評を博している。躍動的な演奏は、アスリートさながらと評されることもある。またソロ・リサイタルにおいては、しばしば直前まで数度に渡って演奏曲目を変更することでも知られている。彼女自身は批評家の意見は気にしないと述べている。
タイトなミニ・スカートやハイヒールなどで演奏に臨むことでも知られており、エルベ・レジェのボディ・コンシャスなドレスやクリスチャン・ルブタンのピンヒール、アルマーニなどを好んでいる。彼女のステージ・ファッションは賛否双方で評価されている。
クラシック音楽における堅苦しいドレス・コードやルールは、音楽の演奏自体とは関係なく、自分はそれを壊したのだと語っている。一方で自分自身にとっては、ファッションは身につけると音楽へと変容し自信を与えてくれるものであるともいう。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%B3
自身の容姿、演奏スタイル、音楽への取り組み方を全面に押し出した様々なモデル活動、トーク番組、ドキュメント番組にも積極的に取り組み、「ピアノ界のビヨンセ」と呼ばれたこともある。
この曲が『ハンマークラヴィーア』と通称されるのは、ベートーヴェンがシュタイナー社へ宛てた手紙の中で作品101以降のピアノソナタに「ピアノフォルテ」に代わりドイツ語表記で「ハンマークラヴィーアのための大ソナタ」(Große Sonate für das Hammerklavier)と記すように指定したことに由来する。ところがその後、この曲だけが『ハンマークラヴィーア』と呼びならわされるようになった。
高度で膨大な内容を有し、ピアノの持つ表現能力を極限まで追求している。その技術的要求が当時のピアニストですらあまりに高すぎたため、出版当時の常識では演奏不可能であった。しかし、ベートーヴェン自身は「50年経てば人も弾く!」と一切の妥協をしなかった。現実には、作曲後20数年でクララ・シューマンやフランツ・リストがレパートリー化して各地で演奏した。
ベートーヴェンがこの「ハンマークラヴィーア・ソナタ」を書きあげた頃は経済的には非常に苦しかった。それに加えて政情不安定な時代の中、忍び寄る孤独と病に向かいあって闘いながら書き上げたのである。
この頃のベートーヴェンには年金以外の収入はない。そのため僅かでも書き終えた作品を、ドイツだけではなくフランスやイギリスに新しい出版社を見つけようと苦労する。
特に、イギリスは裕福な国であって、当時ベートーヴェンを招聘しようとやっきになっていたので、作品の売り込みには恰好の地であった。
だから「ハンマークラヴィーア・ソナタ」の第一楽章と第二楽章が出来上がった時、早速に二つの楽章だけでも売り込みを頼んだ。
また四楽章の形に完成したあと1819年3月には、この「ハンマークラヴィーア・ソナタ」がロンドンで受入れられるために、といって驚くべき提案さえして、「もし、このソナタがロンドンに向かないとしたら、別のをお送り出来るとよいのですが、或いは終楽章でラルゴは外して、フーガのところから直ぐ始めてもよろしい。
または、第一楽章、次がアダジオ、その後に第三楽章としてスケルツォ、そして第四楽章のラルゴとアレグロ・リゾルート(フーガ)を含めて全体的にカットしてしまう、というのでも良いのです。それとも、まず第一楽章で、その次にスケルツォが来る、というだけで良い。2楽章で全ソナタを形付けるのです。
このソナタは押しつめられた状況下で書かれました。なぜなら殆どパンのために書くのは辛いことだからです」と。
ベートーヴェンのように、作品を一つとして同じような構成で書くことはなかった作曲家が何とかして、新作を一刻も早く出版社に売りたいとやっきになり、あれほど苦労して書き上げた作品を、切り売りすることも辞さないという切羽詰まった状態を察するならば 、これはなんと胸の痛む思いであろうか。
そしてまた、この大作を創造したことにより、ベートーヴェンは再び創造の炎を燃すことが出来るようになり、その後、ミサ・ソレムニスを、そして人類の偉大な記念碑的な 第9交響曲の完成へ創造の意思を鼓舞し、また最後の三大ピアノソナタの創作へとなるのである。ベートーヴェンの創造の力に対するただただの驚きと敬服を、「ハンマークラ ヴィーア・ソナタ」に接する時、その感動を常に新たにする。
https://web.archive.org/web/20170328215603/http://takahiro-sonoda.com/lecture/006.html
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