第12話 主は我が牧者・1

文字数 2,650文字

 新野尚次郎が密猟者に矢で射かけられ手討ちにしたという事件は、すみやかに人口に膾炙するところとなった。
 山から下りた熱を持った傷に苦しみながら父に報告し、直ちに担当の奉行に連絡が行ったのだ。
 彼は荒れ狂いながらも自分が走ってきた山野、狩人を手打ちにした場所を正しく覚えていたので、奉行配下の者たちは正確に現場に向かうことができた。
 だが彼らがそこで見たものは野犬や狼に食い荒らされ、原形を留めなくなった密猟者の遺体だった。
 持ち物からすぐに身元が割れ、谷あいの小集落に住む、田畑の乏しい貧農の一人であると特定された。
 捕り手たちがあばら家に踏み込むと、日に焼けた節くれだった指の、苦労が容姿ににじみ出たようなくたびれ果てた女房と、垢じみたぼろぼろの着物をまとった幼い子供たちが目を丸くして固まった。
 脇の薪小屋を探すと、上杉家によって狩ることを禁じられていた動物の革、肝、爪や骨がいくつも見つかった。
 上杉家所領である、一般には禁猟の山中での密漁、そして売買。
 家族は牢につながれ女房は厳しい尋問を受けたが、密売の相手は何も知らないと言い張った。
 禁猟区での密漁密売は重罪でありも斬首・晒し首の刑にされるのが決まりである。
 ただしこの密猟者は既に尚次郎の手によって罰を受けているので、あとの問題は家族の処遇であった。
 厳罰を主張する直江兼続の進言に反し、君主上杉景勝は妻子の命は助けよとの命を出した。
 この人はいつもこうだ。
 越後の時代から民の細々とした訴えをよく聞き、温情をかける。
 甘い。それでは第二第三の罪びとを出してしまうだけだ。
 厳しい応酬の後、景勝の意に沿うことにした直江は、ぎりっとほぞを噛んだ。
 新たに切り開いた米沢の町を正しく発展させて行かなければならない。
 直江には重い責任があった。
 そしてそのためには古くからの重臣・家老の志田修理義秀、切支丹ながら人望に篤く下々の暮らしに精通している、側用人の甘糟右衛門らの協力は不可欠なのであった。

 密猟者を斬り殺した若者、新野尚次郎には上からのお咎めはなく、むしろ見舞いの文と品が城内から送られてきた。
 傷を負ったと聞きつけ西堀式部正禎が見舞いに訪れたが、具合がよくないと尚次郎は面会を避けた。
 松川信士郎にはごく短時間だけ会ったが、親友は彼を見抜いていた。
「お前、密猟者を討った等とは方便だろう。自分の荒れた心持を貧しいものにぶつけただけだろう」
 傷の熱が引いて床に横たわる尚次郎を見下ろし、信士郎はさらりと言い放った。
「帰れ。俺は正しすぎる奴は嫌いなんだ」
「ああ今日は帰る。だがふみも心配しているぞ」
 信士郎はいつもこうだ。親友にとどめの一言をさすのを忘れない。
 ふみ、と聞いて尚次郎は初めて自分のしたことを恐れた。
 手討ちにしたこと自体ではない。おのれが荒れ狂った心のままに、平気で人を切り殺せる人間だという事を、ふみに知られるのを恐れたのだ。

 手の甲の傷が癒え始めた後、お城へ出仕できるようになったと同時に、尚次郎の姿は剣の道場でまた見かけられるようになった。
 傷ついた手をまだ白い布で包んだまま右手一本で木刀を操り、弟子たちを次々と容赦なく 打ち倒していく尚次郎は、幼いころから道場主が見慣れた、打ちかかる際に一瞬のためらいを見せる優しく気弱な少年ではなくなっていた。
 荒んだ目つきの野犬のような青年がそこにいた。
 澄んだ冷たい三白眼は殺気に満ちて、対峙するものを心底震え上がらせた。
 勝負が終わってもなお尚次郎の全身から滲み出る狂気は収まらず、同門の者たちも声をかけるのをためらった。
 道を歩けばそこここで、あれが山の者を御手討ちにした青年だぞと、潜めた声が聞こえる。
 慣れ親しんだ界隈はどこに行っても見知った顔ばかり。
 そして自分の事を囁く顔ぶれも同じ。
 彼の荒んだ心は、手の傷と反対に癒える余地がなかった。
 変貌した跡取り息子を心配する母や父は、西堀家へ嫁いだふみへの思慕のくすぶりが尚次郎を突き動かしていると見抜き、なけなしの伝手を頼って縁談をかき集めてきた。
 だが尚次郎は卓を蹴飛ばさんばかりの荒れた態度で、悉く断ってしまった。

「尚次郎、お前暇だろう」
 役所から帰った尚次郎を松川信士郎が訪ねてきての開口一番がこの言葉だ。
 親友ではあるが、こいつは子供の頃から苦手だ。
 この決めつけるような物言いに腹が立つ。
「行くところはないが、読みたい書物はある」
「ああその程度か。明日できることは明日に回せ。一緒に遊女屋に行こう」
 親友はさらりと言い放った。
「遊女屋 ?」
「大町の向こうの川のたもとに、この辺じゃ遊ぶのに一番いい店があると聞いた。お前も家で腐っていないで女を抱いてみろ。何か変わるかもしれないぞ」
 江戸当時の米沢の花街は、商人や細工師が集う大町の交差点の横辺り、それに城から見ると最上川を越えてすぐの、月見の名所とされる川沿いの堤の近く。料亭が並ぶ一角が代表的なものであった。
 だがいずれも、まだ若く出世とは程遠い青年武士には手の届かないところである。
 信士郎が言うのは河原の料亭並びのもう少し上流。
 大きく弧を描いた最上川の奔流が、岸辺の岩々にぶつかって流れを弱めながら渦を巻く、その曲がり角であった。
 地侍である原方衆が住み警戒している地域だが、いつの間にか生活に困り家を出された農家の娘たち、戦火を逃れてきた他所からの流民の娘たちが、吹き溜まりのように集まり、敷居の低い花街を形成していったのだ。
「俺は女はいい。沢山だ」
「なにを言っているんだ。最近のお前は見ておられん。荒んだ顔に野犬のような目をしやがって」
 なにを、と尚次郎は鼻白んだが、何かが変わるかもしれないぞ、という親友の言葉には、妙に心が波立った。
「信士郎は行ったことがあるのか」
「ああ。何度も行っている。お前はたくさんだとか言いながら、まだ女を知らんだろう」
 お前にとっては心に秘めたふみだけなんだろう、と信士郎が言っているのは明白だった。
 図星である尚次郎は反論できない。
「何事も経験だ。今夜迎えに来るぞ」
 妙に自信を持った親友の言葉に、尚次郎は素直にうなずいてしまった。
「ひねたように見えてもお前は変わらないところもある。そのまっすぐな根っこの部分だ。尚次郎」
 信士郎はうなずき返しながら、少し嬉しくなった。
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