第16話 主は我が牧者・5
文字数 2,496文字
「お前は、誰だ?」
尚次郎は自分の声の冷たさに自分でも驚いた。女はもっと驚いたようだった。
「え?」
「お前はおひなではない。俺が愛した女ではないな」
「何をおっしゃるのか、意味がわからない……」
女の眼の光がみるみる陰ってきた。
「手を離して、俺から離れろ。狂信者の女が」
「尚次郎さま……」
肩に回された手を振りほどこうと尚次郎が身体をそらし、女が身を寄せようともつれ合った瞬間、激しく揺れた長い「ろざりお」が尚次郎の腕に絡みついた。
『こんなものが……』
かっとなった尚次郎は反射的に小刀に手を伸ばし、己の目の前の、女の首に刃を向けた。
ブツッと音と共に女のロザリオは断ち切られ、バラバラになった珠や十字架が地面に転がり、はずみ落ちた。
ひなは首を絞められた雄鶏のような叫び声を上げ、地面に体を投げ出して転がる珠を追おうとする。
その姿を尚次郎は冷めたい目で見降ろしていた。
なんというみっともない姿だ。
これが、自分の思い通りにならなかった男を前にする切支丹の女の姿か。
たかが十字架や珠に「永遠の命」とやらの鍵が宿っているわけでもあるまいに。 浅ましい。
尚次郎は自分の浮かれていた気持ちや熱や、女への優しさがすうっと消えてなくなっていくのを感じた。
帰ろう。もう二度とここへは来るまい。女は男どもの慰み者にされようが、もうどうでもよい。
腰を上げた目の前に、狂ったように女が探しているろざりおの十字架が落ちている。
あ、と女が手を伸ばすのとほぼ同時だった。
尚次郎の剣の先が十字架を刺し貫き、細い小枝を組み合わせて作ったそれは粉々に砕けて地面にめり込んだ。
ぎゃあああ、と狼の雄たけびのように声を上げて、女が地面に這いつくばった。
「では俺は帰る。邪魔したな」
狂おしく自分を見上げる女のさまよう視線を受け流し、先程から待たせていた薪割りの下男に声をかけて、尚次郎は歩き出した。
「お侍様、もういいんで?」
「ああ。もう用は済んだ。あとは好きにするがいい」
獣のように泣き叫び、吠え続ける女を後ろに残し、尚次郎は湯屋の門を出ようと歩を進めた。
と、土手の向こうからきちんとした身なりの若い女が走ってくる。
顔なじみの下女と下男を従えたそれは、西堀の若妻、ふみだった。
なぜここで彼女に……尚次郎は固まった。
「尚次郎様、おひなはどこですか?」
「なぜそれを?」
「兄に聞きました。あなたが彼女にご執心だと。でも……」
「おふみも切支丹なのか?」
「そうです。主人と共に」
なぜ、なぜこうなってしまうのだ。
獣の雄たけびのような女の鳴き声はひっきりなしに続いている。
「うるさい!」
薪割りの下男が女を殴りつけ、乱暴をしているに違いない。悲鳴が風に乗ってくる。
「女はすぐそこだ。下男と一緒にいる。もう俺はここには来ない」
「でもおひなはあなたを」
「あれは俺を好いているわけではない。切支丹の仲間に引きずり込もうとしただけだ。まっぴらごめんだ」
ふみの怒りの目を見ないよう顔を背け、尚次郎は湯屋の門を出て土手をずんずんと歩いて行った。
背後で、ふみが気丈にも下男を嗜める声が響いていたが、聴くまいとした。
最上川の流れも冬の流れになってきた。もう山の上では雪が降っているに違いない。
もう来ることもないだろう。
尚次郎は背を丸めて晩秋の土手を歩き続けた。
女の水死体が最上川に上がったのはそれから一月ばかりたった後だった。
痩せこけた骨と皮ばかりの裸の女は、みすぼらしい着物も帯ばかり残して川の流れにさらわれ、長い髪が岸辺の木の枝に絡みついて引っかかっていたのだ。
身元はすぐに割れた。
湯屋の女、ひなだった。
町内の商家の手代に心中を迫られ、2人で草の根からとった毒を飲み最上川の身を投げたという。
男だけが死にきれず、互いの体を結びあったひもをほどいて生き残り、より多くの毒を飲んだ女、ひなだけが死んだのだ。
死んだ原因が飲んだ毒なのか水に溺れた故か不明だったが、事の顛末は城下の札ノ辻に高札として掲げられ、生き残った手代の男は晒し者にされ、下人の身分に落とされた。
武士に捨てられた卑しい女が、新しい男を道連れに心中を図ったのだ。
口さがない城下の民はそう囁いた。
女のために真に泣いたのは、切支丹仲間の中でも若いふみだった。
切支丹は自分で死ぬのは固く禁じられている。
イエスが復活し天に上って君臨するときに死人を復活させてくれるが、自殺したものは復活させてもらえず地獄に落ちる。
そう信じられていたから、ひなの死は禁忌を犯した大罪とみなされた。
だが、ふみは激しく怒り悲しんだ。
たとえ心中の片割れになってしまい、命を落としたとしてもひなの罪は私たちみんなと同じ、同等の罪しかないはず。
だから聖母様やぜず様はおひなを復活させて、きっと天に引っ張り上げてくれる。
と同時に、彼女のために尚次郎を激しく恨んだ。
ひなは夫西堀を説き伏せたふみの尽力で、切支丹のやりかたで葬儀を執り行われた。
身寄りのない身体は無縁仏として寺が引き取り埋葬した。
仏教の寺院、神道の神社、そしてキリスト教の『組』と呼ばれる信仰共同体。
その三つが無理なく共存してお互いを認め合っている様子は、イエズス会のポーロ神父によって手紙にしたためられ、アジア経由でバチカンに送られた。
時のローマ法王パウロ五世の親書が奥州の地に送られ、米沢の信徒たちを大いに励ました、その返事としての手紙である。
激動の歴史を潜り抜け、欧州の信徒たちの様子をつづったポーロ神父の手紙は、今もバチカンの資料館に保存されている。
もうこの地には居たくない。
そう心に決めた彼は上役に移動を申し出た。
1622年、新野尚次郎は主君上杉定勝の供まわりとして江戸に上った。
奇しくも主君定勝も、次の年、将軍職を父秀忠から引き継ぐことになる家光も、十九歳という同じ年齢であった。
尚次郎は自分の声の冷たさに自分でも驚いた。女はもっと驚いたようだった。
「え?」
「お前はおひなではない。俺が愛した女ではないな」
「何をおっしゃるのか、意味がわからない……」
女の眼の光がみるみる陰ってきた。
「手を離して、俺から離れろ。狂信者の女が」
「尚次郎さま……」
肩に回された手を振りほどこうと尚次郎が身体をそらし、女が身を寄せようともつれ合った瞬間、激しく揺れた長い「ろざりお」が尚次郎の腕に絡みついた。
『こんなものが……』
かっとなった尚次郎は反射的に小刀に手を伸ばし、己の目の前の、女の首に刃を向けた。
ブツッと音と共に女のロザリオは断ち切られ、バラバラになった珠や十字架が地面に転がり、はずみ落ちた。
ひなは首を絞められた雄鶏のような叫び声を上げ、地面に体を投げ出して転がる珠を追おうとする。
その姿を尚次郎は冷めたい目で見降ろしていた。
なんというみっともない姿だ。
これが、自分の思い通りにならなかった男を前にする切支丹の女の姿か。
たかが十字架や珠に「永遠の命」とやらの鍵が宿っているわけでもあるまいに。 浅ましい。
尚次郎は自分の浮かれていた気持ちや熱や、女への優しさがすうっと消えてなくなっていくのを感じた。
帰ろう。もう二度とここへは来るまい。女は男どもの慰み者にされようが、もうどうでもよい。
腰を上げた目の前に、狂ったように女が探しているろざりおの十字架が落ちている。
あ、と女が手を伸ばすのとほぼ同時だった。
尚次郎の剣の先が十字架を刺し貫き、細い小枝を組み合わせて作ったそれは粉々に砕けて地面にめり込んだ。
ぎゃあああ、と狼の雄たけびのように声を上げて、女が地面に這いつくばった。
「では俺は帰る。邪魔したな」
狂おしく自分を見上げる女のさまよう視線を受け流し、先程から待たせていた薪割りの下男に声をかけて、尚次郎は歩き出した。
「お侍様、もういいんで?」
「ああ。もう用は済んだ。あとは好きにするがいい」
獣のように泣き叫び、吠え続ける女を後ろに残し、尚次郎は湯屋の門を出ようと歩を進めた。
と、土手の向こうからきちんとした身なりの若い女が走ってくる。
顔なじみの下女と下男を従えたそれは、西堀の若妻、ふみだった。
なぜここで彼女に……尚次郎は固まった。
「尚次郎様、おひなはどこですか?」
「なぜそれを?」
「兄に聞きました。あなたが彼女にご執心だと。でも……」
「おふみも切支丹なのか?」
「そうです。主人と共に」
なぜ、なぜこうなってしまうのだ。
獣の雄たけびのような女の鳴き声はひっきりなしに続いている。
「うるさい!」
薪割りの下男が女を殴りつけ、乱暴をしているに違いない。悲鳴が風に乗ってくる。
「女はすぐそこだ。下男と一緒にいる。もう俺はここには来ない」
「でもおひなはあなたを」
「あれは俺を好いているわけではない。切支丹の仲間に引きずり込もうとしただけだ。まっぴらごめんだ」
ふみの怒りの目を見ないよう顔を背け、尚次郎は湯屋の門を出て土手をずんずんと歩いて行った。
背後で、ふみが気丈にも下男を嗜める声が響いていたが、聴くまいとした。
最上川の流れも冬の流れになってきた。もう山の上では雪が降っているに違いない。
もう来ることもないだろう。
尚次郎は背を丸めて晩秋の土手を歩き続けた。
女の水死体が最上川に上がったのはそれから一月ばかりたった後だった。
痩せこけた骨と皮ばかりの裸の女は、みすぼらしい着物も帯ばかり残して川の流れにさらわれ、長い髪が岸辺の木の枝に絡みついて引っかかっていたのだ。
身元はすぐに割れた。
湯屋の女、ひなだった。
町内の商家の手代に心中を迫られ、2人で草の根からとった毒を飲み最上川の身を投げたという。
男だけが死にきれず、互いの体を結びあったひもをほどいて生き残り、より多くの毒を飲んだ女、ひなだけが死んだのだ。
死んだ原因が飲んだ毒なのか水に溺れた故か不明だったが、事の顛末は城下の札ノ辻に高札として掲げられ、生き残った手代の男は晒し者にされ、下人の身分に落とされた。
武士に捨てられた卑しい女が、新しい男を道連れに心中を図ったのだ。
口さがない城下の民はそう囁いた。
女のために真に泣いたのは、切支丹仲間の中でも若いふみだった。
切支丹は自分で死ぬのは固く禁じられている。
イエスが復活し天に上って君臨するときに死人を復活させてくれるが、自殺したものは復活させてもらえず地獄に落ちる。
そう信じられていたから、ひなの死は禁忌を犯した大罪とみなされた。
だが、ふみは激しく怒り悲しんだ。
たとえ心中の片割れになってしまい、命を落としたとしてもひなの罪は私たちみんなと同じ、同等の罪しかないはず。
だから聖母様やぜず様はおひなを復活させて、きっと天に引っ張り上げてくれる。
と同時に、彼女のために尚次郎を激しく恨んだ。
ひなは夫西堀を説き伏せたふみの尽力で、切支丹のやりかたで葬儀を執り行われた。
身寄りのない身体は無縁仏として寺が引き取り埋葬した。
仏教の寺院、神道の神社、そしてキリスト教の『組』と呼ばれる信仰共同体。
その三つが無理なく共存してお互いを認め合っている様子は、イエズス会のポーロ神父によって手紙にしたためられ、アジア経由でバチカンに送られた。
時のローマ法王パウロ五世の親書が奥州の地に送られ、米沢の信徒たちを大いに励ました、その返事としての手紙である。
激動の歴史を潜り抜け、欧州の信徒たちの様子をつづったポーロ神父の手紙は、今もバチカンの資料館に保存されている。
もうこの地には居たくない。
そう心に決めた彼は上役に移動を申し出た。
1622年、新野尚次郎は主君上杉定勝の供まわりとして江戸に上った。
奇しくも主君定勝も、次の年、将軍職を父秀忠から引き継ぐことになる家光も、十九歳という同じ年齢であった。