第43話 一粒の麦・3
文字数 3,539文字
急に静かになった小屋の中に、吹雪の音に乗って遠くから人の声が聞こえてきた。
それは新野家と松川家の、二人を探す使用人たちだ。
微かな足跡が雪で埋もれてしまう前に探し当てようと、必死で雪原を進んでいる。
二人の名前を呼び叫ぶ声が、シンと静まった雪に吸い込まれそうになりながら、切れ切れに聞こえる。
「私達を探しに来た者たちだ。さ、行きましょう」
尚次郎は凍傷になりそうなふみの手足を強くこすると、肩にひょいと抱え上げて掘立小屋の扉を開けた。
途端にびゅううっと風と雪がうなりを上げて二人に吹き付け、着物や髪を巻き上げた。
氷の粒が混じった吹雪は、一晩居たら小屋の中とは言え間違いなく凍え死ぬ冷たさだ。
尚次郎は声を限りに叫んだ。
ここだ。ここにいる。
声をかき消さんばかりの強い風の音だったが、捜索の人々の耳には届いたようだ。
まもなく手に手に松明を持った使用人達が、腰まで埋まる雪をかき分けながら集まってきた。
屋敷に帰ったふみは、女中たちの手で湯をつかわされると、そのまま床についた。
熱はないが身体が冷え切って、いくら火を焚いて部屋を暖めてもがくがく震え、しきりと気持悪いと訴えた。
凍えすぎたせいでタチの悪い風邪をひいてしまったのか。
尚次郎は熱一つ出さない自分の頑健さを、妻に分けてあげたいと願った。
体を温めるという生姜や雪の中に保存していたネギ、味噌を熱い湯に溶いて飲ませたり、火箱にかけた鉄鍋に湯を沸かし寝室に蒸気を立ち込め、布団の中には湯たんぽを置いた。
何重にも綿入れの布団をかけ、女中がつきっきりで手足をさすったおかげで、ふみの手足は凍傷にもならず、体温も少しずつ回復してきた。
だが眩暈と悪心はちっともよくならず、床に臥せったきりだ。
尚次郎は医者を呼び妻を看てもらった。
丁寧にふみの体を調べ部屋を出てきた医者に、尚次郎は尋ねた。
「先生、ふみの具合はどうでしょう。重い病が何かでしょうか」
「ご懐妊です」
「は?」
「奥様のお腹の中には、ややこが居られます。お大事になさってください」
医者は尚次郎と付き従っていたはな、女中頭や下男頭に細々注意を与えた。
けして体を冷やさないように。暖かい粥や滋養のある柔らかいものを少しずつ与えるように。
また、ふさぎ込ませないように、話し相手になってあげなさい。
「旦那様、しっかりなさいませ。お医者様はお帰りになりますって」
はなに腰をどつかれるまで、尚次郎は放心して突っ立っていた。
ふみの懐妊は直ちに松川家に知らされた。
娘の出奔を聴いて謝罪に来たばかりの、舅の七十郎と義兄の信士郎が、またまた急いでやってきた。
懐妊の時期から見て、どうあっても西堀式部の子である。
しかも尚次郎とふみはまだ共寝をしていないというありさまだから、これは式部の子としか考えられない。
松川家の二人は畳に着きそうなほど頭を下げ、尚次郎に謝罪した。
二人とも知らなかったのだ、ふみが子を宿しているなどとは。
西堀との間には嫁いで何年も子が出来ず、ようやく懐妊したとたんに流産した。
だから多分二人目はないだろうと、根拠なく思っていたのだ。
だが結果的に尚次郎をだまし、母子共々押し付ける形になってしまった。
しかも腹の子の父は斬首刑にあった罪人だ。
本当にすまない。
頭を下げる二人に尚次郎は恐縮した。
二人とも下っ端同心の自分などより、ずっと身分が高いのだ。
「そんな、頭をお上げください。私はちっとも怒ってなどいません。むしろ喜んでいます」
そういう尚次郎は、困惑はしていたが心から嬉しそうだった。
「西堀様のお子ならきっと、賢く美しい子が生まれる事でしょう。あの偉丈夫の忘れ形見です。喜んで育てさせていただきます」
松川家の二人が安堵して帰って行った後、尚次郎は足音を忍ばせて妻の寝室に向かった。
召使女が部屋の外で火箱の火を掻き立てていた。
尚次郎に気付きふみにしらせようとしたが、必要ないからと制した。
妻の様子を見に来ただけで、そっと寝かせておきたかったのだ。
寝室の障子を開けると、妻は目を覚ましていて、はなと他愛もない話をしては小声で笑っていた。
「旦那様」
尚次郎に気付いたはなが席をはずし、部屋の外へ出ると、尚次郎は間の悪さを覚えた。
「すまない。はなと楽しい話をしていたところを」
「いえ、はなの江戸の話を聞いていました。とても大きな町で、旅籠や商家が沢山あるんだって」
小さい頃しか江戸にはいなかったのに、覚えている限り色々と教えてくれるんですよ。
そう答えるふみは、穏やかな顔で横になっていた。
彼女の険しくない、静かな微笑を見るのはどれほど久しぶりだろう。
「あの子はあの子なりに、私や貴女を護ろうと一生懸命なんですよ」
ここに座っていいかと目で訊いた夫に、妻はこくりとうなずいた。
「そして私も、貴女とお腹の子供を守ります。頼りないとお思いでしょうが」
こういうことを言うのは不得手なので……。
言った後でもじもじと困ったような表情浮かべて、照れ笑いする夫に、ふみはくすりと笑った。
「今笑いましたね。西堀様のお子が、あなたを笑わせてくれたのかな」
「そうかも。あのう……」
「はい?」
「遠いですよ。貴方のいらっしゃる位置が」
尚次郎は出て行けと言われたらいつでも出て行けるように、寝室の障子のすぐそばに正座していた。
「あ、傍に寄ってもよろしいのですか?」
「いいですよ」
奇妙な敬語を自分に使い続ける夫に、ふみはまたクスッと笑った。
尚次郎は妻の布団の傍ににじり寄った。
畳に着いた夫の右手に、自分が炭で負わせた火傷のケロイドが残っている。左手には若いころ密猟者に弓で射られた傷。
「手を下さい」
ふみは布団の中から手を伸ばした。
掛け布団の隙間から、すっかり痩せて骨の目立つ襟元が覗けて見えた。
「はいはい」
尚次郎は深く考えず火傷をした右手を差し出した。もうちっとも痛まないので傷の事は忘れているのだ。
ついでに左手でふみの布団を引きずり上げて、襟元に隙のないよう掛けてやり、小さな子にするようにポンポンと叩いた。
ふみの小さな手がそっと尚次郎の手を握る。
「あったかい手ですね」
ふみの手はつららのように冷たかった。
「私の心が冷たいからですよ」
「またそういう事を言う」
「何か召し上がりますか?温かいものでも」
「はい。気分がいいうちに」
ふみは手を握ったまま、幼子のような目で夫を見上げた。
夫は少年の頃のままの、居心地の悪そうな困ったような曖昧な顔をして、妻の眼線を避けている。
「ごめんなさい」
「え?」
「私は貴方をずっと、傷つけていたのだなあと」
「そんなことありませんよ、私だって多くの人を踏みつけて蔑ろにして、今この場にいるんです」
少なくとも私は、貴女に傷つけられたなんて、感じていません。
尚次郎はそう言って、はなに食べ物を持ってこさせるようにと伝えた。
「食事が来たら起こしてあげますから、少しでも寝ていなさい」
「尚次郎殿、私のお母様みたい」
「そうですか?」
ふみは目を閉じた。
自分が多くの人から守られて、手を引かれて、危ないところでは背負ってもらって歩いているのがはっきり見えた。
右手を夫、西堀式部政偵、左手を父のように慕った信仰の親、甘糟右衛門。そしてその周りを、刑場でこの世から旅だっていった多くの仲間たち。
前を行く人の姿は光に包まれている。
眩しくてよく見えないが光は大層暖かく、ついていくのに何も迷いがない、自分達を照らしてくれる光だ。
そして、皆に手を引かれ囲まれて歩く自分の後ろに、背中を見守るように夫・新野尚次郎。
自分が転ばないように足元を注意し、身体を支えて、決して前に出ることなく守ってくれている。
「そうですよ。これから私が母になるのに、この子には二人も母がいることになります」
「じゃあ私は、貴女達母子の衛兵になりましょう。それなら少しは格好がつく」
「いえ」
ふみは夫の手を握り返した。
「この子の、父親になってください。そして私の夫になってください」
「おはな、旦那様にお知らせして。温かい打ち豆汁をお持ちしましたって」
女中が寝室の外に控えているおはなに声をかけた。
両手に汁物と少量の御粥の載った膳を持っている。
シーッ
はなは女中に合図をした。
今旦那様と奥様がお寛ぎなんですからっ
それは新野家と松川家の、二人を探す使用人たちだ。
微かな足跡が雪で埋もれてしまう前に探し当てようと、必死で雪原を進んでいる。
二人の名前を呼び叫ぶ声が、シンと静まった雪に吸い込まれそうになりながら、切れ切れに聞こえる。
「私達を探しに来た者たちだ。さ、行きましょう」
尚次郎は凍傷になりそうなふみの手足を強くこすると、肩にひょいと抱え上げて掘立小屋の扉を開けた。
途端にびゅううっと風と雪がうなりを上げて二人に吹き付け、着物や髪を巻き上げた。
氷の粒が混じった吹雪は、一晩居たら小屋の中とは言え間違いなく凍え死ぬ冷たさだ。
尚次郎は声を限りに叫んだ。
ここだ。ここにいる。
声をかき消さんばかりの強い風の音だったが、捜索の人々の耳には届いたようだ。
まもなく手に手に松明を持った使用人達が、腰まで埋まる雪をかき分けながら集まってきた。
屋敷に帰ったふみは、女中たちの手で湯をつかわされると、そのまま床についた。
熱はないが身体が冷え切って、いくら火を焚いて部屋を暖めてもがくがく震え、しきりと気持悪いと訴えた。
凍えすぎたせいでタチの悪い風邪をひいてしまったのか。
尚次郎は熱一つ出さない自分の頑健さを、妻に分けてあげたいと願った。
体を温めるという生姜や雪の中に保存していたネギ、味噌を熱い湯に溶いて飲ませたり、火箱にかけた鉄鍋に湯を沸かし寝室に蒸気を立ち込め、布団の中には湯たんぽを置いた。
何重にも綿入れの布団をかけ、女中がつきっきりで手足をさすったおかげで、ふみの手足は凍傷にもならず、体温も少しずつ回復してきた。
だが眩暈と悪心はちっともよくならず、床に臥せったきりだ。
尚次郎は医者を呼び妻を看てもらった。
丁寧にふみの体を調べ部屋を出てきた医者に、尚次郎は尋ねた。
「先生、ふみの具合はどうでしょう。重い病が何かでしょうか」
「ご懐妊です」
「は?」
「奥様のお腹の中には、ややこが居られます。お大事になさってください」
医者は尚次郎と付き従っていたはな、女中頭や下男頭に細々注意を与えた。
けして体を冷やさないように。暖かい粥や滋養のある柔らかいものを少しずつ与えるように。
また、ふさぎ込ませないように、話し相手になってあげなさい。
「旦那様、しっかりなさいませ。お医者様はお帰りになりますって」
はなに腰をどつかれるまで、尚次郎は放心して突っ立っていた。
ふみの懐妊は直ちに松川家に知らされた。
娘の出奔を聴いて謝罪に来たばかりの、舅の七十郎と義兄の信士郎が、またまた急いでやってきた。
懐妊の時期から見て、どうあっても西堀式部の子である。
しかも尚次郎とふみはまだ共寝をしていないというありさまだから、これは式部の子としか考えられない。
松川家の二人は畳に着きそうなほど頭を下げ、尚次郎に謝罪した。
二人とも知らなかったのだ、ふみが子を宿しているなどとは。
西堀との間には嫁いで何年も子が出来ず、ようやく懐妊したとたんに流産した。
だから多分二人目はないだろうと、根拠なく思っていたのだ。
だが結果的に尚次郎をだまし、母子共々押し付ける形になってしまった。
しかも腹の子の父は斬首刑にあった罪人だ。
本当にすまない。
頭を下げる二人に尚次郎は恐縮した。
二人とも下っ端同心の自分などより、ずっと身分が高いのだ。
「そんな、頭をお上げください。私はちっとも怒ってなどいません。むしろ喜んでいます」
そういう尚次郎は、困惑はしていたが心から嬉しそうだった。
「西堀様のお子ならきっと、賢く美しい子が生まれる事でしょう。あの偉丈夫の忘れ形見です。喜んで育てさせていただきます」
松川家の二人が安堵して帰って行った後、尚次郎は足音を忍ばせて妻の寝室に向かった。
召使女が部屋の外で火箱の火を掻き立てていた。
尚次郎に気付きふみにしらせようとしたが、必要ないからと制した。
妻の様子を見に来ただけで、そっと寝かせておきたかったのだ。
寝室の障子を開けると、妻は目を覚ましていて、はなと他愛もない話をしては小声で笑っていた。
「旦那様」
尚次郎に気付いたはなが席をはずし、部屋の外へ出ると、尚次郎は間の悪さを覚えた。
「すまない。はなと楽しい話をしていたところを」
「いえ、はなの江戸の話を聞いていました。とても大きな町で、旅籠や商家が沢山あるんだって」
小さい頃しか江戸にはいなかったのに、覚えている限り色々と教えてくれるんですよ。
そう答えるふみは、穏やかな顔で横になっていた。
彼女の険しくない、静かな微笑を見るのはどれほど久しぶりだろう。
「あの子はあの子なりに、私や貴女を護ろうと一生懸命なんですよ」
ここに座っていいかと目で訊いた夫に、妻はこくりとうなずいた。
「そして私も、貴女とお腹の子供を守ります。頼りないとお思いでしょうが」
こういうことを言うのは不得手なので……。
言った後でもじもじと困ったような表情浮かべて、照れ笑いする夫に、ふみはくすりと笑った。
「今笑いましたね。西堀様のお子が、あなたを笑わせてくれたのかな」
「そうかも。あのう……」
「はい?」
「遠いですよ。貴方のいらっしゃる位置が」
尚次郎は出て行けと言われたらいつでも出て行けるように、寝室の障子のすぐそばに正座していた。
「あ、傍に寄ってもよろしいのですか?」
「いいですよ」
奇妙な敬語を自分に使い続ける夫に、ふみはまたクスッと笑った。
尚次郎は妻の布団の傍ににじり寄った。
畳に着いた夫の右手に、自分が炭で負わせた火傷のケロイドが残っている。左手には若いころ密猟者に弓で射られた傷。
「手を下さい」
ふみは布団の中から手を伸ばした。
掛け布団の隙間から、すっかり痩せて骨の目立つ襟元が覗けて見えた。
「はいはい」
尚次郎は深く考えず火傷をした右手を差し出した。もうちっとも痛まないので傷の事は忘れているのだ。
ついでに左手でふみの布団を引きずり上げて、襟元に隙のないよう掛けてやり、小さな子にするようにポンポンと叩いた。
ふみの小さな手がそっと尚次郎の手を握る。
「あったかい手ですね」
ふみの手はつららのように冷たかった。
「私の心が冷たいからですよ」
「またそういう事を言う」
「何か召し上がりますか?温かいものでも」
「はい。気分がいいうちに」
ふみは手を握ったまま、幼子のような目で夫を見上げた。
夫は少年の頃のままの、居心地の悪そうな困ったような曖昧な顔をして、妻の眼線を避けている。
「ごめんなさい」
「え?」
「私は貴方をずっと、傷つけていたのだなあと」
「そんなことありませんよ、私だって多くの人を踏みつけて蔑ろにして、今この場にいるんです」
少なくとも私は、貴女に傷つけられたなんて、感じていません。
尚次郎はそう言って、はなに食べ物を持ってこさせるようにと伝えた。
「食事が来たら起こしてあげますから、少しでも寝ていなさい」
「尚次郎殿、私のお母様みたい」
「そうですか?」
ふみは目を閉じた。
自分が多くの人から守られて、手を引かれて、危ないところでは背負ってもらって歩いているのがはっきり見えた。
右手を夫、西堀式部政偵、左手を父のように慕った信仰の親、甘糟右衛門。そしてその周りを、刑場でこの世から旅だっていった多くの仲間たち。
前を行く人の姿は光に包まれている。
眩しくてよく見えないが光は大層暖かく、ついていくのに何も迷いがない、自分達を照らしてくれる光だ。
そして、皆に手を引かれ囲まれて歩く自分の後ろに、背中を見守るように夫・新野尚次郎。
自分が転ばないように足元を注意し、身体を支えて、決して前に出ることなく守ってくれている。
「そうですよ。これから私が母になるのに、この子には二人も母がいることになります」
「じゃあ私は、貴女達母子の衛兵になりましょう。それなら少しは格好がつく」
「いえ」
ふみは夫の手を握り返した。
「この子の、父親になってください。そして私の夫になってください」
「おはな、旦那様にお知らせして。温かい打ち豆汁をお持ちしましたって」
女中が寝室の外に控えているおはなに声をかけた。
両手に汁物と少量の御粥の載った膳を持っている。
シーッ
はなは女中に合図をした。
今旦那様と奥様がお寛ぎなんですからっ