第4話 ヴェロニカの布・2

文字数 3,289文字

政偵が嫡男である西堀家は、捨丸の新野家のある与板町から歩いて間もない、掘盾川にかかる無足橋を渡ってすぐの本五十騎町にあった。
 この上杉城の西を南から北に流れるお濠代わりの掘盾川を境に、外側に直峯町、無足町、与板町などの下級武士の屋敷が並び、
 川の内側に代官町、御膳部町等上杉景勝配下の旗本衆の配置されたのが、米沢の侍町の特色である。
 実に総人口の四分の一近くが侍とその配下のもので占める、米沢は武士の町であった。
 直江兼続に従ってきた与板衆の足軽の中でも新野家は身分が低く、同じ直江配下の近所であっても直峯町に住む松川家が身分は上だった。
 さらに主君である上杉景勝の直属の旗本である、五十騎町に屋敷を構える西堀家は、下級武士町とのはざかいに住むとは言え、また身分も出自も上だったのである。
 大人の侍の世界では決して親しくなることもない三つの家柄だが、子供の世界では微妙な力関係が影を落としつつ、上級士族の西堀が小さな足軽の子息たちを可愛がっていた。
 特に泣き虫で頼りないのに精一杯強がっている新野捨丸は、西堀に可愛がられた。
 友人である登米丸の弟だから、という名目で最初は目をかけていたのだが、道場でも座学の場でも必死に年上の弟子たちに食い下がり、ついて行こうとする小さな姿に見所のあるやつ、と認められたのだ。
 もう一人の友人、松川信史郎はまた捨丸とは全然違う性格ながら、妙に馬が合った。
 幼いころから言いたいことをずけずけと言い、頑固で自分の考えを良しとしたらてこでも動かない。
 お信と呼ばれる信史郎は、小づくりで華奢な少女のようなかわいらしい顔から想像もつかない、毒舌と自我の強さを持っていた。
 そして双子の妹、ふみをことのほか大事にしていた。

 ふみのことを思うと、捨丸は胸の下あたりが夕餉の味噌汁を飲んだようにじんわりと温かくなるのを覚えた。
 松川信史郎の双子の妹。捨丸よりも身分が上の中級武士のお姫様。
 だが捨丸にとっては武者路を通り母や父に頼まれたお使いに行くときなど、しばしば顔を合わせて遊んだ女の子だった。
 武者道とは侍町や職人町を通る名の付いた大路や小路の他に、掘盾川からひく細い用水路や、屋敷街の裏に延々と続く幅九尺ほどの細い路である。
 もっぱら下級武士が買い物用に忍んで通る道で、下級といえども武士は対面がある以上堂々と商家に通うことは憚られるものだ。
 そこで細い隠し道路のような武者路を、大小の脇差を刺し、笠や覆面で顔を隠して通るのだった。
 捨丸はまだ子供だったので、着物に草鞋をつっかけて身軽に行くのがこの道だ。
 無足橋から小道を横切って、細い掘割を横に見て職人町まで走る。
 そうすると馬具や刀の職人たちが、坊ちゃんはお利口だ、利発なお子だと褒めてくれた。
 用水路沿いの湿った土地が多かったので、虫に刺されることも多かったが、そこには屋敷の裏門近くで遊んでいる小さな女の子がいた。
 丸いふっくらした頬に、精巧な餅細工の和菓子のような柔らかな小さな唇と鼻。
 肩の下まで垂れる豊かな黒髪に、空の青を映したような大きな澄んだ瞳。
 兄の信史郎と似ているようで、もっと柔らかくまろやかな美しさの、ふみだった。

 きっかけはまだ兄が生きていたころ。
 お手玉を用水路に落として嘆くふみを見かねて、苦手な水に飛び込んで拾ってあげた四歳の春だった。
 雪解け水が冷たく着物もずぶぬれになり、捨松は大風邪を引いた。
 お使いの途中に川になど入るからだと両親はきつく叱ったが、友人の話から捨松の濡れた理由を知った兄の登米丸は、よくやったなとほめてくれた。
 別にその後、取り立ててふみが優しくしてくれたことはないし、どちらかといえば仕方ないな、少し相手になってあげるわと言う風情で、捨松の姿を見ると出てくる。
 どっちが相手をしているんだろうと、捨松はふみの奇妙な理由づけにおかしくなったが、意固地な信史郎の妹だからなと妙に納得するのだった。
 一度遊びだしてしまえば、ふみは捨松にガマの穂を集めてもらったり、ススキをたくさん折ってもらったり、河原に咲く河原撫子の花をとってもらったり。
 まるで使用人のように使い走りにした。
 そのたびに八重桜の蕾がほころんだような笑顔を向けてくれる。
 それだけで捨松は、そのあとの父の手伝いも、毎日のつらい道場通いも頑張ろうと思えるのだった。
 いくら二人が幼いといっても、武家の男子と女子である。
 いつも捨松とふみが二人きりで遊んでいるわけではない。
 かなりの確率で兄の信史郎がお目付け役のようについてきた。
 そして、ふみの気まぐれな言動にふりまわされ、あちらを走り、こちらの枝に飛んでいく捨松を見て呆れていた。
「お前は本当におふみの下男みたいだな。男なんだろう、ガツンと断っていいんだぞ」
「いいんだ。それでおふみは嬉しがってくれるんだから」
「いいのよ兄様。お捨はそういうところがいいんだから口を出さないで」
 美しく生まれついた上に琴や詩歌、文学の素養も身に着けたふみは、ただ一人のお姫様ということもあり家中に甘やかされた。
 だが時には自分でお転婆な行動をとるときもあった。
 だいぶ大きくなってからも、あのきれいな鯉が捕りたい、と言い出し、着物をさらりと脱いで薄物の襦袢一つになって川に入っていったことがあった。
 兄の信史郎と捨松は驚きあわて、すぐに水から出るようにと止めに入った。
 結局美しい白い鯉は捕れなかったが、ふみの肌襦袢は水にぬれ、幾分大人への成長を始めた体の線をむき出しに見せた。
「お前たちは何をやっているんだ」
 既に元服を終えた西堀政偵が、呆れたように無足橋の上から手拭いを放ってきた。
「せっかくの美姫が台無しじゃないか。まるで百姓女みたいだぞ、泥まみれで」
 むっとしたふみは、政偵から放ってよこされた手拭いで顔を拭くと、兄と捨丸に「行こう」と言い放ち、手拭いを水面に叩きつけて去った。
 後に残って水に入り、手拭いを拾い出して政偵に謝るのは、兄と捨丸の役目だった。
 それでも捨丸は、ふみと遊ぶのが大好きだった。
「あんな妹のどこがいいんだ?」
 常に苦労させられている信史郎は真顔で問うが、捨松は全部がいいんだとしか言いようがない。
 実際ふみが捨丸をどう思っているか、そんなことは日常の中では気に留める必要もない。
 ふみが自分の美しさを自覚しているのは明らかだ。
 捨丸も少年としては非常に美しく整った顔立ちではあるのだが、自分の顔は能面のようだと思っていた。
 川遊びが大好きで、自由闊達、けして「ありがとうね」といわないふみ。
 背がぐんと伸び、胸も膨らみ着物も大人の着る小袖に近づき肩揚げもすべて解き放っていた。
 豊かな髪の下の愛くるしい丸顔も少しずつ細面になり、時々子供らしからぬ愁いの表情を見せることもある。
 それでもやはりふみは、川で泳いだり好きな魚をとったり捨丸にとらせたりして遊んでいた。
 捨丸がいないときは近所の幼い子や使用人の子供らを引き連れて、叱られても叱られても魚や虫や花をとる。
 そんな本能的な、野生のカモシカのような美しさをふみは見せていた。

 春になり、冷たい雪溶け水が最上川に急流となって注ぎ込む。
 セリやツクシやネコヤナギなど、深く積もった雪の下から芽吹いたばかりの命を飲み込み、幅を広げながら川は渦を巻き高い西吾妻の山の奥から流れとなって押し寄せる。
 夏、水の流れは急に緩やかになり、開墾されたばかりの米沢の山すその田や畑を潤しながら、蒸し暑い上杉の地を透明に冷やしていく。
 秋、重たげに穂を垂れる水田から水は引き、川は水量を減らしながら優しく紅葉を映えさせて空の青、雲の白さを照り返す。
 そしてトンボの卵やゲンゴロウ、タテガメ、上ってきたアユやサケ、マスの卵を受け入れる。
 冬は深い雪の下で凍り死んだような川だが、水面に積もった雪の綿の下で、水は滔々と流れ続けている。
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