第18話 罪なき者のみ石もて打て・2
文字数 3,025文字
「新野尚次郎はいるか?」
上杉藩中屋敷の足軽たちの詰め所。これといった仕事のない足軽身分の侍たちが日がな過ごす名前だけの待機所に、中年男の張りつめた声と威勢のいい足音が響いた。
末端の下座で静かに本を読んでいた尚次郎は何事かと顔を上げた。
また周囲の先輩足軽たちも一斉に尚次郎を見た。
「あの声は上屋敷の甘糟様だ」
「殿とご家老志田様に御懇意にされている方だぞ」
「尚次郎、お前何をやらかした?」
「いえ私は何も」
「女じゃないのか?お前江戸に来て間もないのにいっぱい泣かせてきたんだろう?」
「そんなことありません。出鱈目ですよ」
「新野はここにいると聞いたが」
こそこそと先輩が囁きかけ、尚次郎が狼狽えている中、足軽部屋の引き戸ががらりと開いた。
精悍な中年の侍、甘糟右衛門が廊下に立って、じろりと足軽たちを睥睨した。
既にそれぞれの位置に控えていた足軽たちは、本来ならあり得ない高位の侍の来訪に、一斉に頭を下げた。
「私でございます」
白い顔をなお青白くして、尚次郎は頭を低く垂れた。
「貴様に頼みたいことがあってきた。一緒に参れ」
甘糟の声は叱りつけるでも非難するでもない、優しさを滲ませたものだったが、動転している尚次郎には全く感じ取れなかった。
「あの、甘糟さま……」
「なんだ」
「甘糟さまが切支丹だというのは本当ですか?」
江戸城からやや離れた浅草の向こう、大川近くの三河島。その人気のない河原を歩きながら尚次郎は無邪気な声を甘糟に向けた。
土手や河原の夏草は背丈も高く、雪が降らない江戸の地では、植生も北国米沢とは違う。
熱せられた空気と頭の骨にわんわん響くような蝉時雨の中、立葵や昼顔など夏の草花もが咲き誇っている。
「何を言い出す!」
沈着冷静でならした甘糟だったが、この不意打ちにはさすがに動揺した。
「黙れ新野の若造。お前は何を言っているのだ」
他の者に聞かれたらどうするのだ。ここは米沢ではない。江戸だ。江戸ではキリスト教はとうに禁教になっている。
江戸だけではない。蒲生の地福島も、安房も下総も駿河も。
米沢以外の地では既に切支丹への迫害の嵐が激しさを増していた。
「新野、ここは米沢ではないのだ。声の大きさに気を付けよ」
甘糟の声も低くなった。
「申し訳ありません。しかしこのような辺境の農地、米沢藩とも何の関係もなさそうなので……」
「藩とは関係ない。が、あると言えばある。お主を口の堅い男とみて連れ出したのだ。今日行った先でのことは、江戸市中に帰ったら一切すぐ忘れろ」
「やっぱり切支丹のことではないですか」
「黙ってついてくればよい」
城中で次々と仕事をこなす闊達な姿と違い、尚次郎の先を歩く今日の甘糟右衛門は、妙に言葉の歯切れが悪かった。
三河島の歴史は古い。
徳川家康が江戸に移ってきた際、地元三河の豪農伊藤氏を伴い開墾させ、田を作らせ稲作に専念させたのがこの地の由来である。
地面を這うように盛夏の熱い風の吹き付ける田んぼの中。背丈の伸びた稲の青の中に紛れるように、ひっそりと建った掘立小屋。
稲作地域でよく見る農作業のための小屋だが、飄々と歩いてきた甘糟は、勝手知ったる家のようにその引き戸を開けた。
とたんにむせかえるような異臭が二人を襲った。
小屋の中には手足の指がなく包帯で巻いた者や、顔の鼻筋がめり込み、猩々の面のように硬化した特異な顔の者、鼻や目から血膿を出して横たわるもの、明らかに労咳とわかる咳と熱で転がっている者など、この世の災厄を一手に引き受けているような男女が詰め込まれていた。
「甘糟さま、これは……」
「お前の勘は鋭い。ここは切支丹のらい病の施術院だ」
「らい病……」
「それに労咳の患者もいる」
尚次郎は遥か上級の侍である甘糟の手前我慢したが、極めて不愉快になった。なぜこの人は自分をこんなところに連れて来たのだろう。
しかも禁教である切支丹のたまり場ではないのか。自分もあらぬ疑いをかけられては困るし、大体こんな汚らわしい病人の真っただ中に居たくはない。
そもそも自分は切支丹や耶蘇教は大嫌いなのに。
「尚次郎、お前に会わせたい人がいるのだ」
「甘糟様、自分は失礼したいのですが」
「すまんな、もう来ている」
幽鬼のような見捨てられた人々の間から、のっそりと手を挙げ、頭をもたげた人がいた。
ひげと髪が伸び痩せ衰えてはいたが、不自由そうに立ち上がったその姿は、ぼろぼろの衣服を身に纏っていても、長身の立派な体躯の侍だ。
「原殿。甘糟でございます。お久しぶりに存じます」
「その青年は?」
「これは私の部下で新野と申します。米沢でのそれがしの仲間、パウロ西堀の友人でございます」
「おお、それはそれは」
さあ尚次郎、と甘糟は戸口近くで固まっている若者の背を軽く押した。
この交わりに入りたくない。この場には絶対に居たくない。
尚次郎は逃げ出したくて仕方がなかったが、甘糟に恥をかかせるわけにはいかない。
「新野尚次郎でございます」
尚次郎は原と呼ばれた武士ににじり寄り、土間で頭を下げた。
それは必然的に、閉じ込められた病人たちに近づくことになる。
らい病患者たちの肌に積もった垢や汗、下着に着いた糞尿の匂い、そして拭っても流れ出て、包帯にこびりついて固まっている血と膿のすえた匂い。
それらが病人が動くたびにむわっとした煙のように尚次郎を襲い、取り巻く。
『勘弁してくれ……』
なんで俺がこんなところに……尚次郎は情けなくてたまらない。
「良い瞳をした青年じゃないか」
「ええ。それにここ一番のところでは非情にもなれる。剣の腕も確かです」
原、と呼ばれたぼろ着物の武士は、足が曲がらないような妙にぎこちない歩き方でちかよると、顔を尚次郎に寄せた。
目と目が合った。
面やつれしてはいるが西堀や甘糟、そして自分を耶蘇教に誘った時のひなのような、ぎらぎらとした目をしている。
月代が伸び乱れた総髪は、絡まり合った白髪交じりの髪だがきちんと整えようとした痕跡はあった。
自分に差し出された手に違和感を覚え、見るとその手足の指は全て欠損している。
驚いて顔を見ると、額にははっきりとそれとわかる大きさで、十字架の焼き印が押してあるではないか。
尚次郎はぎょっとした。
おまけに短い袴からにょっきりと見える両足首は筋が妙な形にねじくれていた。
「驚いただろう。儂は禁教を犯し幕府から追われる罪人だ。額に焼き印まで受けておる」
尚次郎は、原という武士のいるらい病人小屋から離れた町まで、米を買いに行った。
米と塩、味噌。そして干した魚と少しの野菜。
それらを人足にも持たせず、甘糟と二人で土手の小屋まで運んだ。
甘糟はもっと病人の世話をしたり、包帯を替えたりといったことまでして欲しかったようだが、原が笑いながらそれをとめた。
無理強いはいけない、この青年は信者ではないのだろう?それに信者の婦人たちが親切にも、もうすぐ訪れて手伝ってくれる。
そして私はそこで説教をし、皆に祝福を与えるのだ。パードレ(神父)から託された秘跡の力によって。
来た時と同じように甘糟と連れだって江戸のはずれを歩きながら、尚次郎は口を利かなかった。
上杉藩中屋敷の足軽たちの詰め所。これといった仕事のない足軽身分の侍たちが日がな過ごす名前だけの待機所に、中年男の張りつめた声と威勢のいい足音が響いた。
末端の下座で静かに本を読んでいた尚次郎は何事かと顔を上げた。
また周囲の先輩足軽たちも一斉に尚次郎を見た。
「あの声は上屋敷の甘糟様だ」
「殿とご家老志田様に御懇意にされている方だぞ」
「尚次郎、お前何をやらかした?」
「いえ私は何も」
「女じゃないのか?お前江戸に来て間もないのにいっぱい泣かせてきたんだろう?」
「そんなことありません。出鱈目ですよ」
「新野はここにいると聞いたが」
こそこそと先輩が囁きかけ、尚次郎が狼狽えている中、足軽部屋の引き戸ががらりと開いた。
精悍な中年の侍、甘糟右衛門が廊下に立って、じろりと足軽たちを睥睨した。
既にそれぞれの位置に控えていた足軽たちは、本来ならあり得ない高位の侍の来訪に、一斉に頭を下げた。
「私でございます」
白い顔をなお青白くして、尚次郎は頭を低く垂れた。
「貴様に頼みたいことがあってきた。一緒に参れ」
甘糟の声は叱りつけるでも非難するでもない、優しさを滲ませたものだったが、動転している尚次郎には全く感じ取れなかった。
「あの、甘糟さま……」
「なんだ」
「甘糟さまが切支丹だというのは本当ですか?」
江戸城からやや離れた浅草の向こう、大川近くの三河島。その人気のない河原を歩きながら尚次郎は無邪気な声を甘糟に向けた。
土手や河原の夏草は背丈も高く、雪が降らない江戸の地では、植生も北国米沢とは違う。
熱せられた空気と頭の骨にわんわん響くような蝉時雨の中、立葵や昼顔など夏の草花もが咲き誇っている。
「何を言い出す!」
沈着冷静でならした甘糟だったが、この不意打ちにはさすがに動揺した。
「黙れ新野の若造。お前は何を言っているのだ」
他の者に聞かれたらどうするのだ。ここは米沢ではない。江戸だ。江戸ではキリスト教はとうに禁教になっている。
江戸だけではない。蒲生の地福島も、安房も下総も駿河も。
米沢以外の地では既に切支丹への迫害の嵐が激しさを増していた。
「新野、ここは米沢ではないのだ。声の大きさに気を付けよ」
甘糟の声も低くなった。
「申し訳ありません。しかしこのような辺境の農地、米沢藩とも何の関係もなさそうなので……」
「藩とは関係ない。が、あると言えばある。お主を口の堅い男とみて連れ出したのだ。今日行った先でのことは、江戸市中に帰ったら一切すぐ忘れろ」
「やっぱり切支丹のことではないですか」
「黙ってついてくればよい」
城中で次々と仕事をこなす闊達な姿と違い、尚次郎の先を歩く今日の甘糟右衛門は、妙に言葉の歯切れが悪かった。
三河島の歴史は古い。
徳川家康が江戸に移ってきた際、地元三河の豪農伊藤氏を伴い開墾させ、田を作らせ稲作に専念させたのがこの地の由来である。
地面を這うように盛夏の熱い風の吹き付ける田んぼの中。背丈の伸びた稲の青の中に紛れるように、ひっそりと建った掘立小屋。
稲作地域でよく見る農作業のための小屋だが、飄々と歩いてきた甘糟は、勝手知ったる家のようにその引き戸を開けた。
とたんにむせかえるような異臭が二人を襲った。
小屋の中には手足の指がなく包帯で巻いた者や、顔の鼻筋がめり込み、猩々の面のように硬化した特異な顔の者、鼻や目から血膿を出して横たわるもの、明らかに労咳とわかる咳と熱で転がっている者など、この世の災厄を一手に引き受けているような男女が詰め込まれていた。
「甘糟さま、これは……」
「お前の勘は鋭い。ここは切支丹のらい病の施術院だ」
「らい病……」
「それに労咳の患者もいる」
尚次郎は遥か上級の侍である甘糟の手前我慢したが、極めて不愉快になった。なぜこの人は自分をこんなところに連れて来たのだろう。
しかも禁教である切支丹のたまり場ではないのか。自分もあらぬ疑いをかけられては困るし、大体こんな汚らわしい病人の真っただ中に居たくはない。
そもそも自分は切支丹や耶蘇教は大嫌いなのに。
「尚次郎、お前に会わせたい人がいるのだ」
「甘糟様、自分は失礼したいのですが」
「すまんな、もう来ている」
幽鬼のような見捨てられた人々の間から、のっそりと手を挙げ、頭をもたげた人がいた。
ひげと髪が伸び痩せ衰えてはいたが、不自由そうに立ち上がったその姿は、ぼろぼろの衣服を身に纏っていても、長身の立派な体躯の侍だ。
「原殿。甘糟でございます。お久しぶりに存じます」
「その青年は?」
「これは私の部下で新野と申します。米沢でのそれがしの仲間、パウロ西堀の友人でございます」
「おお、それはそれは」
さあ尚次郎、と甘糟は戸口近くで固まっている若者の背を軽く押した。
この交わりに入りたくない。この場には絶対に居たくない。
尚次郎は逃げ出したくて仕方がなかったが、甘糟に恥をかかせるわけにはいかない。
「新野尚次郎でございます」
尚次郎は原と呼ばれた武士ににじり寄り、土間で頭を下げた。
それは必然的に、閉じ込められた病人たちに近づくことになる。
らい病患者たちの肌に積もった垢や汗、下着に着いた糞尿の匂い、そして拭っても流れ出て、包帯にこびりついて固まっている血と膿のすえた匂い。
それらが病人が動くたびにむわっとした煙のように尚次郎を襲い、取り巻く。
『勘弁してくれ……』
なんで俺がこんなところに……尚次郎は情けなくてたまらない。
「良い瞳をした青年じゃないか」
「ええ。それにここ一番のところでは非情にもなれる。剣の腕も確かです」
原、と呼ばれたぼろ着物の武士は、足が曲がらないような妙にぎこちない歩き方でちかよると、顔を尚次郎に寄せた。
目と目が合った。
面やつれしてはいるが西堀や甘糟、そして自分を耶蘇教に誘った時のひなのような、ぎらぎらとした目をしている。
月代が伸び乱れた総髪は、絡まり合った白髪交じりの髪だがきちんと整えようとした痕跡はあった。
自分に差し出された手に違和感を覚え、見るとその手足の指は全て欠損している。
驚いて顔を見ると、額にははっきりとそれとわかる大きさで、十字架の焼き印が押してあるではないか。
尚次郎はぎょっとした。
おまけに短い袴からにょっきりと見える両足首は筋が妙な形にねじくれていた。
「驚いただろう。儂は禁教を犯し幕府から追われる罪人だ。額に焼き印まで受けておる」
尚次郎は、原という武士のいるらい病人小屋から離れた町まで、米を買いに行った。
米と塩、味噌。そして干した魚と少しの野菜。
それらを人足にも持たせず、甘糟と二人で土手の小屋まで運んだ。
甘糟はもっと病人の世話をしたり、包帯を替えたりといったことまでして欲しかったようだが、原が笑いながらそれをとめた。
無理強いはいけない、この青年は信者ではないのだろう?それに信者の婦人たちが親切にも、もうすぐ訪れて手伝ってくれる。
そして私はそこで説教をし、皆に祝福を与えるのだ。パードレ(神父)から託された秘跡の力によって。
来た時と同じように甘糟と連れだって江戸のはずれを歩きながら、尚次郎は口を利かなかった。