第3話 ヴェロニカの布・1

文字数 6,779文字

 捨丸が生まれる前、新野家は掘盾川からやや離れた帯刀堰の近くの長屋に住んでいた。
 帯刀堰とは、上杉家が米沢に移ってきた後、直江兼続の指示により竣工された治水事業の一つで造られた、米沢の城下を大きく南から北西に流れる川に設けた堰である。
 城下町を形成する、城の西から北にかけて配置された侍町への生活用水であり、半農半武の足軽たちが腰に刀を帯びたまま治水工事にあたったため、帯刀堰と命名された。
 新野家の当主、登米丸と捨丸の父親はその監督官の職に就き、大勢の足軽他下級武士を率いて無事工事を成し遂げた。
 その功績を認められ、身分的には同じ足軽ではあったが、石高は引き上げられ地位は上がった。
 さらに、城下の外れである帯刀堰の袂から、城下中心地に近い、上級の足軽や彼らが仕える旗本たちが住む与板町に移り住むことになった。
 捨丸が生まれる前の話である。

 兄の登米丸が毒蛇に噛まれて命を落として以来、捨丸の両親は長いこと魂が抜かれたようであった。
 新野家は直江兼続につき従って越後からやってきた旧い家臣で、低い身分ではあったが主君のお役に立ちたいという意欲は人一倍だった。
 米沢の地で新しい城下が建設されていく、その中で生まれた長子の登米丸は、幼いながらもその賢さや武術の腕に加えて心身ともに強く、新野家の期待を一身に背負っていた。
 その長子が死んでしまったのだから家督を継ぐのは次男である捨丸、という事になるのだが、両親はあまり気のりはしなかった。
 どうしても利発すぎる兄と比べてしまう。
 なるほど捨丸は気が弱く、しっかり者の兄の後ろに隠れ甘え頼ってばかりいた、まだほんの子供だ。
 だが兄が死んでからの捨丸は、少しずつ変わってきた。
 起きてからぐずぐずと朝の支度に母や下女の手を煩わせ、着物もろくに着られなかったのが、すっと起きて布団をたたみ、不出来ながらも自分で着物を着換えるようになった。
 手水を使い、朝餉についても好き嫌いなく、残さず食べるようになった。
 そして、近所の悪童たちにいじめられるからと嫌っていた手習いや剣の稽古に、自分から通うようになったのである。
 兄に無理やり手を引かれて通っていた道場は、与板町から掘盾川の無足橋を渡ってすぐ、五十騎町のはずれにある。
 米沢の侍はそれぞれの元の主君によって町の名と住む所が決まっていた。
 直江兼続に越後の与板から付き従って来た侍たちで形成される与板町、それより高位の、上杉景勝を主君とし付き従って来た旗本が配置された五十騎町。
 この集団の起りは古く、上田五十騎衆が元だという説もある。
 転じて上杉城南の馬場町、膳中町、馬口労町、門東町には、さらに古い上杉謙信の時代からの古参の家臣団である馬廻組などの衆が住んだ。
 南の会津や伊達氏からの攻めに備えるために配置された古参勇猛な侍たちは「南方」と呼ばれ、堀盾川を挟んで向かい合う五十騎衆、与板衆などと意気を競っていた。
 帯刀堰の下級武士の長屋から移り住んできた新野の家は、これら侍町の中では新参者、身分の低さは明らかだった。
 大人たちの力関係はそっくりそのまま、子供達の力関係でもある。
 兄の登米丸は幼いながらも身分不相応な賢さと強さを現わし、上の身分の侍の子たちからも馬鹿にされることは皆無だった。
 それどころか剣の腕や書道、算術、その他学問でも群を抜き、年かさの子たちにも一目置かれていた。
 弱虫、泣き虫でちょっとした有名人の捨丸も、その登米丸の弟だということで、少しは酌量されていた部分があった。
 しかしもう兄はいない。
 四歳の捨丸は自分一人で世界の中を歩いて行かなくてはならなくなった。
「行ってきます、母様」
 着物に袴を履いた捨丸は小さな荷物と木刀を肩に担ぎ、既に草鞋を履いていた。
 長屋から粗末ながら一軒の屋敷に移り住んだ新野の家は、初めてきちんとした玄関がついたのだ。
「捨丸一人で大丈夫なの? 誰か供について行かせましょうか」
「一人で大丈夫、母様」
 いつもは兄や下男に引っ張られるように通っていた道場も、もう一人で行く。
 途中いじめられても泣かない。少しでも強くなる。
 四つの捨丸が自分で決めたことだった。
 でないと兄上に叱られる。
 最後にきちんと話をする相手に、他でもない自分を選んでくれたのだから、その期待に応えないと。
 臆病な捨丸にとって一人で道場に行って、稽古をつけてもらい帰ってくることはとても大変な課題だったが、まずやってみようと思ったのだ。
 ちゃんと起きて、きちんと着物を着て朝を迎えるという課題は成し遂げた。
 道場に行くのも最初は涙しても、できるようになるはず。
 捨丸の目算は初めの数分でくじけそうになった。
 通りを歩く捨丸に近寄って来た一団があった。
 それは兄の同年齢の友人たちで、ぺこりと一礼した捨丸を完全に無視した。
 もう一度、大きな声で挨拶をすると、そこで初めて気が付いたように顔を向けた。
「なんだ登米丸の弟か。道場を辞めるんじゃないかと思ったぞ」
「やめません。稽古ちゃんとけいこをします」
 捨丸は年上の少年たちに囲まれ、怖くて泣きそうな気持ちでいっぱいだったが、頑張って答えた。
「そうだな。兄貴が死んだからお前が後継ぎだしな」
「鼻たれ捨丸も長子扱いしてもらえるようになった。よかったと思ってるだろう」
 おい、行こう。
 年上の少年たちは悪態をつくと捨丸を残して走り去ってしまった。
「ぶたれなくてよかった」
 少年たちの言った意味は半分もわからなかったが、捨丸は殴ったり蹴ったりされなかったことが嬉しくて、笑顔で少年たちについて行った。

 次の受難は稽古に入る直前だった。
 道場の中でも一番の年少で『着袴の儀』を済ませたばかりの捨丸は、剣の稽古といってもまだほんのよちよち歩き。
 当然まともな稽古などつけてもらえず、道場の隅に端座して年上の少年たちの稽古を見ている段階だった。
 しかし数えで五つ、満年齢で四つの捨丸にとって、じっと座ってみているのはことのほかつらく、つい体がぐらぐらと揺れたりこっくり眠気に襲われたりするのだった。
「捨丸、居眠りしてるんじゃないぞ」
 先輩の少年が厳しい声をかけながら、こっくりしている捨丸の後ろを通り過ぎた。
 とたんに着物の襟もとから背中に、ひんやり濡れた気持ちの悪い感触のものが放り込まれた。
 捨丸はひゃあ、という悲鳴を上げてとび上がった。
 びとっと首から背中にくっつくぬめぬめした感じ。これはトカゲかヘビかミミズだと直感した。
 蛇だったら兄上のように噛まれて死んでしまうかもしれない。
 捨丸はわけが分からず、叫び声をあげたままごろごろと道場の床を転がりまわった。
「捨丸、首の後ろを見せろ」
 頭上から声が降ってきた。自分と同じくらいの幼い声だ。
 色白の、女の子のような優しい顔をした男の子が暴れる捨丸を押さえつけた。
「首の後ろを見せろ」
 同じ道着を着た男の子は有無を言わせず捨丸の着物をつかみ、体を押さえつけたまま着物の裾を袴から引っ張り出した。
 それは同じくらいの年の幼児とは思えない、鮮やかな体術だった。
「何か入ってる」
 捨丸の背中から滑り落ちてきたものは、一本のびしょびしょに濡れた細紐だった。
 なんだよ捨丸、お前紐ごときに怯えていたのかよ。
 悪戯を仕掛けた少年たちは、くすくすと声を忍ばせて笑っていた。
「浅ましいなあ、年下の子供をいたぶって笑っているなんて」
 背中から紐を出してくれた色白の幼い子は、捨丸の着物を直してやりながら年上の子たちにかみついた。
「なんだ」
 色を成した少年たちに師範の檄が飛ぶ前に、もう一人、だいぶ年上の少年が、悪童たちの背をどやしつけた。
 ふいに背中から蹴り飛ばされ、悪童たちは板の間に無様につんのめって転んだ。
「どうだ、背中から不意打ちをくらわされた気分は」
 年上の長身の少年は、吐き捨てるように言葉を投げつけた。
「武士の子として恥ずべき真似はするな。お前たちは雑兵ではないのだろう」
 10歳少し過ぎたばかりに見える、透き通った瞳の長身の少年には、歳に似合わぬ威厳と迫力があった。
 彼は師範に一礼し、その場に控えた。
「腹に据えかねて先生より先に出過ぎた真似をしてしまいました。どうか罰をお与えください」
 捨丸は唖然として、年上の少年と色白な男の子の顔を見つめていた。
 師範の武士は、年上の少年には何の処罰も与えず、捨丸にちょっかいを仕掛けてきた子供たちに200回の素振りを命じた。
 捨丸が礼を言おうとすると、同い年の男の子はすました顔で彼に並んで端座をし、先輩たちの稽古に見入っていた。

 稽古が終わり師範に礼をし帰る道々、捨丸は前を行く色白の男の子に走って追いついた。
「先ほどはありがとう。俺は新野捨丸。君は?」
「俺は松川信。捨丸のことはよく知っているよ。妹とよく話している子だもの」
「おふみの?」
 近所に住む女の子、「おふみ」は捨丸の幼馴染だった。
 川沿いの細道をお使いに行くときなど、よく顔を合わせては他愛もないおしゃべりをしたり、拾ったきれいな石や木の葉を見せあったり、そうした楽しい時間を過ごせる女の子だ。
「呼び捨てにするなよ、俺の妹を」
 信と名乗った男の子は色白の可愛らしい顔をしかめて、捨丸をにらみつけた。
「ごめん。でも意外だった。前からあの道場にいたの?」
「ああ。お前は兄様の後ろに隠れてもじもじして、ろくに稽古に打ち込まなかったから気づかなかったんだろうよ」
 可憐な顔をして、ニコニコしながらズバッと厳しいことを言う。
 幼いながらも松川信は毒舌だった。
「お捨、お信、今日は頑張ったな」
 背後から爽やかな声が響いた。さっきの年上の少年だ。
「捨丸、俺はお前の兄の友人だった。これから何かあったら俺に言え。登米丸の弟だから、お前も俺の友達だ」
「よかったな捨丸」
「お信、おまえもだ」
 この日、捨丸は二人の友人を得た。
 六つ年上の西堀式部政偵、一つ年上の松川信士郎である。
 
 家に帰った捨丸は、夕餉の席で両親に道場であったことを告げた。
 兄の友人たちから悪さをされたという話には顔をしかめた父と母だったが、松川と西堀の息子が助けてくれたと聞き、少しは安堵したようだった。
 長屋から屋敷に移り住んだとはいえ夕餉が粗末なことに変わりはない。
 雑穀交じりの玄米の粥に庭の畑でとれた野菜の香の物、蛋白質はたいてい豆食で、干した納豆や大豆の煮豆、潰して干した打ち豆と秋に収穫し潮漬けや干物にしておいたキノコの煮物。
 川魚が食卓に上るなどまだ稀であった。
「ほう、お捨は西堀と松川の坊ちゃんたちの知己を得たのか」
「年上の兄弟子たちに、背中にひやっとするものを入れられて、捨は騒いでしまったんです。蛇だと思って、兄様を噛んだ蛇だったらとすごく怖くて」
 兄の最期を思い出したのか、両親の顔が曇った。
 捨丸はしまった、と思ったがもう遅い。
 どうして自分はいつも気が回らないのだろう。
「でも松川の信士郎様と、西堀の式部様が助けてくれて、悪戯した奴らをとっちめてくれたんです」
「ありがたいことだ。いずれお前も、友達が危うくなったときは助けて差し上げられるよう、強くならないとな」
「はい。捨ももっと強くなりたい」
 何やら急に大人びた気がする……母は微笑んで、捨丸の御膳の粥をおかわりしてやった。
 父も笑顔でうなずいた。
 頼りない泣き虫の末っ子坊主だとばかり思っていたが、この子は少しはやるかもしれない。
 父は笑顔の下から冷静に息子を観察していた。
 兄の登米丸が亡くなってから捨丸の座る位置も少し変わった。
 今までは父、兄、ずっと離れた下座に捨丸と母、というお膳の配置だったが、今は捨丸はより上手に、父と向かい合わせに座り、母や下女のお給仕もしてもらえるようになった。
 もともと食が細く、出された食事も残してばかりの捨丸だったが、頑張って食べるようになった。
 頑張れば褒めてもらえる。両親や師範、下男や下女たちからも笑顔を向けてもらえる。
 捨丸は「認められる」ということの快感を初めて知った気がした。
 寝るときも捨丸は我慢した。
 今までは一人で寝られず、兄の登米丸の布団にぴったりと床を寄せ、兄の寝巻の裾を握りしめていたのだが、一人でもきちんと寝るようになった。
 兄が死んで間もなくは人の出入りが多くあわただしかったので、乳母や古くからの下女の家に泊めてもらい、そこの家族と雑魚寝していたのだが。
 おやすみなさいと両親に挨拶し布団に入る。
 夜中に便所に起きるときも、母屋の外の厠へ一人で起きていく。
 月明かりの中見上げる庭の木々はざわざわと大きく風に揺れ、黒く大きな手を伸ばして、小さな自分に襲い掛かってくるようだ。
 木の形をした亡霊のように見える。
 捨丸はお尻をもじもじさせながら、泣きたいのを我慢して厠へ走るのだった。

 両親は捨丸の変化を喜んだ。
 変われば変わるものだ。
 だが、一人で布団に戻った捨丸が、頭の上まで布団被って、怖いよ怖いよと声を殺して泣いていることは気づかなかった。
 いい子でいないと。きちんと兄上みたいに。父様と母様が悲しまないように。
 でも怖い。一人で道場に行く、行きも帰りも怖い。友達が一緒にいないとき、すきを狙って仕掛けてくる年上の子たちの悪戯が怖い。
 今迄みたいに母上にしがみついて甘ったれることができないのがつらい。
 なにより兄上がいない。いつも一緒にいて守ってくれた優しい兄上がいない。
 捨丸は体を丸めて毎晩泣いた。
 だが、それも次第になくなった。
 新野捨丸が満で五つになり、体も丈夫で剣の稽古や勉強にも一人前に着いていけるようになったころには、誰も彼をいじめる者はいなくなった。
 松川の信士郎や西堀家の政偵は変わらぬ友人としていつも一緒に行動していた。

「お捨、お前背が伸びたんじゃないか?」
 暑い夏の日。魚を捕りに掘盾川の上流の、松川との支流の堰まで行った時のことである。
 三人の住む上杉城下南西の侍町からもだいぶ離れた、南原という原方衆の住んでいる集落だ。
 埃だらけの農道で、一休みしようと道端の道祖神や地蔵の影の、大きな松の木の根元に座り込んだ時だった。
 西堀政偵が、竹筒の水を分け合って飲む捨丸と信史郎を見比べながら言った。
「そうでしょうか。測ってないから……」
「二人並んで立ってみろ」
 捨丸と信史郎はひょろりと背の高い政偵の前に並んで立った。
 二人とも絣の綿の着物に埃だらけの袴、白い顔に女のようにやさしい顔をしていたが、顔つきや個性ははっきりと違っていた。
 信史郎のほうが細面で顎が細く、よりつぶらな黒目勝ちの目をしている。
 その美しく優しげな顔付きのまま、遠慮なく言いたいことを言うのが信史郎だ。
 捨丸のほうがより丸く子供らしい輪郭の顔をしているが、眉は濃く眼も白目がすっきりと際立つ、表情の読み取りにくい瞳をしていた。
 一年前までは二人とも、生まれたばかりの子犬のようにじゃれ合う甘えた顔をしていたのに。
「ほら、並んでみるとわかる。捨丸はめっきり背が伸びたな。もうすぐ信史郎は追い越されるぞ」
「ええ、こいつに越されるのなんか嫌なこった。こんな奴に」
 信史郎は正直だ。
 思ったことをすぐ口に出す。
「俺だって嫌だよ。いつまでもお前より小さいのなんて。もうすぐ見下ろしてやるから」
 捨丸もいっぱしの口を叩けるようになった。
 相手は信史郎限定だったが。
「おふみだってちびすけは嫌だって言ってたし」
「お前、また妹を呼び捨てにして。いい加減にしろよ」

 信史郎の双子の妹、ふみは捨丸の幼馴染だった。
「では何と言えばいいのだ」
「ふみ様と呼べ。その前に馴れ馴れしく呼ぶな。妹とそんなに親しいわけではないだろう」
「……」
 黙ってしまった捨丸を前に、信史郎は妙な気まずさを覚えた。
「まあどうでもいいけどな。ふみのほうが年上だからな。一つ違いとはいえ」
「はい……」
 松川ふみが一つ年上ということは、双子であるこの信史郎も目上ということになるのだ。
 捨丸は神妙な顔で返事をした。
「おいそろそろ行こう。帰りが暗くなってしまうぞ。捨丸は意外と隅におけないということは分かった」
 西堀政偵が笑いながら助け舟を出してくれ、一同はまた川に向かって歩き出した。
 捨丸と信史郎は内心ほっとした。
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