第40話 トマスの指先・6

文字数 2,832文字

 一月の末、西堀との死別後実家に戻っていたふみと、掌の火傷もほぼ治った新野尚次郎純直は祝言を上げた。
 わけありの後家と、決して身分が高いわけではない、足軽上がりの奉行所同心の婚礼である。
 祝言は松川の家で、身内だけでひっそりとおこなわれた。
 近しい親族だけの婚礼の後の宴会も、出席者の笑顔はぎこちなく、会話もどこか白々しいものであった。
 尚次郎の親友・ふみの兄松川信士郎だけが、そっと尚次郎を廊下に誘い、頭を下げた。

「こんな修羅のような縁を結ばせてしまって本当にすまん。だがお前以外にいないんだ」
「頭を上げてくれ信士郎。俺は満足しているし感謝しているよ」
「だがふみは、多分お前には心開かない。一生心閉ざしたままかもしれない。それでもいいのか?」
「ああ。充分だ。西堀殿との約束だもの」
「それは知っている。だがお前はどうなんだ? お前自身は」
「俺自身? 俺の気持ちなんてこの際どうでもいいではないか。ふみはこの世に生きている。それ以上の何も望まない。俺は心から満足している。ありがとう信士郎」

 尚次郎は微笑み、二人連れだって宴席へ戻った。
 隣の席へ腰を下ろし、ふみの様子を見て声をかけた。

「お疲れではありませんか? お辛いようでしたらもう奥へ」
「いいえ結構」

 ふみは冷たい目で尚次郎を一瞥し、能面のように表情のない顔で、坐ったまま答えた。

「ご無理なさらず」

 尚次郎の声音には、妻を心配する気持ちが溢れていた。
 彼にはわかっていた。
 夫婦になると言っても、ふみは自分を愛してなどおらず、むしろ心底憎んでいる。
 でもそれでいいのだ、と尚次郎は思った。
 彼自身もふみの愛を求める欲など起こらなかった。自分に対する自信もなかった。

 江戸時代の婚礼は現代と違い夜に行われる。
 しかも初めから嫁ぎ先へ嫁が向かう「嫁入り」ではなく、婿になる男が嫁の実家に出向き、舅姑や嫁の家中と酒を酌み交わし宴をもうけ、数日逗留したのち男の家に女を迎えるというのが普通であった。
 尚次郎も祝言の後松川の家に数日間留まり、質素な家にふみを迎えた。
 足軽あがりとは言え同心である武士、新野家の嫡男の初婚にしては寂しい婚礼だが、夫婦は尚次郎の小さな屋敷で初めての夜を迎えた。
 この時代、夫婦がいつも一つの部屋で寝るというわけではない。
 尚次郎も夜更けになって、静かにふみの寝室にやってきた。
 疲れているだろうから起こさないでおこうと考え、新妻が悪夢にうなされてはいないかと障子戸を開けた。
 ふみの兄・信士郎や父親から、度々そうした話を聞いていたからである。
 物音を立てないように障子を開けた尚次郎は驚いた。
 新妻のふみが畳の上にきちんと正座して、自分をにらみつけている。
 布団は入って横になった形跡もなく、手元には護身用の短剣が、さやのまま置かれていた。

「……まだ休んでいなかったのですか?」

 尚次郎は、妻の部屋の入り口に立ったまま声をかけた。

「あなたに言っておきたいことがあって、起きていました」
「それは……申し訳ない。貴女を待たせてしまったようで」

 ふみが言っておきたいというその言葉が、自分にとって心地よいものではないくらい、尚次郎にはわかっていた。

「いいえ。怒りの中で待つ時間など短いものです」

 案の定、である。

「貴女が寒いでしょうから、入ってここを閉めてもよいですか?」
「いいえ。そのままで聞いてください。すぐに済みます」

 ふみは青白い顔で尚次郎を見上げ、にらみつけたままだった。

「私はあなたと生涯床を共になんかしません。こうして通ってこられても迷惑です」

 ふみはきつく言い放った。それを聞いても尚次郎は、表情一つ動かさない。

「それ以外の所で、あなたが私を妻として扱うのは我慢しますが、私はお前と夫婦になんかなりません。子供の時の願いを叶えて、私を手に入れたと思ったら大間違いです。無理にというなら私が自分で死にます」
「……切支丹にとって自ら死ぬのは罪ではないのですか?」
「だから、私が思い通りにならないのがお前の怒りに触れるようなら、殺してくれて構わない。むしろそのほうがいいくらいです」
「私は貴女の夫君と約束したのです。貴女が天寿を全うして西堀殿の傍に行くまでお守りすると。夫婦になったのはただそれだけの為です」
「本当に?」
「貴女は私を嫌っているでしょう」
「ええ」
「殺してやりたいほど憎んでいるでしょう」
「勿論」
「それでいいのです。そのままで結構です。生涯私を憎んでくれて構わない」

 尚次郎はさっさと寝室に入ってきて、ふみの掛け布団に手を伸ばした。

 はっと身構えるふみの緊張とは裏腹に、寝間着に覆われた細い肩に、ぱさっと綿入れの布団をかけてやったのだ。

「その格好でずっと待っていらしたのなら、冷え切ってしまいますよ。風邪でもひかせたら私が西堀殿に叱られます」

 尚次郎はふみの体には触れず、離れた所に膝をついて障子を閉めた。
 寒の最中の冷たい風が入ってくるからだ。

「好いてくれなどとは言いません。貴女を求めたりなどしません。ただ、私の生涯を賭けて貴女を守らせてほしい」

 ふみは大きな目を見開いたまま、訝し気に尚次郎を見た。

「切支丹の処刑は、このたび甘糟様初め五十三人を処刑したところで、一段落着きました。しかしまた、おいおい処罰の動きが始まらないとも限りません。だから名目だけでも、奉行所勤めの私の妻で居てください。それが、私が首級を頂いてしまった、貴女の夫への誓いでもあるので……」

 尚次郎の懇願にふみの答えはなかった。

「誰かに火箱を持ってこさせましょう。ここは寒すぎる」

 険しい顔の妻に微笑みかけて、尚次郎は部屋を出て行った。

 その言葉通り、次の日以降も夫の尚次郎が妻に指一本触れることはなかった。
 いつも穏やかに微笑み、仏頂面の女主人に仕えるがごとく身を低くして振る舞う彼に、使用人たちは半ばあきれ、同情した。
 おはなやその祖父母、元々の西堀の家からつき従ってきた召使女たちも、あまりに旦那様がおかわいそうと陰で囁き、それとなくふみに進言した。
 余りにもお優しい旦那様ではないですか。
 前の旦那様の件も殿さまからの命令で仕方のない事だったのです。
 ご主人様一人を憎み続けるというのは御可哀想です。
 だがふみはそれでもなお、新たな夫・尚次郎への不信はぬぐえず、形だけの夫婦の冷たい生活は続いた。
 出仕する夫の見送りも出迎えもせず、必用最低限の会話しかしない。
 自分の殻に閉じこもり続ける美しい妻の、自分に向ける憎悪を、尚次郎は全く意に介さなかった。
 寒いだろう、気分が塞ぐだろうと労わり、気遣いながら仕え続けた。
 自分が憎まれていても、尚次郎はふみを心から愛していたからだった。
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