第10話 荒野にて叫ぶ者在り・5
文字数 3,543文字
1620年、十六歳で本元服を経た新野尚次郎純直は、足軽の子としては異例の抜擢でお城に出仕することとなった。
既に小姓として城主のそば近く仕えていた西堀式部政偵が、若いが優秀で忠義に篤い人材であると、甘糟右衛門を通じて御家来衆に推薦をしたのだ。
治水工事で功があった新野家の子、という事で意見は聞き入れられ、尚次郎は「物書き足軽」として今でいう下級の役所の書記、そのまた見習いの職に就くことができた。
ふみが慕う西堀推薦、という事で内心心穏やかではいられなかった尚次郎だが、父を始め新野家の者たちは非常に喜んだ。
早速礼を言いに行かねばならぬ、とせかされ、尚次郎は父親についてお礼の品を携えて西堀家に向かった。
松川信士郎、ふみの家も尚次郎の家に比べればはるかに広く大きかったが、西堀家の屋敷は比べ物にならないほどに立派だった。
友人として道場の帰りに信士郎と連れだって来る時はさほど気構えなく通る屋敷が、いざ父親と連れの者と改めて来ると、結構な圧迫感を与えてくる。
「尚次郎、しゃんとせいよ。お前はいつもふにゃふにゃとしていかん」
「はい、父上」
襟元をきちんとただし背筋を伸ばし、気合を入れようと一息ついた尚次郎の目に、西堀家の大門脇の小門からすたすたと出てくる若い娘の姿が映った。
下女を二人従えて、若いすらりとした後姿と長い黒髪は、松川の妹ふみだ。
なぜふみが西堀の家に?
何かの届け物や使いであれば使用人を遣わすだけでいいはずなのに、なぜふみが。
しかも、とても楽しげに、下女たちと言葉を交わしながら帰って行く。
とても単なる「家の用事」だとは思えない。ひときわ美しく笑顔が輝いている。
それはつまり……。
「尚次郎 ! 」
「はい」
そこから先の、西堀家への訪問の記憶は、尚次郎にはおぼろである。
父の後について挨拶をし、城内で職を得たことについての口添えにひたすら感謝し、お礼の品として猟師が仕留めた肉付きの良い野ウサギを数羽。
本来ならば反物や金品を包むべきところだが貧乏な新野家にはそれが精いっぱいのお礼の品だった。
西堀式部は若々しい顔を赤らめて、父親の後ろに控えていた。
自分に力があればもっといいところへの口利きができたのだが。
そう偉ぶらずに声をかけてくる西堀の若君を、尚次郎は鬱屈した思いで見上げた。
「父上、お話ししたいことがございます。よろしいでしょうか」
城内に書記として出仕するようになってしばらく後、尚次郎の生活もだいぶ落ち着いてきた。
周りは自分より身分が高く年も上の侍ばかり。
緊張状態にあり一時期はげっそりと痩せてしまった尚次郎だったが、ようやく周りの環境にもなじんだのか、夕餉後のくつろいでいる父に改めて話しかけた。
「なんだ。申してみろ」
父も夭折した兄に追いつこうと歯を食いしばる次男坊を、慈しみの目で見つめた。
「私はかねてより妻に迎えたい女人がおります」
ぶっと茶を吹き出しそうになった父は、心なしか慌てて息子の顔を見た。
まだ髭もろくに生えないすべすべしたきれいな顔は、子供の頃の面影のまま少女のようにあどけなく、澄んだ大きな瞳はまっすぐに父を見つめている。
「かねてより、とは?」
「幼い頃よりです。そうですね、兄上が亡くなられて間もなくの頃から……」
「尚次郎、それはかなり難しい事だぞ」
「まだ誰かも申し上げておりませんよ、父上」
「大体予想はつく。松川家の息女であろう」
「……なぜわかるのですか」
「なぜ気づかないと思うのか、その方が不思議だ」
父親はため息をついた。
その表情や仕草が、ふみへの恋心を語った時の彼女の兄信士郎にそっくりで、尚次郎はチリ、と胸にいらつきを覚えた。
「ふみは健康で強くて、素晴らしい女性です。私はずっと好きでした」
「それはわかっておる。しかし家同士の格というものがあるのだ、尚次郎」
「それは私も承知しております。精進して励み、出世できるよう頑張ります。ふみの兄の信士郎は古くからの友人ですし」
「それとこれとは話が違う。城主や大名ならともかく我らは足軽ぞ。土木の功で屋敷を与えられ石高も増やしていただいてはおるが、家柄はどうにもならんのだ」
「でも」
「向こうが望んで、お前を松川の婿にというのならまだわかる。だが、わざわざ格下の家に娘を嫁に出す家など、聞いたことがない」
父の言葉は静かで表情は憐みを湛えていたが、まだ少年で世間知らずの尚次郎には厳しいものであった。
「まあお前の望みは父が聞いた。尚次郎。あとは父が伯父上達と相談していこう。焦るな」
「はい。お願いいたします、父上。あの……」
「なんだ?」
「尚次郎はこれから如何したらよろしいのでしょうか」
「何もするな。普段通りに仕事と勉学、武道に勤しめ」
「はい……」
それだけですか? おふみにも会いたいのですが。
「余計なことはするな。縁組というものは家と家との大きな事だ。子童がちょろちょろ勝手に動いては、進むことも進まなくなる。我慢しろ」
「承知いたしました」
進むことも、と父は仰った。進めてくれるのだ。この話を。
尚次郎は神妙に控えていようと思ったが、抑えようとしても抑えきれない嬉しさが顔にのぼり、無邪気な笑みを満面に浮かべてしまうのだ。
子供が思いがけず褒められた時か、土産をもらった時のような天真爛漫な笑顔を眺めて、父はまたため息をついた。
「尚次郎、松川の娘御の事だがな」
「はい。父上」
「あきらめろ」
道場での剣の稽古から戻ったばかりの尚次郎を、父はいきなり呼びつけ吐き捨てた。
「父上それは」
「松川の娘はもう縁談が決まった。まもなく善き日を選んで祝言を上げるとのことだ」
父はわざと厳しく息子に言い放った。
それとなく人を介して松川の家に打診してみたのだが、それがいけなかったのか、新野の次男坊が松川の娘を狙っていると噂が立っていたのか。
既に縁談が相手の家との間で整ったとの話が帰って来たのだ。
「それに松川殿と新野殿では、ちと違い過ぎるではないか」
父は間に入った直江の旧臣からそう嫌味まで言われた。
それもこれも父にとっては予想していたことだ。
「その……相手とは、もうわかっているのですか?」
「お前もよく知っていよう。世話になった西堀様の嫡男、式部殿だ」
西堀様が……。
やっぱり、という気持ちとなぜ、という気持ちが猛烈に尚次郎を突き動かした。
「尚次郎、待て! 話を聞け ! 」
父が止める隙もあらばこそ、尚次郎は剣を手挟み、嵐のように屋敷から走り出た。
数年前、半元服の後、ふみに嫁になってくれと無邪気に頼んだことがあった。
その時も頑として断られた。
理由は、西堀様を好いているから。
その時は自分も大きくなってお城に上って、一人前になって改めて西堀様に追いつこうと思った。
とてつもなく大きな、届かない相手かもしれないが、ふみに振り向いてもらえるようにと。
だがそれも無駄だった。
ふみは初めての恋心のままに、西堀式部政偵に嫁いでいくのだ。
結局俺は一度として振り向かせることはできなかった。
下僕か弟か、便利な幼馴染として遊びたいときに一緒に遊ぶ相手という地位から、一歩も進むことができなかったのだ。
「尚次郎、どこへ行く ! 」
道の向こうから松川の兄、信士郎が青ざめた顔でやってきた。
「俺の家に押しかけるつもりではないだろうな」
尚次郎はじろりと親友を見た。
その目つきは手負いの狼のように青く光り、信士郎が見たこともない殺気を放っていた。
「それだけは俺が止める」
動揺した信士郎の表情から見るに、彼にとっても妹の縁談は寝耳に水だったに違いない。
だが親友尚次郎の恋心は知っている。落ち着かせようと急ぎ駆け付けたのだ。
「なあ尚次郎。落ち着け」
「お前は、おふみの縁談を知っていたのではあるまいな」
「俺は知らされていなかった。知っていたら真っ先にお前をあきらめさせようと話をしに来る ! 」
「そうか……やっぱりどのみち、俺にはあきらめる以外の駒は残されていないのか……」
尚次郎はふらふらと街道を横にそれて歩き出した。
「どこへ行くのだ」
「安心しろ信士郎。お前の家にも西堀様の屋敷にも行かん」
「……俺も一緒行く」
「来るな。今お前たちの顔は見たくない。見たら何をするか俺にもわからない」
尚次郎は狂ったように親友の顔を一瞥し、獲物を見つけた野犬のごとく走り去っていった。
既に小姓として城主のそば近く仕えていた西堀式部政偵が、若いが優秀で忠義に篤い人材であると、甘糟右衛門を通じて御家来衆に推薦をしたのだ。
治水工事で功があった新野家の子、という事で意見は聞き入れられ、尚次郎は「物書き足軽」として今でいう下級の役所の書記、そのまた見習いの職に就くことができた。
ふみが慕う西堀推薦、という事で内心心穏やかではいられなかった尚次郎だが、父を始め新野家の者たちは非常に喜んだ。
早速礼を言いに行かねばならぬ、とせかされ、尚次郎は父親についてお礼の品を携えて西堀家に向かった。
松川信士郎、ふみの家も尚次郎の家に比べればはるかに広く大きかったが、西堀家の屋敷は比べ物にならないほどに立派だった。
友人として道場の帰りに信士郎と連れだって来る時はさほど気構えなく通る屋敷が、いざ父親と連れの者と改めて来ると、結構な圧迫感を与えてくる。
「尚次郎、しゃんとせいよ。お前はいつもふにゃふにゃとしていかん」
「はい、父上」
襟元をきちんとただし背筋を伸ばし、気合を入れようと一息ついた尚次郎の目に、西堀家の大門脇の小門からすたすたと出てくる若い娘の姿が映った。
下女を二人従えて、若いすらりとした後姿と長い黒髪は、松川の妹ふみだ。
なぜふみが西堀の家に?
何かの届け物や使いであれば使用人を遣わすだけでいいはずなのに、なぜふみが。
しかも、とても楽しげに、下女たちと言葉を交わしながら帰って行く。
とても単なる「家の用事」だとは思えない。ひときわ美しく笑顔が輝いている。
それはつまり……。
「尚次郎 ! 」
「はい」
そこから先の、西堀家への訪問の記憶は、尚次郎にはおぼろである。
父の後について挨拶をし、城内で職を得たことについての口添えにひたすら感謝し、お礼の品として猟師が仕留めた肉付きの良い野ウサギを数羽。
本来ならば反物や金品を包むべきところだが貧乏な新野家にはそれが精いっぱいのお礼の品だった。
西堀式部は若々しい顔を赤らめて、父親の後ろに控えていた。
自分に力があればもっといいところへの口利きができたのだが。
そう偉ぶらずに声をかけてくる西堀の若君を、尚次郎は鬱屈した思いで見上げた。
「父上、お話ししたいことがございます。よろしいでしょうか」
城内に書記として出仕するようになってしばらく後、尚次郎の生活もだいぶ落ち着いてきた。
周りは自分より身分が高く年も上の侍ばかり。
緊張状態にあり一時期はげっそりと痩せてしまった尚次郎だったが、ようやく周りの環境にもなじんだのか、夕餉後のくつろいでいる父に改めて話しかけた。
「なんだ。申してみろ」
父も夭折した兄に追いつこうと歯を食いしばる次男坊を、慈しみの目で見つめた。
「私はかねてより妻に迎えたい女人がおります」
ぶっと茶を吹き出しそうになった父は、心なしか慌てて息子の顔を見た。
まだ髭もろくに生えないすべすべしたきれいな顔は、子供の頃の面影のまま少女のようにあどけなく、澄んだ大きな瞳はまっすぐに父を見つめている。
「かねてより、とは?」
「幼い頃よりです。そうですね、兄上が亡くなられて間もなくの頃から……」
「尚次郎、それはかなり難しい事だぞ」
「まだ誰かも申し上げておりませんよ、父上」
「大体予想はつく。松川家の息女であろう」
「……なぜわかるのですか」
「なぜ気づかないと思うのか、その方が不思議だ」
父親はため息をついた。
その表情や仕草が、ふみへの恋心を語った時の彼女の兄信士郎にそっくりで、尚次郎はチリ、と胸にいらつきを覚えた。
「ふみは健康で強くて、素晴らしい女性です。私はずっと好きでした」
「それはわかっておる。しかし家同士の格というものがあるのだ、尚次郎」
「それは私も承知しております。精進して励み、出世できるよう頑張ります。ふみの兄の信士郎は古くからの友人ですし」
「それとこれとは話が違う。城主や大名ならともかく我らは足軽ぞ。土木の功で屋敷を与えられ石高も増やしていただいてはおるが、家柄はどうにもならんのだ」
「でも」
「向こうが望んで、お前を松川の婿にというのならまだわかる。だが、わざわざ格下の家に娘を嫁に出す家など、聞いたことがない」
父の言葉は静かで表情は憐みを湛えていたが、まだ少年で世間知らずの尚次郎には厳しいものであった。
「まあお前の望みは父が聞いた。尚次郎。あとは父が伯父上達と相談していこう。焦るな」
「はい。お願いいたします、父上。あの……」
「なんだ?」
「尚次郎はこれから如何したらよろしいのでしょうか」
「何もするな。普段通りに仕事と勉学、武道に勤しめ」
「はい……」
それだけですか? おふみにも会いたいのですが。
「余計なことはするな。縁組というものは家と家との大きな事だ。子童がちょろちょろ勝手に動いては、進むことも進まなくなる。我慢しろ」
「承知いたしました」
進むことも、と父は仰った。進めてくれるのだ。この話を。
尚次郎は神妙に控えていようと思ったが、抑えようとしても抑えきれない嬉しさが顔にのぼり、無邪気な笑みを満面に浮かべてしまうのだ。
子供が思いがけず褒められた時か、土産をもらった時のような天真爛漫な笑顔を眺めて、父はまたため息をついた。
「尚次郎、松川の娘御の事だがな」
「はい。父上」
「あきらめろ」
道場での剣の稽古から戻ったばかりの尚次郎を、父はいきなり呼びつけ吐き捨てた。
「父上それは」
「松川の娘はもう縁談が決まった。まもなく善き日を選んで祝言を上げるとのことだ」
父はわざと厳しく息子に言い放った。
それとなく人を介して松川の家に打診してみたのだが、それがいけなかったのか、新野の次男坊が松川の娘を狙っていると噂が立っていたのか。
既に縁談が相手の家との間で整ったとの話が帰って来たのだ。
「それに松川殿と新野殿では、ちと違い過ぎるではないか」
父は間に入った直江の旧臣からそう嫌味まで言われた。
それもこれも父にとっては予想していたことだ。
「その……相手とは、もうわかっているのですか?」
「お前もよく知っていよう。世話になった西堀様の嫡男、式部殿だ」
西堀様が……。
やっぱり、という気持ちとなぜ、という気持ちが猛烈に尚次郎を突き動かした。
「尚次郎、待て! 話を聞け ! 」
父が止める隙もあらばこそ、尚次郎は剣を手挟み、嵐のように屋敷から走り出た。
数年前、半元服の後、ふみに嫁になってくれと無邪気に頼んだことがあった。
その時も頑として断られた。
理由は、西堀様を好いているから。
その時は自分も大きくなってお城に上って、一人前になって改めて西堀様に追いつこうと思った。
とてつもなく大きな、届かない相手かもしれないが、ふみに振り向いてもらえるようにと。
だがそれも無駄だった。
ふみは初めての恋心のままに、西堀式部政偵に嫁いでいくのだ。
結局俺は一度として振り向かせることはできなかった。
下僕か弟か、便利な幼馴染として遊びたいときに一緒に遊ぶ相手という地位から、一歩も進むことができなかったのだ。
「尚次郎、どこへ行く ! 」
道の向こうから松川の兄、信士郎が青ざめた顔でやってきた。
「俺の家に押しかけるつもりではないだろうな」
尚次郎はじろりと親友を見た。
その目つきは手負いの狼のように青く光り、信士郎が見たこともない殺気を放っていた。
「それだけは俺が止める」
動揺した信士郎の表情から見るに、彼にとっても妹の縁談は寝耳に水だったに違いない。
だが親友尚次郎の恋心は知っている。落ち着かせようと急ぎ駆け付けたのだ。
「なあ尚次郎。落ち着け」
「お前は、おふみの縁談を知っていたのではあるまいな」
「俺は知らされていなかった。知っていたら真っ先にお前をあきらめさせようと話をしに来る ! 」
「そうか……やっぱりどのみち、俺にはあきらめる以外の駒は残されていないのか……」
尚次郎はふらふらと街道を横にそれて歩き出した。
「どこへ行くのだ」
「安心しろ信士郎。お前の家にも西堀様の屋敷にも行かん」
「……俺も一緒行く」
「来るな。今お前たちの顔は見たくない。見たら何をするか俺にもわからない」
尚次郎は狂ったように親友の顔を一瞥し、獲物を見つけた野犬のごとく走り去っていった。