第32話 地の塩・4
文字数 2,051文字
「志田、先程申していた切支丹の心映えの「十の戒め」とやらをもう一度聞かせてくれ」
上杉城の奥の間で、二十五歳の若き当主・上杉定勝は家老を呼んだ。
本来ならこの自分を取り巻く側近の中に、代々馬廻り役を勤めてきた西堀もいるはずだ。
老いた家老・志田修理義秀は、若い君主にキリシタンの処刑を思い留まらせるべく、キリシタンの護る「十戒」を説明した。
彼自身は切支丹ではなかったが、パウロ甘糟や他の家来たちが堂々と説教しているのを聞いたことがあった。
ひとつ 我は主なる汝の天主なり、我の他いかなるものをも天主と為すべからず。
ふたつ 汝主なる天主の名をみだりに呼ぶなかれ。
みっつ 汝安息日を聖日とすべきことを覚ゆべし。
よっつ 汝父母を敬うべし。
いつつ 汝殺すなかれ。
むっつ 汝姦淫するなかれ。
ななつ 汝盗むなかれ。
やつ 汝偽証するなかれ。
ここのつ 汝人の妻を恋うるなかれ。
とお 汝人の持ち物をみだりに望むなかれ。
「……志田。切支丹の処刑はしばらく伸ばす」
それまで険しかった志田の老顔が、ほうっと穏やかになった。
この上杉定勝と志田修理のやり取りがあったのが、1628年十二月二十五日の事である。
西堀家、甘糟家ではそれぞれの信徒の組が、前夜の降誕の夜祭りに引き続き、イエズスがこの世に生まれた事を祝い厳粛祈っていた。
若き藩主への志田の説得が功を奏したのか、藩内の切支丹への沙汰は半月ほど延期された。
だが水面下で着々と進む処刑の準備と、身近なところからキリシタン侍を遠ざける、家老広井をはじめ幕府恭順派の重臣たちの動きは、すぐに末端の足軽までも伝わった。
身近に迫る一族郎党上げての殉教に備え、甘糟右衛門はその説法「殿談義」の場において、信者たちに次のように説いた。
一つ、自身を高ぶらせおごらせてはいけない。命を捧げるまで信仰を守り通すことは、自分ひとりの力ではなく天主の御業である。
二つ、殉教者は信者の中でも聖霊の賜物を受けた、高い位まで上ることを許された者であるから、もはや財産に執着せず人びとへの施しをよくし、自分を厳しく戒め魂を清らかにして備えるべきである。
三つ、ひたすらに神の慈悲にすがり祈り続けること。身を低くして祈り続ければ神は必ず恩寵を賜ってくださる。
信者たちは正月の支度に忙しい街の人々と親しく交わりながら、冬を越すのにも苦労する貧しい人々への施しを続け、惜しげなく衣類や食べ物を分け与えた。
街の人々も、そんな信者たちの姿に好感を抱くことこそあれ、「違う神を信じている」という理由での差別はしなかった。
外国人宣教師や日本人伝道師の乏しい山奥の地にあって、教え導くものも教えを受ける者も、同じ苦労を共にしてきた仲間だからであろうか。
これら信者と非信者との平和な共存は、当地をしばしば訪れた『山』という名のイルマン(修道士)を経由し、会津若松のイエズス会士ポルロ神父の手紙によってバチカンにもたらされている。
その知らせは年が明けてまもなく、突然に降ってきた。
お城に上った切支丹の侍が、広井出雲とその家来衆が話していた内容を聴きつけたのだ。
家老広井の一派は、殿がもうすぐ切支丹たちの処刑を命ずる、その日は近いと言葉を交わしていた。
侍は隙を見て、かねてより知己であった甘糟右衛門の息子、ミゲル(ミカエル)甘糟太右衛門に急ぎ伝えた。
米沢の切支丹の総親であるルイス甘糟右衛門には二人の息子がおり、このとき侍より話を聞いたのは、長男の太右衛門の方だった。
彼はその時二十三歳、同い年のドミニカという洗礼名を持つ妻と、三歳の愛娘ジュスタがいた。
四十六歳のルイス甘糟右衛門にとって、可愛い可愛い孫娘である。
長男ミゲル太右衛門は体調を崩し床に臥せっていたが、侍の話を聞くや家族揃っての殉教の期待と喜びに突き動かされ、父右衛門の元へ伝えに走った。
ルイス右衛門も静かな喜びに満たされて、息きせって走り来た息子の声を聴いていた。
家中の召使や使用人も、主人に感化されて切支丹の洗礼を受けたものは皆、いよいよ神の元へ行けると顔を輝かせた。
城中に居るのは切支丹に好意的な者ばかりではないことは、先に書いた。
だが彼らにとっても、切支丹がいる光景というのはもはや当たり前になっていた。
一斉手入れが近いと城下に噂が広まる中、切支丹の人々はみな普通通りに淡々と祈り暮らし、もう二度と袖を通すことはないであろう着物や使う事のない生活用具などを貧者に分け与え、病人の世話をし、食料の乏しい人たちに米や味噌を配った。
それらは不思議なほど普段通りで、怖気づいたり逃げ出そうとする素振りは毛ほども見せなかった。
侍たちだけでなくその子女、幼い子供から年寄り、使用人に至るまで変わらなかった。
信者ではない町の人たちも、ごく普通に信者たちと接していた。
上杉城の奥の間で、二十五歳の若き当主・上杉定勝は家老を呼んだ。
本来ならこの自分を取り巻く側近の中に、代々馬廻り役を勤めてきた西堀もいるはずだ。
老いた家老・志田修理義秀は、若い君主にキリシタンの処刑を思い留まらせるべく、キリシタンの護る「十戒」を説明した。
彼自身は切支丹ではなかったが、パウロ甘糟や他の家来たちが堂々と説教しているのを聞いたことがあった。
ひとつ 我は主なる汝の天主なり、我の他いかなるものをも天主と為すべからず。
ふたつ 汝主なる天主の名をみだりに呼ぶなかれ。
みっつ 汝安息日を聖日とすべきことを覚ゆべし。
よっつ 汝父母を敬うべし。
いつつ 汝殺すなかれ。
むっつ 汝姦淫するなかれ。
ななつ 汝盗むなかれ。
やつ 汝偽証するなかれ。
ここのつ 汝人の妻を恋うるなかれ。
とお 汝人の持ち物をみだりに望むなかれ。
「……志田。切支丹の処刑はしばらく伸ばす」
それまで険しかった志田の老顔が、ほうっと穏やかになった。
この上杉定勝と志田修理のやり取りがあったのが、1628年十二月二十五日の事である。
西堀家、甘糟家ではそれぞれの信徒の組が、前夜の降誕の夜祭りに引き続き、イエズスがこの世に生まれた事を祝い厳粛祈っていた。
若き藩主への志田の説得が功を奏したのか、藩内の切支丹への沙汰は半月ほど延期された。
だが水面下で着々と進む処刑の準備と、身近なところからキリシタン侍を遠ざける、家老広井をはじめ幕府恭順派の重臣たちの動きは、すぐに末端の足軽までも伝わった。
身近に迫る一族郎党上げての殉教に備え、甘糟右衛門はその説法「殿談義」の場において、信者たちに次のように説いた。
一つ、自身を高ぶらせおごらせてはいけない。命を捧げるまで信仰を守り通すことは、自分ひとりの力ではなく天主の御業である。
二つ、殉教者は信者の中でも聖霊の賜物を受けた、高い位まで上ることを許された者であるから、もはや財産に執着せず人びとへの施しをよくし、自分を厳しく戒め魂を清らかにして備えるべきである。
三つ、ひたすらに神の慈悲にすがり祈り続けること。身を低くして祈り続ければ神は必ず恩寵を賜ってくださる。
信者たちは正月の支度に忙しい街の人々と親しく交わりながら、冬を越すのにも苦労する貧しい人々への施しを続け、惜しげなく衣類や食べ物を分け与えた。
街の人々も、そんな信者たちの姿に好感を抱くことこそあれ、「違う神を信じている」という理由での差別はしなかった。
外国人宣教師や日本人伝道師の乏しい山奥の地にあって、教え導くものも教えを受ける者も、同じ苦労を共にしてきた仲間だからであろうか。
これら信者と非信者との平和な共存は、当地をしばしば訪れた『山』という名のイルマン(修道士)を経由し、会津若松のイエズス会士ポルロ神父の手紙によってバチカンにもたらされている。
その知らせは年が明けてまもなく、突然に降ってきた。
お城に上った切支丹の侍が、広井出雲とその家来衆が話していた内容を聴きつけたのだ。
家老広井の一派は、殿がもうすぐ切支丹たちの処刑を命ずる、その日は近いと言葉を交わしていた。
侍は隙を見て、かねてより知己であった甘糟右衛門の息子、ミゲル(ミカエル)甘糟太右衛門に急ぎ伝えた。
米沢の切支丹の総親であるルイス甘糟右衛門には二人の息子がおり、このとき侍より話を聞いたのは、長男の太右衛門の方だった。
彼はその時二十三歳、同い年のドミニカという洗礼名を持つ妻と、三歳の愛娘ジュスタがいた。
四十六歳のルイス甘糟右衛門にとって、可愛い可愛い孫娘である。
長男ミゲル太右衛門は体調を崩し床に臥せっていたが、侍の話を聞くや家族揃っての殉教の期待と喜びに突き動かされ、父右衛門の元へ伝えに走った。
ルイス右衛門も静かな喜びに満たされて、息きせって走り来た息子の声を聴いていた。
家中の召使や使用人も、主人に感化されて切支丹の洗礼を受けたものは皆、いよいよ神の元へ行けると顔を輝かせた。
城中に居るのは切支丹に好意的な者ばかりではないことは、先に書いた。
だが彼らにとっても、切支丹がいる光景というのはもはや当たり前になっていた。
一斉手入れが近いと城下に噂が広まる中、切支丹の人々はみな普通通りに淡々と祈り暮らし、もう二度と袖を通すことはないであろう着物や使う事のない生活用具などを貧者に分け与え、病人の世話をし、食料の乏しい人たちに米や味噌を配った。
それらは不思議なほど普段通りで、怖気づいたり逃げ出そうとする素振りは毛ほども見せなかった。
侍たちだけでなくその子女、幼い子供から年寄り、使用人に至るまで変わらなかった。
信者ではない町の人たちも、ごく普通に信者たちと接していた。