第1話 ラザロの墓穴・1

文字数 2,916文字

 新野尚次郎純直の頭にこびりついて離れない光景がある。
 それは夏の日。定められた勉強と武術のけいこを終えた兄が、まだ幼い自分に声をかけてくれた喜ばしい時間だ。
「お捨、川に泳ぎに行こう」
 次郎は幼名を捨丸といった。
「捨てる」とはけしてよくない響きの言葉であったが、子供の死亡率が高かった当時、わざと命を捨ててまた拾うという意味でこの言葉を使うことは奇異ではなかった。
 捨丸は4つ。兄の一郎、幼名登米丸は6つである。
 兄は足軽である新野家の長男で、父親に似て幼いながらもがっしりとした体格で、顔のつくりも性格も骨太でしっかりしていた。
 新野家は越後は与板から殿様に従って転々と移動し、主君上杉景勝が米沢に定住した後も「与板衆」つきの足軽としてお仕えしている身分だ。
 下級の足軽で、今は長屋住みではあるが、後々出世して新野の家を盛り立ててもらいたい。
 そんな父親の期待を一身に受けて、幼いながらも心身ともに強くたくましい存在。
 それが捨丸にとっての兄だった。
「お捨は泳ぎは嫌いか?」
 捨丸は慌ててぶんぶんと首を横に振った。
「嫌じゃない。好き」
「そうか。では母上に言っておくから一緒に行こう。いつもの西川だ」
 兄は晴れやかに言うと、まだ小さな捨丸の手を握り、足並みを揃えて歩いてくれた。
 近所の子にからかわれて泣いて帰ってきた捨丸は、涙と鼻水で汚れた顔をくしゃくしゃにして喜んだ。
 強く優しい兄上。小さな捨丸にとって兄の存在は大きかった。
 父は幼いながらも聡明で武芸にも才能を示す長子の登米丸に多大な期待をかける一方、心も体もひ弱でよく泣きながら母の着物の裾にすがる捨丸には、ほとんど心を向けていなかった。
 母によく似て色白の小づくりな顔に、女の子と間違われる美しい顔立ちの捨丸は、よく近所の悪童たちにいじめられては泣いて帰ってきた。
 そのたびに敵を討ちに木の枝を手に立ち向かっていくのは兄の登米丸だった。
「お前はよくそうやって泣くから相手は面白がるのだ。泣くのを我慢しろ。兄は父上にぶたれても、心の中で百数えながら我慢するぞ。お前も百数えろ」
「ひい、ふう、みい……」
 川に連れて行きながら、登米丸はそうやって弟を諭した。
 捨丸はまだ二十までしか数えられない。
「兄様、捨丸だめだ」
「いいか教えてやる。捨丸は本当は強くて聡い子なんだ」
 ひい、ふう、みい、よー、と歩きながら教えてくれる兄に、カラスのように真似をして数を数えながら、捨丸は幸せだった。
 兄のようになりたい。

 兄弟が泳ぎに来る川は、近所の足軽や中間の子たちも泳ぎに来る。
 城下の南の松川から堰を経て西北に流れる堀盾川と呼ばれる川である。
 越後から会津を経て転封されてきた上杉景勝の重臣、直江兼次が城下町として米沢を築きなおす際造成させた水路であった。
 もともと米沢は飯豊連峰、吾妻連峰からの雪解け水が豊富で、その流れはいくつもの急流となり、松川と呼ばれる最上川に注がれる。
 松川は藩の南から東にかけて潤すが、直江・上杉らが居を構えた当時は梅雨の雨や秋雨ですぐ反乱を起こす、暴れ川であった。
 城下の整備と共に直江が力を入れたのが、この河川の治水工事である。
 市内に今も残る「直江堰」「谷内河原堤防」を造り、農家の命と作物を守ることに情熱を注いだ。
 同時期に着手したのが、米沢盆地西部の中級・下級武士の居住地への水の供給問題である。
 松川から支流となる水路を作り、林泉寺から御廟所の西を抜ける掘割を造成した。
 その流れは藩のはずれ、原方衆と呼ばれる半士半農の生活をしている士族の集落を通る間はまだ細いが、城下の中心部、侍町に入るころには太くなり、また各所に設けられた堰で水量を調節できるようにしてあった。
 有事の際には堀盾川に水を流し、上杉城を守る堀として機能させるためである。
 この川の内側が上杉城の三の丸、すなわち上級家臣団である侍組、古くからの旗本である三手組と呼ばれる馬廻組・五十騎組・与板組の屋敷町である。
 ただ、平和な時は魚が取れ近くの子供らが遊ぶ穏やかな川であった。
 堀盾川は三の丸を貫き馬場のある北西部へと至る。
 新野の家はその堀盾川の外側の、足軽長屋にあった。

「ここに着物を置こう」
 堀盾川にかかる小さな橋の周りは複雑に曲がりくねり、流れが緩やかで魚も多くいるため、下級武士の子どもたちがよく遊びに来るところであった。
 土手の夏草の上に絣の着物と袴を脱いだ兄の登米丸は、きちんと畳んで汚れがつかぬよう護岸の石の上に置いた。
 真似して弟の捨丸も着物を脱ぐが、幼い彼には着物は手にあまり、畳むのにもたもたしている間に藍の腹掛け姿の兄は、ずんずん川の流れに入って行った。
 兄が歩いていく先には歓声を上げてイワナやヤマメを追いこみ、つかみ取りにしようとする同じ足軽身分の子供たちが大勢遊んでいた。
 親し気に声を交わしながらその中に混じっていく兄登米丸は、まだ6つながら木刀の素振りや体術のけいこで鍛えた背中や尻の肉は引き締まり、ひときわ背の高い背筋の伸びた姿は年よりずっと大人びて見えた。
 赤銅色に日焼けした兄に比べ、捨丸は弱々しい生白い体つきで、4つという年より幼く見えた。
「待って、兄上」
「ぐずぐずするなよ、お捨」
 ようやく脱いだ着物を畳み終えた捨丸は、兄と友達の輪の中に走って行こうと思ったが、急な坂になっている土手を駆け下りるのが怖くなり、そろりそろりと臆病に降りていた。
 そのへっぴり腰の姿に兄たちはケラケラと笑った。
「なんだお捨は怖いのか。ほら、この枝をつかめ」
 登米丸は川面に枝を伸ばして広がった、彼岸桜の柔らかいしつかりした若枝をつかむと、水に半分浸かった枝を水しぶきと共に引っ張り出して、弟に差し伸べようとした。
「ありがとう兄上」
 捨丸がその枝までよたよたと少しずつ降りてきたとき、登米丸の小さな叫び声が響いた。
「やられた」
 途端に子供達がざわつき、我先にと川の中から飛び出した。
 兄は筋の張った手首を抑え、水の中からよろよろと出てきた。
「ヘビだ」
 すすーっと水の中を褐色のまだらの蛇が泳いでいった。
「兄上、噛まれたの?」
「ああ。でも大したことはなさそうだ。」
 友人たちもわらわらとやってきた。手首には噛み傷が四か所。針でつついた程度の小ささでついている。おそらく上の牙と下の牙のものであろう。
「痛いか?」
「それが痛くはないんだ。一度ちくっとしたのだが今はあまり」
「本当に毒蛇だったのかな」
 皆、蛇の姿を見たのは一瞬で、まじまじとよく観察したものではない。よって無害な蛇か毒蛇のマムシかヤマカガシなのかの判断もつかなかった。
「お捨、戻って家のものを呼んできてくれ。そんなに急がなくてもよさそうだけど」
「はい。兄上」
 兄が蛇に噛まれ、一時は泣きだしそうなほど気が動転した捨丸だったが、兄やその友人たちの元気な様子に安心した。
 言われた通りきちんと着物を着て、ゆっくりと与板町の足軽長屋に向かって戻り始めた。
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