第30話 地の塩・2

文字数 2,420文字

 尚次郎は仕方なく攻め方を変えることにした。

「甘糟殿の家は息子二人とその奥方も切支丹だと聞きました」
「はいその通りです。奥様もお二人とも洗礼を受けて喜びに溢れています」
「そのご長男とご二男のまだ幼いお子様たちにも、あなたたちは死を押し付けるのですか?」
「……お子様たちも洗礼を受けた切支丹ですから」
「お子様たちはまだ三歳と一歳になったばかりと聞いた。自分の意見を持たず親の言う事も理解できぬ、そんないたいけな赤子をあなたたちは死なせようとしているのですよ」
「仕方ありません」
「仕方ないではないでしょう。そんな赤子たちの死を望むのをあなたたちは神だというのであれば、私の眼から見たら鬼か悪霊としか思えない」
「尚次郎殿」

 ふみは怒りを含んだ目で尚次郎を見た。
 その冷たい目はなぜこんなにも美しいのだろう。
 ふみの言う事はさっぱり分からない。なぜ喜ばしいのか、なぜ死ななければならないのか、その信仰の理屈が全く分からない。
 多分切支丹達でなければ、その奇妙な心の高揚は分からないのだろう。
 だが例え分からなくても尚次郎には守りたいものがある。

「ふみ殿、私はあなただけは助けたいのです」

 尚次郎は両手を床について、いつしか拝み倒すような形をとっていた。

「夫君の西堀殿は切支丹のまとめ役として有名になりすぎた。甘糟殿と同じ、今回の処罰の中心人物になっています。だがあなたは違う」
「それはなりません。私は夫と共に逝きます」

 尚次郎は素早くふみに近寄ると、その手をとってぐいと引き寄せた。

「ふみ殿、私はあなただけでも死なせたくはない。助けたいのです」

 驚いてひっこめようとする手を離さず、夢中で言葉を続けた。

「私は今でもあなたを好いています。恥知らず、死ねというなら喜んで死にましょう。でもあなただけは生き続けてほしい。命を捨ててはなりません」
「尚次郎殿、手を離してください。子供のような事を仰ってはなりません」

 さすがのふみも動揺を隠しきれない。心弱く恥ずかしがりやで内気な男と思っていた尚次郎が、自分の眼を見てきっぱりとものを言う姿は初めてだ。

「お父様たちの言葉に耳を傾けて下さい。そして一緒にお家にお戻りください。おはな達も連れて……死んではなりません」
「尚次郎殿、なぜその言葉を私の友だった『ひな』にかけてあげなかったのですか」
「え?」

 ふみの冷たい口調に尚次郎は我に返った。思いがけず飛び出した過去の女の名に、彼の背中と両腕はさあっと冷たいものが走った。
 ひな、その名前は長らく記憶の奥底に沈めようとしてきた。
 自分がかつて愛したが、とあるきっかけで口汚く罵り捨ててしまい、結果的に命を絶つ後押しをしてしまった遊女だ。

「なぜその名を……」
「ひなは落ちのびてきた切支丹で私たちの大事な友でした。あなたの事もよく聞きました。祈りの集いの後とても幸せそうに離してくれたのですが、あなたはそのひなを罵倒して捨てた」
「それはあの女が」
「尚次郎殿、今すぐ女郎屋に行って、あなたが手ひどく振舞った女性の代わりに、不幸な女郎たちに情けをかけてやりなさい。私はあなたが簡単に人を捨て、踏みにじり、死に追いやった男だという事を忘れません」
「ふみ殿……」
「あなたが私を好きだという、それは子供のころから知っています。でも私が愛するのは人を踏みにじる男ではない。人を助け、人と共に死んで天国で相まみえ喜びあえる男です」

 ふみは障子戸の外に声をかけた。

「おはな、尚次郎さまにナターレの御祭壇を見せて差し上げて」
「……はい。ふみ様」

 おずおずと障子をあけて二人を見上げたはなは、きっと先ほどの激しいやり取りを聞いてしまったに違いない。

「では尚次郎殿。私はこれで。おはな、ナターレの祭壇をご覧になったら尚次郎殿はそのままお帰りになるから、お支度をお手伝いして門までお見送りしてあげて」

 そういってふみはついと立ち上がり、奥の間に引っ込んでしまった。
 尚次郎は自分の心が完全に拒否されてしまったのを知った。
 破滅という二文字が彼の頭の中に浮かんでは消え、おはながナターレのお飾りを見に行きましょう、と誘っても優しく拒否して帰るしかなかった。

 笠をかぶり足ごしらえをして吹雪の中に歩き出た尚次郎は、ぶつぶつと口の中で呟いた。
 まだだ。まだ絶望的と決まったわけではない。まだ助ける可能性はある。
 本当は、彼らは生き延びることなど毛ほども望んでいないのは明らかで、破滅の二文字しか頭の中にはなかったのだが、それでも彼はその言葉にすがるように「まだだ。まだ望みはある」と呟き続けていた。
 吹雪は激しさを増し道の半ばに差し掛かったころには目の前一寸先も見えない、ただ真っ白な風と雪の世界が尚次郎を取り巻くだけだった。
 切支丹達の心というのはこの吹雪に似ている、とひたすらに足を運びながら尚次郎は思った。
 限りなく清らかで、他の者の手が入ることを拒む。
 その手を取ることがあれば、不意を突いて自分たちの白い世界に引き込んでしまう。
 何も染まらず、染まったもののそれまでの人生や信条を次々と覆い隠していってしまう。
 自分達は神や仏というのは大地のようなものだと思っていた。
 まかれた種がその土地に合うように少しずつ性質を変え、植生も変えてよりよく収穫が得られるように力を及ぼしてくれるものだと。
 だが切支丹たちの信じている世界は他の世界を拒否し、自分達は決して変わろうとも交わろうともしない世界だ。

 彼らの言う「慈悲」とは何なのか。
 自身で判断もできない赤子も喜んで死なせることが、彼らの神の「慈悲」なのか。
 ナターレの飾りなど見たくもない。
 尚次郎は全身を猛々しい風と先程より固くなった雪の粒に鞭打たれながら、西堀家を離れていった。
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