第11話 荒野にて叫ぶ者在り・6
文字数 3,422文字
ぐおおおお、地鳴りのような低く重い音が、森を駆け抜ける自分の周りで轟いている。
地鳴りか、山鳴りか。
狂人のようにカッと目を見開いて、小石を蹴飛ばし岩場や急な斜面を駆け上がり、走り続ける尚次郎の耳には最初それは聞こえなかった。
バシバシと自分の周りで、小枝がちぎれる音がする。藪をかき分けて走り続ける自分に、しなやかな灌木の小枝がぴしぴしと当たる。
それはよくしなる鞭のように、狂気の塊になって走り続ける尚次郎の顔と言わず、綿の着物に包まれた身体と言わず諫め打った。
野いばらのとげが顔や着物から出た首筋を傷つけ、小枝や木の根を踏み抜いて走る草履の足は泥だらけになっていたが、彼は気が付かない。
頭の中が憤怒と迸る感情で真っ赤になっていた。
疾走する目の前に、垂れ下がった若枝がふさいだが、足を緩めることなく脇差を抜き、その枝を一撃で薙ぎ払った。
なぜ邪魔をする !
なぜ俺の前に立ちはだかり、塞ぐのだ !
手負いの熊のように荒れ狂いながら、尚次郎は腕を、刀を振るい、周りの枝を叩き切り走った。
その荒々しい姿はまさしく一匹の獣だった。
地鳴りのような音が体にまとわりついてくる。やかましい。
しかし彼は気づいた。獣の声が自分の喉からほとばしっているのだ。
突然空気を切り裂くブン、という軽い音が耳元をかすめたかと思うと、一本の矢が背後から飛んできた。
ぴしゃ、と左の掌に、こん棒で叩き伏せられたような衝撃を受け、尚次郎は林の中にもんどりうって倒れた。
百姓たちの野盗か。
混乱した頭で尚次郎は考えた。
ここに居ては危険だ。とはいえ立ってまた走り出すのも目立つ。
こんもりとしたクマイチゴの藪の中に這いずり入って、自分の身を隠した尚次郎は、じっと息をひそめた。
左手のひらに大きな傷があり、地面には獣用の矢が突き立っていた。
自分を射た矢だ。
殴られたと思った痛みはこの矢で射られた痛みだったのだ。
貫通はしていないが手の骨にそって肉を深く削っており、えぐり取られた傷口からはどくどくと血がわいてくる。
俺を獣と間違えて射るとは。
荒れ狂った怒りから続いている激越な感情は、尚次郎の理性を失わせた。
木の葉を踏みしめる音が近づいてくる。
尚次郎は無傷な右手でしっかりと刀を握った。
そっと忍ばせた足音が用心深く近づいてくる。
刺だらけの藪の中、地面に伏せ身を潜ませている尚次郎の眼前に、深山用の足ごしらえをした若い狩人が現れた。
まだ若く、獣に矢を放ったはいいが、追跡する恐怖におどおどと落ち着きがない。
些細な山鳥の羽音にもびくりと身を震わせ、歩みを止め辺りを見回す。
身を低くして歩むその姿はみすぼらしく、正式なマタギ集団の一員というより一人で山に入った密漁の者だ。
その証拠に、通常狩りは数人単位で役割を分担して行うが、この目の前を獲物を探して徘徊する青年はいつまでたっても仲間を呼ぶ笛も鳴らさず、狩人特有の声も上げない。
殿の領有である山に入って勝手に猟をする者だと、尚次郎は判断した。
そのような奴なら見逃してやるいわれはない。
尚次郎は、ぎり、と無事な右手で刀を握りしめ、手元に引き寄せた。
その些細な音に、若い密猟者はピクリと体を震わせた。
矢を放つ態勢を整える一瞬の間に、尚次郎は藪から飛び出し、低い姿勢のまま男の足を薙ぎ払った。
この世の者とは思えない悲鳴を上げ、両足を切られた密猟者は地面に転がった。
ひいいいい、ひーと喉笛をかき切られた狼のような悲鳴を上げながら、狂おしく自分を切ったものを見た。
「落ち武者狩りの真似か?」
ゆっくりと立ち上がりながら、低いどすの効いた声を吐いた。
血走った目がびくびくと、荒んだ自分を見上げている。
髪を振り乱し藪の刺に着物を割かれ、手のひらからどくどくと血を流した尚次郎を見留め、猟師は地を這い逃げようともがいた。
その眼前には、自分の放った獣用の矢が大地に突き刺さっている。
「ち、違います、わしは貴方様を傷つけようなんて……ただ物音がするので……」
密猟者は一瞬で理解した。
おのれが獣と間違えて、よりによって若いお侍を射てしまったという事を。
「おゆ…お許しをっ 命だけは…」
足を切られ走って逃げられない密猟者は、がばっと地面に伏せた。
恭順の意を見せようとしたのか、木の葉と石だらけの地面に這いつくばってじりじりとのがれようともがき、うわごとのようにつぶやいている。
完全にこちらに背中を見せて、気ばかり焦っても体が動かないようだ。
ただ、その手に握った獣用の槍は、恐怖のあまり穂先を尚次郎に向けたままだ。
ゴシッ
尚次郎の右手に固く握られた脇差しが、再びしなった。
鈍い骨を断つ音が響き、狩人は首の根元から肩、背中と袈裟懸けに切られ、血しぶきを噴き上げた。
平たくのびたその姿は、まるで引き割かれながら足をひくつかせるカエルのようで、尚次郎はその醜さを呪った。
惨めだ。お前の今のその姿は何と惨めか。
……この俺と同じではないか。
尚次郎はためらわず、右手に傷ついた左手を添え、素早く刀を振り下ろした。
ぐむっ
ウシガエルを踏みつぶしたような声にならない声を残し、脳天を二つに断ち割られた密猟者は、頭蓋から噴水のように血と脳漿を噴出させて痙攣した。
顔の半分、唇の真上ほどまで切られた姿は、まるでお伽話に見る一つ目小僧のようだ。
大きく口を開け、牛のように舌を出して、こぼれんばかりに目を見開いて空をにらんでいる。
糞尿の匂いが鼻を突いた。
撲殺や惨殺された者は体中の穴が弛緩し、尿が漏れ脱糞するのだ。
犬のような唸り声を上げながらびくびくと身を震わせ、それも次第に間遠になり、密猟者は目の前で絶命していった。
血と糞尿の混じった耐えがたい臭いの中、尚次郎はよろよろと死体に近づいた。
傷ついた草履の足の裏に、固い小さな粒が当たる。
銭か? この貧しい狩人が持っていたのか?
かがんで死体の周りに視線を巡らせ、手のひらを木の葉と血糊の海の中に泳がせると、狩人のもんぺから漏れた尿の中に、糸で繋げた固い粒があった。
尿の中から拾い上げてみるとそれは、乳母や以前寺ですれ違った百姓の女が首から下げていた切支丹の持ち物、ろざりおという数珠であった。
固い木の種で作られた神のための祈りの道具である。
だがその『ろざりお』は、今ここで尚次郎が持ち主の胴体もろとも斬り捨て、バラバラに森の木の葉の中に散っていた。
はははははは
尚次郎は傷ついた体を折り曲げ、膝を打たんばかりに笑い出した。
甲高い狂女のような声が森の中をこだまし、いくつもの方角から折り重なって聞こえてくる。
「見えるか。死人にはもう見えないだろうがな」
尚次郎は吠えた。
「『ぜず様』がお前たちを救ってくれるのではないのか!? そんなものは嘘ではないか! 今ここでお前を救ってくれなかったではないか!」
狂ったように嘲笑し、唾を吐き罵声を浴びせながら、尚次郎はふと思い出して手の傷を手拭いで押さえた。
ズンズンと斬りさいなまれるような重い痛みが、左の手のひらから腕全体に回ってきた。
前にもこんなことがあった。
その時も自分の顔の怪我を布で拭った。けどそれは自分ではない、誰かの小さな暖かい手がしてくれた……。
「ふみ……」
そうだ。
子供の頃、剣の道場の兄弟子たちから喧嘩を仕掛けられ、泥と血に汚れた顔の汚れを、ふみが布で拭いてくれた。
思い出した……。
尚次郎はよろよろとまた歩き出した。
ふみ、俺の手はもう汚れてしまった。
お前に触れる資格もない。
ろざりおの持ち主を斬った俺はもう別の世界の人間だ。
安心して西堀様の元の嫁ぐといい。
射られた傷は今頃になって穴を穿つように痛んできた。
傷だらけ、土ぼこりにまみれて山を下り始める新野尚次郎の背中に、静かに見えない十字架が括り付けられるのを、彼自身がはっきりと感じた。
手のひらの傷は命ある限り消えないだろう。まるで磔柱に釘で打ち付けられたかのように。
着物や袴を血で汚し、何度も地に転びながら、尚次郎は自分の、信士郎の、そして西堀とふみの家のある里へと下りて行った。
地鳴りか、山鳴りか。
狂人のようにカッと目を見開いて、小石を蹴飛ばし岩場や急な斜面を駆け上がり、走り続ける尚次郎の耳には最初それは聞こえなかった。
バシバシと自分の周りで、小枝がちぎれる音がする。藪をかき分けて走り続ける自分に、しなやかな灌木の小枝がぴしぴしと当たる。
それはよくしなる鞭のように、狂気の塊になって走り続ける尚次郎の顔と言わず、綿の着物に包まれた身体と言わず諫め打った。
野いばらのとげが顔や着物から出た首筋を傷つけ、小枝や木の根を踏み抜いて走る草履の足は泥だらけになっていたが、彼は気が付かない。
頭の中が憤怒と迸る感情で真っ赤になっていた。
疾走する目の前に、垂れ下がった若枝がふさいだが、足を緩めることなく脇差を抜き、その枝を一撃で薙ぎ払った。
なぜ邪魔をする !
なぜ俺の前に立ちはだかり、塞ぐのだ !
手負いの熊のように荒れ狂いながら、尚次郎は腕を、刀を振るい、周りの枝を叩き切り走った。
その荒々しい姿はまさしく一匹の獣だった。
地鳴りのような音が体にまとわりついてくる。やかましい。
しかし彼は気づいた。獣の声が自分の喉からほとばしっているのだ。
突然空気を切り裂くブン、という軽い音が耳元をかすめたかと思うと、一本の矢が背後から飛んできた。
ぴしゃ、と左の掌に、こん棒で叩き伏せられたような衝撃を受け、尚次郎は林の中にもんどりうって倒れた。
百姓たちの野盗か。
混乱した頭で尚次郎は考えた。
ここに居ては危険だ。とはいえ立ってまた走り出すのも目立つ。
こんもりとしたクマイチゴの藪の中に這いずり入って、自分の身を隠した尚次郎は、じっと息をひそめた。
左手のひらに大きな傷があり、地面には獣用の矢が突き立っていた。
自分を射た矢だ。
殴られたと思った痛みはこの矢で射られた痛みだったのだ。
貫通はしていないが手の骨にそって肉を深く削っており、えぐり取られた傷口からはどくどくと血がわいてくる。
俺を獣と間違えて射るとは。
荒れ狂った怒りから続いている激越な感情は、尚次郎の理性を失わせた。
木の葉を踏みしめる音が近づいてくる。
尚次郎は無傷な右手でしっかりと刀を握った。
そっと忍ばせた足音が用心深く近づいてくる。
刺だらけの藪の中、地面に伏せ身を潜ませている尚次郎の眼前に、深山用の足ごしらえをした若い狩人が現れた。
まだ若く、獣に矢を放ったはいいが、追跡する恐怖におどおどと落ち着きがない。
些細な山鳥の羽音にもびくりと身を震わせ、歩みを止め辺りを見回す。
身を低くして歩むその姿はみすぼらしく、正式なマタギ集団の一員というより一人で山に入った密漁の者だ。
その証拠に、通常狩りは数人単位で役割を分担して行うが、この目の前を獲物を探して徘徊する青年はいつまでたっても仲間を呼ぶ笛も鳴らさず、狩人特有の声も上げない。
殿の領有である山に入って勝手に猟をする者だと、尚次郎は判断した。
そのような奴なら見逃してやるいわれはない。
尚次郎は、ぎり、と無事な右手で刀を握りしめ、手元に引き寄せた。
その些細な音に、若い密猟者はピクリと体を震わせた。
矢を放つ態勢を整える一瞬の間に、尚次郎は藪から飛び出し、低い姿勢のまま男の足を薙ぎ払った。
この世の者とは思えない悲鳴を上げ、両足を切られた密猟者は地面に転がった。
ひいいいい、ひーと喉笛をかき切られた狼のような悲鳴を上げながら、狂おしく自分を切ったものを見た。
「落ち武者狩りの真似か?」
ゆっくりと立ち上がりながら、低いどすの効いた声を吐いた。
血走った目がびくびくと、荒んだ自分を見上げている。
髪を振り乱し藪の刺に着物を割かれ、手のひらからどくどくと血を流した尚次郎を見留め、猟師は地を這い逃げようともがいた。
その眼前には、自分の放った獣用の矢が大地に突き刺さっている。
「ち、違います、わしは貴方様を傷つけようなんて……ただ物音がするので……」
密猟者は一瞬で理解した。
おのれが獣と間違えて、よりによって若いお侍を射てしまったという事を。
「おゆ…お許しをっ 命だけは…」
足を切られ走って逃げられない密猟者は、がばっと地面に伏せた。
恭順の意を見せようとしたのか、木の葉と石だらけの地面に這いつくばってじりじりとのがれようともがき、うわごとのようにつぶやいている。
完全にこちらに背中を見せて、気ばかり焦っても体が動かないようだ。
ただ、その手に握った獣用の槍は、恐怖のあまり穂先を尚次郎に向けたままだ。
ゴシッ
尚次郎の右手に固く握られた脇差しが、再びしなった。
鈍い骨を断つ音が響き、狩人は首の根元から肩、背中と袈裟懸けに切られ、血しぶきを噴き上げた。
平たくのびたその姿は、まるで引き割かれながら足をひくつかせるカエルのようで、尚次郎はその醜さを呪った。
惨めだ。お前の今のその姿は何と惨めか。
……この俺と同じではないか。
尚次郎はためらわず、右手に傷ついた左手を添え、素早く刀を振り下ろした。
ぐむっ
ウシガエルを踏みつぶしたような声にならない声を残し、脳天を二つに断ち割られた密猟者は、頭蓋から噴水のように血と脳漿を噴出させて痙攣した。
顔の半分、唇の真上ほどまで切られた姿は、まるでお伽話に見る一つ目小僧のようだ。
大きく口を開け、牛のように舌を出して、こぼれんばかりに目を見開いて空をにらんでいる。
糞尿の匂いが鼻を突いた。
撲殺や惨殺された者は体中の穴が弛緩し、尿が漏れ脱糞するのだ。
犬のような唸り声を上げながらびくびくと身を震わせ、それも次第に間遠になり、密猟者は目の前で絶命していった。
血と糞尿の混じった耐えがたい臭いの中、尚次郎はよろよろと死体に近づいた。
傷ついた草履の足の裏に、固い小さな粒が当たる。
銭か? この貧しい狩人が持っていたのか?
かがんで死体の周りに視線を巡らせ、手のひらを木の葉と血糊の海の中に泳がせると、狩人のもんぺから漏れた尿の中に、糸で繋げた固い粒があった。
尿の中から拾い上げてみるとそれは、乳母や以前寺ですれ違った百姓の女が首から下げていた切支丹の持ち物、ろざりおという数珠であった。
固い木の種で作られた神のための祈りの道具である。
だがその『ろざりお』は、今ここで尚次郎が持ち主の胴体もろとも斬り捨て、バラバラに森の木の葉の中に散っていた。
はははははは
尚次郎は傷ついた体を折り曲げ、膝を打たんばかりに笑い出した。
甲高い狂女のような声が森の中をこだまし、いくつもの方角から折り重なって聞こえてくる。
「見えるか。死人にはもう見えないだろうがな」
尚次郎は吠えた。
「『ぜず様』がお前たちを救ってくれるのではないのか!? そんなものは嘘ではないか! 今ここでお前を救ってくれなかったではないか!」
狂ったように嘲笑し、唾を吐き罵声を浴びせながら、尚次郎はふと思い出して手の傷を手拭いで押さえた。
ズンズンと斬りさいなまれるような重い痛みが、左の手のひらから腕全体に回ってきた。
前にもこんなことがあった。
その時も自分の顔の怪我を布で拭った。けどそれは自分ではない、誰かの小さな暖かい手がしてくれた……。
「ふみ……」
そうだ。
子供の頃、剣の道場の兄弟子たちから喧嘩を仕掛けられ、泥と血に汚れた顔の汚れを、ふみが布で拭いてくれた。
思い出した……。
尚次郎はよろよろとまた歩き出した。
ふみ、俺の手はもう汚れてしまった。
お前に触れる資格もない。
ろざりおの持ち主を斬った俺はもう別の世界の人間だ。
安心して西堀様の元の嫁ぐといい。
射られた傷は今頃になって穴を穿つように痛んできた。
傷だらけ、土ぼこりにまみれて山を下り始める新野尚次郎の背中に、静かに見えない十字架が括り付けられるのを、彼自身がはっきりと感じた。
手のひらの傷は命ある限り消えないだろう。まるで磔柱に釘で打ち付けられたかのように。
着物や袴を血で汚し、何度も地に転びながら、尚次郎は自分の、信士郎の、そして西堀とふみの家のある里へと下りて行った。