第23話 光あるうちに光の道を・1

文字数 3,997文字

「おはな、干し柿の番を頼むわね。鳥につつかれないようにしっかり見張って、追い払ってね」
「はい。奥様」

 絣の木綿の着物を着て素直な髪を稲わらで背中に結った少女が、細長い竹の棒を持ち走ってきた。
 そして地面に足を投げ出して座り、傍らに積んだ一抱えもある藁で器用に縄を追いやりながら、裏庭の倉の軒下や壁沿いにぶら下げられた干し柿を監視し始めた。
 当地の名物、糖度の高い渋柿の皮をむき、へたを縄に編み込んで吊り下げて作る干し柿は、天気のいい日に何日もかけて仕上げる。
 砂糖がなかったこの時代の貴重な甘味源にもなるものだった。
 少女の名は「はな」
 江戸の札の辻で、火刑にあった親と神父を泣いて見ていた幼女である。
 上杉藩士新野尚次郎と甘糟右衛門に助けられ、米沢に祖父母共々送られたはなは、ここ西堀式部の屋敷で下働きとして引き取られていた。
 先輩の召使い女たちや、これも奉公人として抱えられた祖父母に見守られながら、子供のいない西堀夫婦にたいそう可愛がられていた。
 そうして幾度かの暑い夏と雪深い寒い冬を過ごし、1628年秋。
 はなは九つの少女に成長していた。
 まん丸い豆しば犬が着物を着ていたようだった江戸の童女はすっかり背も伸び、可愛らしい少女へになっていた。

「お、おはなは鳥追いか? 勇ましいな」
「はい。干し柿の番をしてます。尚次郎様」

 しっし、と干した柿に寄ってくる鳥と竹の棒で戦うはなに、話しかけた武士がいた。
 勝手知ったる様子で裏門から入ってくる、長身で色白の青年。新野尚次郎だった。
 江戸詰めの頃はどんより濁ったうつろな目をして日々無気力に与えられた仕事をしていた少年が、こちらもすっかり大人びた、しゃんと背筋の伸びた24歳の若者になっていた。

「元気で働いているようで安心した」

 尚次郎はがしがしとはなの頭を撫でた。

「尚次郎様、あまり髪をかき回されると頭が馬鹿になってしまいます」

 やんちゃな男児にするような乱暴な手つきに、はなは低い鼻を膨らませて不満の意を唱えた。

「そう怒るな。お前の主人に用があってきたんだ」
「お、尚次郎。貴様は何度言っても裏門から入ってくるのだな」

 尚次郎に輪をかけて背の高い堂々とした体躯の偉丈夫が、剣の稽古を終えて戻ってきた。
 この家の主人、西堀式部政偵である。

「珍しいなこんな時間に来るなんて」

 はなをからかうのをやめた尚次郎は、すっと下がって一礼した。

「西堀様、今日はちと込み入った話があって参りました。よろしいですか」
「うむ。まずは上がれ。俺も喉が渇いた。はな、奥方殿に来客の支度をするように申し伝えよ」
「はい。旦那様」

 はなは竹の棒を干し柿の棚に立てかけると、奥さまのふみを探しに走って行った。

「西堀様、大事な話なのでございます」
「あの話だな…大体わかる。お主は危なくないのか?」
「危険は承知の上です。西堀様やふみ殿の方がよほど……危険でございます」

 西堀はうなずき、さあ上がれと尚次郎を促した。

 今は幸せな西堀家の話は七年前。1621年にさかのぼる。
 未熟で幼い尚次郎からの求婚を退けた松川家の娘ふみは、相思相愛だった西堀式部政偵と祝言を上げた。
 家柄も申し分ない将来有望な人格者の美丈夫と、中堅の武士の娘の結婚はその二人の美しさと清廉さ、そして気丈な嫁と大らかな夫という組み合わせで周囲から大歓迎された。
 西堀家に入ったふみは元々のびやかに育った娘である。
 西堀母や乳母のお目がねに適ったとはいえ、跡取り息子の正妻として厳しく躾けられた。
 女中たちの束ね方、作法、化粧から格式にふさわしい着付け。
 都から遠い地ではあったが武士ならではの美意識は高い土地柄、女衆にもそれ相応の品が求められたのだ。
 そして何より望まれたのは跡を継ぐ子供だった。
 西堀式部は壮健で武芸にも秀でた優しい男で、嫁のふみも若く賢かった。
 二人とも実に健康な肉体を持っていたし互いに想い合っていたので、周囲はすぐにでも若いふみは懐妊するものと思っていた。
 だが大方の期待に反し、若い妻と年上の夫の間に懐妊の兆候は一向に表れなかった。
 一年経ち、二年経ち、三年経っても仲睦まじい二人の間に子は生まれなかった。
 夫の父は黙っていたが、その表情は早く嫡子をという無言の圧力に満ちていたし、夫の母や姉妹、弟の嫁たちにかかるとそれが矢のような鋭い言葉となって飛んできた。
 一人一人にとっては一言だけのつもりで漏らす言葉が、受け取る側のふみ一人にとっては何度も浴びせられる攻撃に聞こえるようになる。
 とはいえ一族の嫡男に嫁いだ嫁の身にとって親族との付き合いは欠かせない。
 これは若い頃から女遊びなどしてこなかった自分にも責任があるのかもしれない。
 そう考える式部は事あるごとに嫁を庇ったが、父や母は側女を持ったらどうかとふみのいない時を見計らって言うようになった。
 廊下を通りながらそれを聞いてしまったふみは激しく自尊心を傷つけられた。
 夫の式部は即座に断り二度とその話を受け付けなかったが、若いふみの気力は次第に弱っていった。
 傷心の新野尚次郎が湯屋の女を手酷く捨て、結果心中に追い込み江戸に旅立った頃、尚次郎の羨望の的だった西堀式部とふみの家内にはこんな事情があったのだ。

「どうしたおふみ、今日は薬草摘みには行かないのか?」

 いつもならきりりと足ごしらえをし、下男と下女を従えて山野に薬草をつみに出かけるふみが、珍しく部屋に閉じこもっている。
 式部はどうしたのだろうと障子戸の外から尋ねてみた。

「少し熱っぽくて……おなかの調子も悪いので休んでおります。風邪でもひいたのかも……」

 妻の部屋からは張りのないだるそうな返事が返ってきた。
 ごめん、と言いつつ障子戸を開けて入ると、下女の引いた布団に横たわった妻は顔色が悪く熱っぽい上に軽い吐き気や眩暈まであるという。

「日ごろ明るいお前が元気でないとは…家のことは心配せずゆっくり養生しろ」
「はい。旦那様……」
 常にはリンゴのように薄紅色に輝くふみの頬は青白く目もとろんとして、式部はますます心配になった。

 西堀ふみは懐妊した。嫁いで三年がたっていた。待望の子供である。
 是非とも世継ぎをと望む西堀家はもちろん、娘を嫁がせた松川家の人々も大いに安堵した。
 健康な娘ではあったがなかなか懐妊しないのは、なにか体に障りがあるのではないか。
 松川の家族、中でもふみと信士郎兄妹の母親は、神社にお百度を踏みに行くなど娘の身を案じていた。
 そんな中での待望の妊娠である。
 ふみは下へも置かれぬ扱いを受けた。
 お城の西堀の上役や近所の武家屋敷の主や奥方たちもみな喜び、妊婦によいと言われる食べ物や、体に効くという湧き水など、様々なものを持ってきてくれた。
 西堀の母、即ちふみの姑も可愛い嫁の待望の懐妊とあって、張り切ってそれらを料理させ、嫁の元へ持ってきた。
 ただ、ふみはそれらをほとんど口にすることができなかった。

「おふみ、婆が鯉の羹を作らせましたよ。一口でも」
「有難うございます、お母様」

 板敷の奥の間の中、畳と布団の上に寝付いたふみは、青白い顔を姑と女中に向けただけだった。
 懐妊がわかってから間もなくして、ふみは激しいつわりに襲われていた。
 四六時中絶えず船に揺られているように体がふらふらし、水を飲んでも胃が受け付けず戻してしまう。
 栄養のあるものをと夫や舅、姑が持ってきてくれるのだが、それらも一切受け付けられない。
 梅干しとごく少量の水、それすらも胃に収まる時と逆流してしまう時があり、しょっちゅう戻してしまうため胃酸でふみの喉や口の中は荒れて痛みを訴えた。
 水分が取れないので肌も乾き、小用もほとんど行かない。
 じきにふみはふらふらして立つことも歩くことも困難になった。
 現代で言えば悪性の悪阻で、明らかに脱水症状を起こしているのである。
 だがおなかの子供は元気だった。
 少しすると落ち着いてくる。吐き気もとれて嘘みたいに元気になるから、と両家の母親たちは励まし、夫の式部と兄の信士郎は気遣った。
 例え母体が栄養を取れなくとも、赤ちゃんは体内の脂肪や筋肉の中のグリコーゲンを消費して生命活動を続けようとする。
 まだ小さな胎児が費やすエネルギーはわずかだが、ふみの体は急激に衰えていった。

「おふみ、みそ汁を少し飲んでみないか」
「きっと無理です。また吐いて苦しくなってしまいます」
「一口ずつでも、お前このままだと…」

 余りに続く強烈なつわりと嫁の衰弱に、舅たちは藩内でも評判の医者を呼んできたが、どの医者も『そのうちに収まるのを待つしかない』『少しずつでも水気と栄養物をとるように』としか言わなかった。
 現代では入院して生理食塩水と糖分、ビタミンとミネラルの点滴を打つところだが、この時代は口からものを摂取できないと即、死につながる。

「さっきね、子供が遊びに来たんですよ」
「え?」
「貴方様と私の子供が、一足先に遊びに来たんですよ、ここへ」

 幻覚でも見たのか。
 ふみは枯れ枝のように細くなった手を夫に差し伸べた。その顔は頭蓋骨の骨格がわかるほどに小さくなっていた。

「とうさまかあさま、苦しめてごめんなさい。いっぱい親孝行しますって」
「そうか……それは楽しみだね。元気になってちゃんと顔を見て、こちらも挨拶しなければな」

 ふみは小さくうなずいた。
 もうすぐ懐妊がわかって三か月になる。もう少しでこの苦しい時期も終わる。そしたら二人で、いや三人で美味しいものをたくさん食べて、栄養をつけて……。
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