第44話 一粒の麦・4

文字数 3,136文字

 ふみの妊娠中の経過は良好で、皆が気を遣いできるだけ安静にさせていたという事もあるが、つわりも軽く、やがて徐々に大きくなるお腹の中で元気に暴れる胎動を、家族中で楽しむまでになった。
 新野家にとっては初めての孫で、松川家にとっても、兄の信士郎がまだのらりくらりと縁談を避けて、独身生活を謳歌している状態にあっては、外孫ではあるが初の子である。
 両家とも西堀の事を思わないではなかったが、戦国の世にあった時は、身ごもった敵方の女や味方の侍の子女をもらい受けるなどよくあったので、あまり気にする様子もなかった。

 北国の短い夏の終わり、ふみは松川の実家に帰っていた。
 当時の出産は嫁ぎ先ではなく実家に戻り、母親や親戚の経産婦、近所の出産・子育てに慣れた婦人たちが力を合わせて行うもので、産婆という専門職が現れたのは後世である。
 ふみの帰った新野の家は、とたんにがらんと空虚なものになり、どんなに自分の頼りなさに呆れられたり笑われたとしても、妻の明るさや大らかさが尚次郎は恋しかった。
 はなが頻繁に両家を行き来し、今日の奥様の様子はこうでしたと尚次郎に教え励まし、どやしつけてくれたが、尚次郎は調子に乗るなと怒りつつ、それを妻の喝と受け止めた。
 もちろん尚次郎も仕事の行きに帰りにと足しげく通い、義兄の信士郎からは、いっそ入り婿になったらどうかと冷やかされた。

 ある日、独り尚次郎が屋敷にいるときに、裏の勝手口に尋ね来る一団があった。
 下男が裏木戸を開けて誰何したが、すぐに血相を変えて主人の元に駆け付けた。

「旦那様、奥様に差し上げて下さいと魚や山のものを持って、農民共が訪ね来ております」

 そして小声で付け足した。

「その者たちは隠れて暮らす切支丹どもで、奥様や前の旦那様に大層世話になったものと申しております」

 尚次郎が裏口に行って見ると、粗末な着物に縄の帯を締めた農民たちが何人も、手に手にキノコや川でとれたアユなどの夏魚、沢胡桃、薬草などを下げて立っていた。
 自分が西堀を斬首し、他の者の処刑にも立ち会った下っ端役人だという事は、彼らも知っているはずだ。
 なのに怖れを隠して、ふみのために来てくれたのだ。

「かたじけない。ふみにはきちんと食べさせるから安心してくれ」
「安産をお祈りしております」
「こちらこそ奥様には本当に助けてもらいました。無事に元気なお子が生まれることを皆お祈りしております」
「ありがたい。お上に見つからないようにしっかりと生きろよ」

 農民たちは裏口の土間に持ってきたものを丁寧に置くと、尚次郎を拝みながら帰って行った。
 尚次郎も使用人たちも、この事はけして口外しなかった。

 月満ちて、ふみは赤ん坊を生んだ。
 両家にとって待望の男の子である。
 この当時、嫁は実家に帰って出産したから、夫が嫁の実家に泊まり込むという事はなく、ましてや現代のように立ち合い出産など考える隙すらなかった。
 尚次郎の待つ家には、すぐに男子誕生の方がもたらされ、信士郎や義父、近所に住む仕事仲間も酒をもってお祝いにきてくれた。
 出産を終えたばかりの母親は大量の出血で消耗しているし、当時七日間は寝かせてももらえず、頭に血が上るのを座るために積み上げた布団や座布団にもたれかかるように座り、ぐったりと回復を待つのが常識だった。
 男親はなかなか母子に逢わせてもらえなかったのである。
 早くふみと赤子に会いたいと気ばかり焦る尚次郎だが、祝福の宴を催してくれる仲間に感謝しつつ酒を飲み、ふみの実家から来てもいいという知らせが来るのを待つしかなかった。
 そしてようやくふみと赤子に会えたのは、出産から七日の後だった。
 広い松川家の離れに産屋を兼ねて隔離されていたふみは、やっと横になる事を許してもらったばかりだった。
 尚次郎がはなと使用人が摘んできてくれた夏の花、ヤマユリを手に寝所にそっと来たとき、ふみはとろとろと眠っていた。
 産婦が口にできるものは粥と鰹節や梅干しが主で、卵や肉、牛乳などは食べられなかった当時、産婦は大抵貧血になった。
 それで回復が遅れ、出血や感染症などで命を落とすことも多かった。

 足音を忍ばせてきたはずなのに、夫が部屋に入った途端、ふみはパチッと眼を開けた。
 母になったせいか些細な物音にも反応できるよう眠りが浅いのだ。

「起こしてしまったかな、すまない」
「いえ、そろそろお乳の時間かもしれないと、勝手に目が醒めるんです」
「まだ眠っているようだから、貴女も寝ておきなさい」

 尚次郎は、召使に付き添われて母親の傍に寝かされている赤ん坊に目をやった。
 母親によく似た色白の丸顔で、この世の幸せをぎゅっと集めたような、安らかな顔で眠っている。
 その寝息を聴いていると、こちらまで眠くなりそうだ。

「大変だったね。よく頑張ってくれた」
「いえ、そうね。なかなか出て来なくて。おなかの中が居心地よかったのかしら」

 ふみが赤子に手を伸ばした。
 白い産着の中で、この世に出てまだ数日の男の子はいかにも小さく、手の指など精緻な細工物のようだ。
 尚次郎は赤子の傍ににじり寄ると、起こさないように息をつめて、顔を近づけた。
 ふんわりと甘い、赤子の匂いがする。

「元気な子だ。貴女によく似てる。父親にも」

 そして、そっと指を伸ばして、万歳をして寝ている赤子の掌に人差し指を握らせた。
 ぎゅうっと反射的に握り返してくる、その意外なほどに強い力が愛おしい。

「……私の子だ」
 途端に赤子が鼻先にしわを寄せ、ちっちゃな顔をしかめたかと思うと、真っ赤になって泣き出した。
 ほわんほわんと、顔一面を大きく開けた口にして泣き出す赤ん坊を、尚次郎は急いで抱き上げた。

「まだ首が座っておりませんので気をつけて下さい、そのままにして、旦那様」

 起き直ったふみが、母乳を与える準備で襟元をはだけるのを、尚次郎はどぎまぎしながら観ているしかなかった。
 召使はまだふらつくふみの介添えに、帯を緩めてあげたり胸をお湯で拭いてあげたり忙しい。
 やっと用意ができたふみに赤子をそっと渡し、尚次郎はそれじゃこれでと席を立った。
 彼は心底嬉しそうにふみに笑いかけた。
 元気な子をありがとう。家族をこの世にもたらしてくれてありがとう。お前が生き延びてくれてありがとう。
 ありがとう、全てのものに。
 ふみは慣れない仕草で赤子に乳を含ませながら、微笑み返した。
 
 尚次郎は松川の義両親と義兄弟の信士郎に挨拶に向かった。
 廊下を歩く間も、私の子だ、私の子だとくり返し呟いては、にこにこ笑っていた。

 赤子の名前は「拾丸」と名付けた。
 父親の尚次郎が「捨丸」という自身の幼名をあまり好きでなかったからだが、運を拾う、色んな見過ごされてしまう小さなものにも、情けをかけてあげられるような子になってほしいと、名親と両家と考えてつけたのだった。
 ふみと拾丸は実家で三月をすごしたのち、尚次郎の小さな屋敷に戻った。
 季節は既に冬間近、切支丹的には「降誕節」と呼ばれる歳時を迎えていた。
 奥様と小さな初子をお出迎えする尚次郎の家は、もともとが夫婦二人の暮らしだったので、尚次郎の両親や松川の義両親が様々なものを送ってくれたし、慣れた優秀な乳母もつけてくれた。
 新野の家では、後継ぎができたことを両親とも非常に喜んでいた。
 生まれて三月、赤子の拾丸は母の乳をよく飲み、風邪もひかずに良く寝て機嫌の良い手のかからない子供で、初めての子育てに分からないことだらけの両親を安心させた。
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