第13話 主は我が牧者・2

文字数 3,241文字

 川辺の女郎屋は湯屋の体裁をとっていた。
 湯屋とは江戸初期に普及した一種の銭湯で、上方では風呂屋、江戸では湯屋(ゆうや)と呼ばれた温水沐浴施設である。
 当時風呂と言えばそれは蒸し風呂のことで、身分の高い者は湯につかるという習慣はなかった。
 川で水浴するという者もいたが、人が多く集まる城下町などには次第にその湯屋が増え、特に普請や工事の働き手が集まる地域には多くつくられた。
 砂埃や汗を流すのに不可欠であり、最初は身分の低い人足や職人、町の衆が入るものであったが、次第に各地より戦火を逃れてきた流民の女たち、子沢山の農家の娘たち、さして芸事の腕を持たない女たちが集い男たちの世話をする体裁になった。
 当時の湯屋は脱衣所や湯船のみ男女に分かれ、いやそれすらも別れていない処も多かったが、白い湯気がたちこもる洗い場や上り湯どころは完全に混浴であった。
 堅気の娘たちの中には、混み合う時間に湯気に紛れて触られてしまうのを嫌がり、早い時間に来るものも多かった。
 男の集うところには必ず女の需要がある。
 信士郎が尚次郎を誘ったのは河原に何軒か構える湯屋の一軒であった。
 米沢の町のはずれ、原方衆の開墾した田畑が広がる手前の寂しい河原。
 それが城と家と道場の往復しか知らない尚次郎の、この地域の印象であったが、実際はたいそう違った。
 薄物を着たなまめかしく色白な女たちが格子戸の窓から姿をのぞかせ、ひとっ風呂浴びて行かれませと言葉をかけ、優しく誘う。
 そう広くはない湯屋通りを歩く男たちは、着ているものを見ると様々な身分の者たちが混在しているが、行く店は自然と決まっているようで、侍は侍の集う、町衆は同じ町民が集う店に入っていく。
 階層別に住み分けができているようだった。

「信士郎、この者たちは」
「湯女(ゆな)という女たちだ。そう固くなるな。とって食われるものでもない」

 妙に落ち着いた風情で悠々と歩く信士郎は、迷いなく一軒の店に吸い込まれて行った。

 そこは信士郎が言うような女郎屋然とした店ではない。
 体裁はあくまでも客に温水浴の湯を提供する湯屋であり、信士郎と尚次郎を迎えたのは腰の低い下足番と、手荷物とお刀を預かる年増の女たちだった。

「ここで着物を脱いで奥の大湯舟に入るのだ。あとは女たちが世話をしてくれる」

 信士郎は余裕の笑顔を尚次郎に向けたまま、女たちの手によって悠々と羽織を脱いだ。
 女たちはするすると彼の帯を解き、袴を脱がせ、それを衣文架けにかけ、袴のひだを整えてきちんと畳んで竹で編んだ行李に納めていった。

「何をぼうっとみているんだ尚次郎」

 くいっと指で指し示す先を振り返った尚次郎は、自分の着替えの世話をするべく控えている湯女二人の姿を見て、頬を赤らめて狼狽した。
 親友は湯褌で下半身を隠しただけで、意外にも隆々とした筋肉の肩に手拭いを引っ掛け、女たちを伴って洗い場に入っていく。
 当時の湯屋は入口こそ違えど男女混浴なのだが、さすがに客筋が武士階級しかいないこの湯は、女の客は皆無であるし、余りに身分の高い侍もいない。
 そう言った身分の者はそれなりのもてなしを受けられる料亭や宿に行くし、つまりこの湯屋に集う武士たちはそれなりの身分、それなりの収入の似た階層の者たちしかいない。
 だから若い信士郎が馴染みにもなれるのだ。

 信士郎に倣って着物を脱ぐと、やや年のいった女の手引きで柘榴口の低い天井をくぐって行った。
 中は板張りの壁に沿って蒸し風呂、冷水のかけ湯、打たせ湯などが並び、手前は板で目隠しされた対面の洗い場である。
 奥の大浴槽から拭きあがるもうもうたる白い湯気で周りははっきりと見えず、人と人がすれ違うのも鼻を突き合わせないとわからないほどであった。

「滑りますのでお気を付けくださいませ」

 年増の湯女の手慣れた声と導きで、尚次郎は洗い場に腰かけさせられ、やや熱い湯をかけられた。

「信士郎、いるか?」
「大丈夫、居るが湯の中だ。あまり声をかけてくれるな」

 女たちをからかうような軽い笑い声を交えながら、離れた間仕切りの向こうで友の声と湯の跳ねる音がした。
 気が付くと周りの武士たちも寛いで湯女たちに身を任せ、身体や髪を洗わせている。
 当時湯屋においては湯水を大量に使う女の洗髪は禁じられていたが、男の髷をほどいての髪洗いは普通にされていた。

「おぐしを解いて洗ってもよろしゅうございますか?」

 後ろに回った年増女が柔らかい口調で訪ねてきた。

「構わない」
「それでは失礼を」

 髷の根元と形を整えて折り返した中ほどの二か所を結ぶ元結がぶつっと切られ、鬢付け油のにおいと共に肩下まで届く長い髪が、尚次郎の広い肩先に垂れ落ちた。

「お若いから御綺麗なお髪でございますねえ」

 灰や小豆を砕いた粉で作った髪洗い粉を晒しの袋に入れて、揉み出した乳白色の液汁に、女は少しずつ髪をほぐしながら丁寧になじませた。
 粗い目の木の櫛で髪をすき、洗い粉の汁を何度も少しずつもかけまた櫛目を通して、地肌までもみ洗いしてくれる。
 俯いて洗い場の木の椅子にかけてされるがままになっている尚次郎の、薄く開けた目のすぐ先を、年増女のこぼれんばかりに豊かな胸が迫り、鼻先をかすめそうになっている。
 ぎょっとして頭を上げた尚次郎に、女は驚いて身をよじった。
 濡れた薄物の襦袢が体にぴったりとまとわりつき、豊かな尻と細い腰の見事な曲線を見せつけながら、女はゆったりとほほ笑んだ。

「びっくりするではありませんか。お侍様は本当にお若いのね。女の体は怖いものではありませんよ」

 いや、怖がってはいない。
 湯気の向こうで楽しげに戯れている信士郎の気配を感じながら、尚次郎はピンと胸を張った。
 ある種潔癖すぎる青年特有の嫌悪感を、余裕たっぷりに体に触ってくる女に感じた。
 だが、手ほどき役としては良いのかもしれない。
 本当にお若いから、初心い方でいらっしゃるから。
 そう低い暖かな声で囁きながら体を洗ってくれる女の手つきに、尚次郎は身を任せることにした。
 湯気が立ち込める湯屋の中は気持ちがいい。
 凝り固まった頭の中や胸の中が、年増女の手先の感触につれて揉み解されていく。
 そうだ。
 俺はふみに、てんで相手にされなかった童貞だ。
 だから、今の俺がふみを満足させることなどけしてできない。
 女の体が思いがけず近くにあっただけで無様にうろたえてしまった。
 信士郎、女に慣れた態のお前も、俺を見てさぞ歯がゆかったことだろう。
 身体を隅々まで洗ってもらうと一人で湯船につかり、大勢の侍たちと鼻を突き合わせながら身体を温めた。
 よほど気が動転していたのか、こんなにも千客万来だったのだという事も気づかなかった。
 湯からあがるとすかさず先程の湯女たちが体をふき、洗いたての湯帷子を着せてくれた。
 そして湯屋の二階に続く階段を上るよう促した。
 連れられて上るとそこは畳敷きに宅が置かれた休憩処になっており、たくさんの男たちが茶や酒のもてなしを受けていた。
 女たちは柔らかくしなを作り、湯上りの男たちの体をもみほぐしたり、反対に体を弄ばれたり、湿った隠微な開放感が満ち溢れている。
 尚次郎は奥に入るのをためらった。

「ここでいい。茶を飲んだら友だちと一緒に帰る」
「まあごゆるりとしていらっしゃいませ。お友達もあちらでお寛ぎでございます」

 自分も派手な浴衣に着替えた湯女の目線の先には、着せてもらった湯帷子の前をはだけ、女たちと戯れる信士郎の姿があった。
 ああ、こいつはこんなに楽しそうな顔をするのか。
 女が近くにいても俺はそんな顔はできそうにない。
 尚次郎は身体をもみほぐす湯女の手が、自身のきわどいところを行きつ戻りつしているのを感じながら、目を閉じた。
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