第14話 主は我が牧者・3

文字数 2,851文字

 尚次郎は身分と名前を隠したまま、何度も湯屋に通うようになった。
 信士郎が一緒でなくとも大丈夫だ。
 女の肌への違和感も次第になくなって行った頃には、季節が移り、河原の花もすっかり様相を変えていた。
 桔梗やリンドウの花が青い空のような色を地上に滲ませる頃、尚次郎を迎えたのは一人の痩せこけた、目ばかり大きい湯女だった。
「ひな」と名乗るその若い女はその湯に来て間もないらしく、手つきもたどたどしく会話もうまくない。
 ただ、おどおどとした目つきの奥に潤んだ哀しみを、尚次郎は気にいった。

 湯屋の二階の休憩所は広々としていて、女たちと戯れる侍たちの無礼講の様子が丸見えだった。
 誰も見られることには頓着せず、女たちの交換や仲の良い侍同士が一人の女と戯れたり、それが普通なのだろう。
 だが尚次郎は気になって仕方がない。

「ひなといったな。どこか静かなところはここにはないのか?」
「あのう、お一人お一人用のお部屋は上にございますが、とてもお高いしお相手も人気のある女になります」

 私のような下っ端ではない女が付きます、と慣れぬ風情の湯女「ひな」はこぼれそうな大きな目を向けた。
 フクロウのように大きな澄んだ瞳に分厚い唇。
 だが痩せこけた体は少年のようで胸も薄物の上からでもわかる、何もない貧相なものだ。
 腰も手足も骨ばかり目立ち、吸いつくような柔らかい女の体、というにはほど遠い。
 美しくかわいらしい顔をしているのに人気がないというのは、この体つきの薄さも関係しているのだろうか。
 だが尚次郎はそうした相反する女と少年が同居したような外見の、気弱そうな湯女が心に触れた。

「それは俺には無理だな……とはいえこうした無礼講は俺は苦手だ。お前は?」
「私がどうかとか、考えたこともございません。でも、静かなところは好きです」
「そうか。なら出よう」

 尚次郎は湯女ひなの手首を握って休憩所を出た。
 その手首の細さと骨と筋張った硬さに、彼ははっとした。
 さほど大きくもない自分の手のひらで握ってだいぶ余る、痛々しいほどのか細さだった。

「あのう、この先の角に納戸ならありますが……」
「ならそこでよい」

 納戸とはいえそこは畳んだ布団がやっと入る、ぎりぎりの狭さの部屋だった。
 尚次郎はその狭さに安心した。

「こんないいところがあるではないか。こちらの方がよほど良い」

 思わず笑顔になる尚次郎を、湯女ひなは意外そうな顔で見つめた。
 この方でも笑うんだ、と、女の自分を見る表情がはっきりと驚愕を示していたので。尚次郎は可笑しくなった。
 引き戸から狭い壁際の周りを間を通り、一番奥の角まで来ると二人は文字通り布団の壁に周囲を囲まれ、挟まれる態になった。
 その状況がおかしくて、「ひな」の薄物の中に手を差し入れ、骨ばった体に触れて抱きしめる尚次郎は、自分の体にごつごつと当たる女の骨の感触すらも柔らかく暖かく、初めて女の心身に溺れた。
 自分の体を洗う時はぎこちなく、緊張感でこちらも胃が痛くなりそうだった「ひな」も、尚次郎の手に体をゆだね、抱かれる時は思いもかけないほど情熱的で、それがまた青年を夢中にさせた。
 あまり長い時間はここに居られません、という最初に言った「ひな」の注意はどこかへ飛び、尚次郎は彼女との交わりに時間を忘れた。

 そろそろお時間が……と喘ぎながら切り出したのは女の方だった。

「見つかったら私が折檻を受けます」
「そんなに出入りの多い納戸なのか?」
「いえこの時間は……でも……」
「なら次からは私が場所探そう」

 無理強いをして我儘言って女を窮地に陥れるのは本意ではない。それがたとえ身分の低い湯女相手であっても。
 積み重ねた布団の影で湯帷子の襟元や帯、髷を整えてもらいながら、尚次郎は女を安心させるよう快活に言った。
 何がこんなに自分を積極的にさせるのか分からなかった。
 ただ湯女の幸薄い顔が、先程までの激しい行為の熱でぼうっと上気し、嬉しそうにこくりと頷くのを見るのは嬉しかった。

 尚次郎は足しげく湯屋へ通うようになった。
 そしてそのためにお城勤めの仕事にもより一層励むようになった。
 陰口にも気をとめなくなった。
 思い切って外に出て堂々と歩いてみれば、自分が陰口をたたかれているというのは大半が思い込みで、自分だけが自意識のアリジゴクの中でもがいている、というのが本当だった。
 松川信士郎に町中で出会っても、もう笑顔で声をかけられるようになった。
 親友の美しい顔を見ると相変わらず嫁いだふみの顔が目にちらついたが、あの人ももう幸せなのだからと自分を納得させることもできた。
 両親の耳にも息子の湯屋通いの噂は入っていた。
 湯女に入れあげているというのは問題だが、今はまあいいだろう。
 死にそうに鬱屈した顔で閉じこもっていたつい先日までの尚次郎を考えると、父も母も親族もしばらくは目をつぶろうと考えた。

「おひな、何だかこの頃綺麗になったけど、米沢での暮らしも慣れたの?」

 田んぼの中の武家屋敷にしつらえた祭壇所で、ミサ聖祭の準備をしながらふみは傍らの貧し気な女に語り掛けた。

「ふみ様、そんなことは」
「いえ、なんだか顔が柔らかで安心した感じが」
「ああ、そういう事なら、そうかもしれません。湯屋のお客さんで、若いのにとても優しい方が贔屓にしてくれて」
「よかったわね、おひな」
「こんな卑しい身分の者にそんな言葉…ふみ様もったいない」

 ふみの生活の大きな部分を占めるのは、夫西堀と共に郊外に住む切支丹たちを回り、夫の説教を聞き、共に祈り聖歌を歌う事だ。
 神父のいない米沢の地で西堀とふみの夫婦、そして甘糟の家族たちはまめまめしく働きながら、各地から迫害を逃れて流れて来た信者たちをかくまい、励ましていた。
 湯女のひなもそうした、藩の外から逃れてきた女の一人だった。
 元は下級武士の娘だったが目の前で父と母、兄が捕らえられ、河原で磔にされた。
 彼女だけはとっさの機転で女中が逃がし、身一つで山を越えて米沢に逃げて来たのだ。
 身も心も傷ついたひなが、ほんの少し暖かい時間を過ごすことができるのは、この切支丹たちの分け隔てない暖かな話の中にいるときと、厳しい湯女の生業の中で自分に優しくしてくれる若い侍と会っているときだった。

「天にまします我らが神よ 御名をあがめさせたまえ」

 一同が正座し、西堀の先唱に続いて主の祈りを唱える。
 その朗々とした声が風になって田んぼの穂をそよがせ、山や川面に響く。
 迫害され逃げて来たひなにとっては信じられない事だった。
 神様は私をお見捨てにならなかった。
 彼女は感謝を込め、祭壇のある座敷の一番の下座に座りつつ、一身に祈った。
 あの若いお侍さま、尚次郎さまを、神様お守りください。
 彼女の痩せこけた頬が、ほんの少し熱くなった。
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