第29話 地の塩・1
文字数 2,959文字
「殿が死罪を命じられたそうだ」
「死を……それはどこの者に」
年長の役人たちの人目を憚った会話に、新野尚次郎はぎくりと顔を上げた。
1628年12月23日。
「なんでも江戸で偽銀貨を手に入れて使った家来がいて、殿が死罪を命じたそうな。今人づてに聞いた」
「それは大罪だ。切腹や斬首だけでは済まされまい…」
米沢藩の奉行所で書類の整理番にあたっていた尚次郎だが、あまりに静かに訴状の整理をしていたので、役人たちは書庫の中で息をひそめる彼に気付かず、そのまま歩き去って行った。
ふうーっと長い溜息をついたが、しかし緊張を解いたわけではなかった。
城中は切支丹侍の処遇という大きな問題に振り回されていたが、しかし当の切支丹たちは堂々と城に出仕し仕事をこなし、日々領民たちへの施しも続けている。
堂々とした体躯と美男子で有名な西堀式部も、甘糟右衛門も、アントニオ穴沢もシモン高橋も。
当てこすりや讒言、棄教を迫る上役の冷遇をむしろ喜びとしながら、一層生き生きと日々を過ごしていた。
家中で祈り、ナターレ(クリスマス)の準備に余念がない、洗礼を受けた彼らの妻子、兄妹、奉公人たちも同様であった。
市中に用足しに出るときも、彼らは堂々と首からロザリオや木彫りの十字架をかけていた。
そして市中の人々も、そんな彼らを特段奇異の眼で見ることもなかった。
仏教徒も地域の神社の神主も、切支丹も、皆「そういうものだ」と普通に交わって暮らしていた。
これが日本のキリシタン受難史の中での『米沢』という町の特異性だった。
だがこの身内をかばう過剰な仲間意識の弊害と癒着と無批判は、後々十一代将軍徳川家斉の時代に大変な危機を上杉家にもたらすのだが、またそれは別の話である。
早々に奉行所での仕事を終えた尚次郎は、その足で真っ直ぐ西堀の屋敷へ向かった。
折りから降り出した雪は次第に激しさを増し、大粒のボタンの花弁がひらひらと尚次郎の笠に肩にと降り積もった。
草鞋の下で踏みしめられた新雪がキュッキュッと鳴り、まだ冷え切ってはいない尚次郎の心持のように歩みと共に追ってきた。
奉行所からお堀の近くの西堀家までは、さほど離れてはいない。
白く染まった世界の中、道沿いの黒い藁ぶき屋根や門、深く笠をかぶった町人や藁蓑を着込んだ農民が、幽霊のようにぬっと近くに現れては離れてゆく。
ぽたぽたと降る大粒の雪は次第に激しさを増し、山から吹き下ろす風と共に吹雪になって、容赦なく尚次郎の顔に身体に叩き付けた。
西堀の屋敷に近づくと、中から数人の武士と下働きの者が出てきて、憮然と立ち去って行った。
その後ろ姿には見覚えがある。嫁であるふみの実家、松川家の者たちだ。
切支丹処罰の渦中にある娘と婿を気遣ってきたのだろうか。
門番に自分の来訪を告げると、亭主の西堀は不在でまだ帰っていないという。
おおかた市中のキリシタンたちと祝うナターレの打ち合わせでもしているのであろう。
どうしても伝えたいことがあると告げると、まずは戸口に招き入れられた。
どかどかと足踏みをして足元に着いた雪を落とし、着物の背中や袴、全身に着いた雪を払う。
なじみの下男と下女が乾いた布をもってきて、雪に濡れた手足を拭いてくれた。
「もうすっかり根雪ですな。これからシンシンと冷えてきます」
「奥様はすぐにお支度なさるという事で、しばしお待ちくださいませ」
「いや、奥に入れてもらう必要はない。ここでよいと伝えてくれ」
これらの見知った気のいい召使たちも、みな切支丹なのだ。
主人の西堀やふみを見ているうちに感化され、洗礼をうけた者たちだ。
尚次郎は皆を怒鳴りつけたかった。
お前たちにも妻子があり、親類縁者が居り、その人たちのつながりの中で生きているのであろう。なぜ自分たちの信心のために死を選ぶのか。
だが、雪だらけでやってきた尚次郎をにこにこと気遣い世話をする召使たちに、それは言えなかった。
かわりに
「ご苦労。いつも妙な時に俺は来てしまうようだな」
と苦笑してしまうのだ。
「妙な偶然かもしれませんね、尚次郎殿。先程まで私の父と家の者が来ておりました」
暖かな袷の着物を着たふみが、おはなを従えて姿を現した。
「やはりお父上でしたか。門の外でお帰りになる姿を拝見しました」
「ええ。私に夫と別れて家に戻って来いと」
ふみは、ここは寒いですからと尚次郎を招き入れた。
新野家よりずっと広い西堀の家の奥の座敷ではなく、尚次郎は入口に近い部屋で話をすることを望んだ。
「あなたの言いたいことはわかっております。棄教せよと念を押しに来たのでしょう」
「分かっていらっしゃるのですね」
「ええ。先程も来た松川の父上と家の者も、私を心変わりさせようとずいぶん長い間話をしていきました」
「当たり前です。貴女だけは信者になって比較的浅いからと、お父上たちが直に殿に談判をしたのですよ」
「それは大変な事…でも私の為というのなら喜んで死の旅に送り出してほしいものです」
「ふみ殿、貴女は何もわかっていない。貴女たちの思う神様のために死んで、それで神様が喜ぶと思うのですか」
「はい」
ふみは真っ直ぐな目をして尚次郎を見詰めた。
いつもならその澄んだ大きな瞳で見つめられると尚次郎は胸が苦しくなり、どういう顔をしたらいいかわからず下を向いてしまうのだが、今日ばかりはそんな、はにかみを見せてはいられない。
「それは間違っています。父上様や母上様を悲しませ、それであなたたちの神は喜んでいるというのですか?」
「できることならば周りの人を悲しませたくはありません。私たちだって生きて神様の手足としてもっと働いていたい。でも教えを捨ててまで生きるという事は私たちには考えられません」
いけない。これでは先日の西堀も交えた三人の対話と同じだ。
尚次郎はしばし考えた。
「私はしばらく前から奉行所でお勤めをしていますが、色々なことが聞こえてきます。殿さまもできたらあなたたち切支丹を処罰などしたくないのです。だから形だけでも、その時限りの『ふり』だけでも信仰を捨てたと示してくれればいいのです。そしてしばらくおとなしくしていれば、殿はそれ以上は…」
「形だけでも、と申されますが、私たちにとって神の形は神の姿そのものです。よその藩では、ぜず様や聖母様の御画を信者に踏ませようとするとか」
「はい。我が藩でも用意されています」
「なんと恐ろしい…神を足蹴にするなど」
「ですから形だけです。それを目にするのはその場の役人と何人かの被疑者だけです」
「お姿は神そのものです」
「それはおかしい。あなたたちの神は、偶像を作ってそれを拝んではならないと言っているではありませんか」
たびたび耳にするので、尚次郎は西堀やルイス甘糟が解く聖書の主な教えをそらんじてしまっていた。
「それは異教徒の信仰にいつの間にか染まってはいけないという戒めです。私たちが神に心を寄せるよすがとし、真剣に祈るならばそれは偶像ではありません」
正直尚次郎には詭弁としか思えない理屈だが、ふみは強硬に言い張った。
「死を……それはどこの者に」
年長の役人たちの人目を憚った会話に、新野尚次郎はぎくりと顔を上げた。
1628年12月23日。
「なんでも江戸で偽銀貨を手に入れて使った家来がいて、殿が死罪を命じたそうな。今人づてに聞いた」
「それは大罪だ。切腹や斬首だけでは済まされまい…」
米沢藩の奉行所で書類の整理番にあたっていた尚次郎だが、あまりに静かに訴状の整理をしていたので、役人たちは書庫の中で息をひそめる彼に気付かず、そのまま歩き去って行った。
ふうーっと長い溜息をついたが、しかし緊張を解いたわけではなかった。
城中は切支丹侍の処遇という大きな問題に振り回されていたが、しかし当の切支丹たちは堂々と城に出仕し仕事をこなし、日々領民たちへの施しも続けている。
堂々とした体躯と美男子で有名な西堀式部も、甘糟右衛門も、アントニオ穴沢もシモン高橋も。
当てこすりや讒言、棄教を迫る上役の冷遇をむしろ喜びとしながら、一層生き生きと日々を過ごしていた。
家中で祈り、ナターレ(クリスマス)の準備に余念がない、洗礼を受けた彼らの妻子、兄妹、奉公人たちも同様であった。
市中に用足しに出るときも、彼らは堂々と首からロザリオや木彫りの十字架をかけていた。
そして市中の人々も、そんな彼らを特段奇異の眼で見ることもなかった。
仏教徒も地域の神社の神主も、切支丹も、皆「そういうものだ」と普通に交わって暮らしていた。
これが日本のキリシタン受難史の中での『米沢』という町の特異性だった。
だがこの身内をかばう過剰な仲間意識の弊害と癒着と無批判は、後々十一代将軍徳川家斉の時代に大変な危機を上杉家にもたらすのだが、またそれは別の話である。
早々に奉行所での仕事を終えた尚次郎は、その足で真っ直ぐ西堀の屋敷へ向かった。
折りから降り出した雪は次第に激しさを増し、大粒のボタンの花弁がひらひらと尚次郎の笠に肩にと降り積もった。
草鞋の下で踏みしめられた新雪がキュッキュッと鳴り、まだ冷え切ってはいない尚次郎の心持のように歩みと共に追ってきた。
奉行所からお堀の近くの西堀家までは、さほど離れてはいない。
白く染まった世界の中、道沿いの黒い藁ぶき屋根や門、深く笠をかぶった町人や藁蓑を着込んだ農民が、幽霊のようにぬっと近くに現れては離れてゆく。
ぽたぽたと降る大粒の雪は次第に激しさを増し、山から吹き下ろす風と共に吹雪になって、容赦なく尚次郎の顔に身体に叩き付けた。
西堀の屋敷に近づくと、中から数人の武士と下働きの者が出てきて、憮然と立ち去って行った。
その後ろ姿には見覚えがある。嫁であるふみの実家、松川家の者たちだ。
切支丹処罰の渦中にある娘と婿を気遣ってきたのだろうか。
門番に自分の来訪を告げると、亭主の西堀は不在でまだ帰っていないという。
おおかた市中のキリシタンたちと祝うナターレの打ち合わせでもしているのであろう。
どうしても伝えたいことがあると告げると、まずは戸口に招き入れられた。
どかどかと足踏みをして足元に着いた雪を落とし、着物の背中や袴、全身に着いた雪を払う。
なじみの下男と下女が乾いた布をもってきて、雪に濡れた手足を拭いてくれた。
「もうすっかり根雪ですな。これからシンシンと冷えてきます」
「奥様はすぐにお支度なさるという事で、しばしお待ちくださいませ」
「いや、奥に入れてもらう必要はない。ここでよいと伝えてくれ」
これらの見知った気のいい召使たちも、みな切支丹なのだ。
主人の西堀やふみを見ているうちに感化され、洗礼をうけた者たちだ。
尚次郎は皆を怒鳴りつけたかった。
お前たちにも妻子があり、親類縁者が居り、その人たちのつながりの中で生きているのであろう。なぜ自分たちの信心のために死を選ぶのか。
だが、雪だらけでやってきた尚次郎をにこにこと気遣い世話をする召使たちに、それは言えなかった。
かわりに
「ご苦労。いつも妙な時に俺は来てしまうようだな」
と苦笑してしまうのだ。
「妙な偶然かもしれませんね、尚次郎殿。先程まで私の父と家の者が来ておりました」
暖かな袷の着物を着たふみが、おはなを従えて姿を現した。
「やはりお父上でしたか。門の外でお帰りになる姿を拝見しました」
「ええ。私に夫と別れて家に戻って来いと」
ふみは、ここは寒いですからと尚次郎を招き入れた。
新野家よりずっと広い西堀の家の奥の座敷ではなく、尚次郎は入口に近い部屋で話をすることを望んだ。
「あなたの言いたいことはわかっております。棄教せよと念を押しに来たのでしょう」
「分かっていらっしゃるのですね」
「ええ。先程も来た松川の父上と家の者も、私を心変わりさせようとずいぶん長い間話をしていきました」
「当たり前です。貴女だけは信者になって比較的浅いからと、お父上たちが直に殿に談判をしたのですよ」
「それは大変な事…でも私の為というのなら喜んで死の旅に送り出してほしいものです」
「ふみ殿、貴女は何もわかっていない。貴女たちの思う神様のために死んで、それで神様が喜ぶと思うのですか」
「はい」
ふみは真っ直ぐな目をして尚次郎を見詰めた。
いつもならその澄んだ大きな瞳で見つめられると尚次郎は胸が苦しくなり、どういう顔をしたらいいかわからず下を向いてしまうのだが、今日ばかりはそんな、はにかみを見せてはいられない。
「それは間違っています。父上様や母上様を悲しませ、それであなたたちの神は喜んでいるというのですか?」
「できることならば周りの人を悲しませたくはありません。私たちだって生きて神様の手足としてもっと働いていたい。でも教えを捨ててまで生きるという事は私たちには考えられません」
いけない。これでは先日の西堀も交えた三人の対話と同じだ。
尚次郎はしばし考えた。
「私はしばらく前から奉行所でお勤めをしていますが、色々なことが聞こえてきます。殿さまもできたらあなたたち切支丹を処罰などしたくないのです。だから形だけでも、その時限りの『ふり』だけでも信仰を捨てたと示してくれればいいのです。そしてしばらくおとなしくしていれば、殿はそれ以上は…」
「形だけでも、と申されますが、私たちにとって神の形は神の姿そのものです。よその藩では、ぜず様や聖母様の御画を信者に踏ませようとするとか」
「はい。我が藩でも用意されています」
「なんと恐ろしい…神を足蹴にするなど」
「ですから形だけです。それを目にするのはその場の役人と何人かの被疑者だけです」
「お姿は神そのものです」
「それはおかしい。あなたたちの神は、偶像を作ってそれを拝んではならないと言っているではありませんか」
たびたび耳にするので、尚次郎は西堀やルイス甘糟が解く聖書の主な教えをそらんじてしまっていた。
「それは異教徒の信仰にいつの間にか染まってはいけないという戒めです。私たちが神に心を寄せるよすがとし、真剣に祈るならばそれは偶像ではありません」
正直尚次郎には詭弁としか思えない理屈だが、ふみは強硬に言い張った。