第24話 光あるうちに光の道を・2

文字数 3,501文字

 ふみの体が自分一人だけのものになったのは、それから間もなくだった。
 身体が自ずと妊娠に耐えられないと判断したのだろう。
 その日も朝からうつらうつらと寝ていた彼女は、白湯を持ってきた下女の気配を感じたが、眠いのでまたそのまま眠ってしまった。
 自分に声をかけた下女が、ひっと小さな悲鳴を上げ、バタバタと走り出て行った。
 そして下女頭や姑、夫、色んな人が慌てて来たような気がする。
『腰が冷たい…』
 初め生暖かく、次第にひんやりとしてくる濡れた布団の感覚に、気持悪い事だと思いながら、ふみは苦しい眠りと覚醒を繰り返していた。

 はっきりと目が醒めたときは全てが終わっていた。
 ふみのおなかの中の子は下腹部の鈍痛と共に流産してしまっていた。
 それに気づいたとき、ふみは絶叫した。
 なぜ自分の中で守ってあげられなかったのだろう。おなかの中で平和にうとうとと眠っていたであろう赤子を、自分の体は弾きだしてしまった。
 あまりに重いつわりと母体の消耗に身体が妊娠を維持できないと判断した結果の自然流産だったのだが、ふみの絶叫は屋敷の中に狂ったように響いた。
 侍の妻として涙をこらえて毅然と事態を受け入れる、そんなことは彼女にはできない。
 苦痛に身をよじり、全身で赤子と夫と、そして全てに謝り続けた。
 夫の慰めも鎮めようという優しい抱擁も効かなかった。

 夫・西堀式部の上役である甘糟右衛門が夫婦を尋ねてきたのは、それからしばらく経った後である。
 庭でとれたという美しい花と、滋養に効くと言われる河でとれた大きな鯉、蜂蜜の小さな壺、そして木彫りの小さな聖母の像。
 それだけを渡すと甘糟は早々に帰って行った。
 まだまだ病んでいる若い婦人を見舞うのは、たとえ部下の妻とは言え遠慮したのである。
 これらを妻の枕元に持ってきた西堀は、鯉は汁物にすべく料理番の下女に渡し、ほんの少しの蜂蜜は湧かした湯で溶きのばし、妻に飲むよう促した。
 骨と筋ばかりにやせ細ったふみは、夫に支えられてやっとの思いで起き上がると、ふうふう吹いて冷ましてくれた蜂蜜湯を一口飲んだ。
 滋養に満ちた優しい甘さが口の中に拡がる。
 砂糖が一般的でなかったこの時代、甘味はとても貴重な味だった。

「お腹が仰天せぬよう少しずついただきなさい」

 夫の優しい声に、ふみはこくりとうなずいた。
 子供のようなあどけない顔で言われた通り少しずつ蜂蜜湯を飲む表情は、夫も他の家族も久々に目にする穏やかさだった。

「よかった。お前が食べ物を口にしてくれて…」

 ええ。私も。そう頷いて茶碗から顔を離したふみの眼に、自分を抱き支えている夫西堀の掌の中の、小さな聖母の木像が映った。
 それが夫や甘糟たちが信じ崇敬している「イエズス」の母親である「聖なる母・まりあ」であるという事は、ふみも知っていた。
 だが今甘糟が見舞いに持ってきてくれた聖母の木彫りの像は、とても小さいにもかかわらずなんと悲しげな顔をしていることか。

「これは聖母まりあ?」
「そう。悲しみの聖母、十字架にはりつけにされて苦しまれた御子を、足元に佇んで見上げているしかない、御悲しみのお姿だ」

 神の母、と呼ばれていてもそんなにお辛い苦しみを……。
 門前の小僧習わぬ経を読むという。
 自身は信徒ではなかったが、夫の西堀について貧者の長屋を慈善に回ったり、病人の手伝いをする中で、ふみは自然とキリスト教の素養を身に着けていた。

「一番祝福された方でも苦しみからは解放されないのね……」
「イエズスが真の栄光を表すためには人の世で無惨な苦しみを受けなければならない。聖母様はそれを御子が生まれる前から天使に聴いて知っていたのだ」
「どうして甘糟さまはその苦しみの聖母を私に?」
「さてどうしてかな。お前の悲しみを私も一緒に担いたい、この聖母様と一緒に……俺はそう思っている。甘糟様も、お前の悲しみを聖母様に一緒に担っていただきたいのかもしれない」

 さあ、蜜湯がおなかに収まったならまた休みなさい。
 夫は優しく妻を布団に横たえた。

「あの、鯉こくはできたら」
「ん?」
「味噌味がいいと台所番に申し伝えて下さい。塩味より食べられるかもしれない…」

 久々に食べ物のことを言葉にした妻に、夫・西堀は喜んだ。

 ふみを救ったのは言葉ではない。安直な慰めや理にかなった説得でもない。ただ夫が傍にいてくれた事だった。
 そして
 やはり悲しんでいる聖母マリアの存在だった。
 ふみはキリスト教というものに本格的に向き合おうと思った。
 これまでのような、夫や仲間たちの善行にただ共感し従うというより、より一歩踏み込んで「なぜ」「どうして」を知りたいと思ったのだった。
 それは家や周囲で無条件に信仰されている仏の道や神道よりも優しく、己を追い込んで突き詰めるというよりただひたすら愚直に祈り信じればいいというものに思えた。

「それでよいのだ、ふみ。神様と聖母様は、この欠けたところだらけの茶碗のような人間を、いつでも何度裏切られても愛してくださる。そして目を覚ましてご自分の元に飛び込んでくるのを待っているんだよ」

 夫・西堀式部はまだ寝たり起きたりの妻・ふみに焦らずともよい、と穏やかに諭した。
 そして、すっかり体がよくなったら甘糟右衛門の元へ通おうと約束した。

 甘糟は西堀の上役であると同時に米沢藩内の切支丹たちの総指導者であり、西堀自身も甘糟の連れて来た会津若松の同宿の手で洗礼を受けた身である。
 同宿とは文字通り旅をしながら布教活動をする外国人宣教師に宿を貸し、世話をし、地域の信仰活動を支えるベテランの信徒の呼び名だ。
 寺社にも寺男、禰宜と呼ばれる世話役がいるが、切支丹の世界でもその地位に相当するのが同宿で、既に迫害が始まっている国内、宣教師の数は増え続ける信徒に比して圧倒的に少なく、そのために神父が不在の間地域の信仰の中心となるべく神父の権能の一部を託された、いわば代理人であった。
 信徒の洗礼、葬儀、日々の祈り、月ごと日ごとに定められた典礼。それらを神父に代わって取り仕切り、信徒達に教理や祈りを教え導く。
 武士の身分の者の場合も、財力のある平民(多くは古くからの豪農や商家であった) の場合もある。
 米沢の地は積極的にヨーロッパと繋がろうとした伊達家の仙台からも、レオという洗礼名を持つ蒲生氏郷が治めていた会津の力も山々で隔てられ、いわば隔離されていた。
 だがスペイン人やポルトガル人、イタリア人の宣教師や日本人同宿は徒歩で山脈を越え、米沢の地に通った。
 特に会津若松は切支丹大名の蒲生氏に次いで転封前の上杉景勝が治めていたこともあり、繋がりはとても深く、信徒同士の交流も盛んだった。
 イエズス会のジョアン・バブチスタ・ポーロ神父は東北地区担当の熱意溢れる神父で、所属修道会の上長やヴァチカンに向けた親書には東北の切支丹たちの様子がよく描かれている。

 名将上杉景勝が治め剛毅な直江兼続が睨みを利かせる米沢藩には、既に迫害が始まっていた東北の諸藩から多数の信徒が流入し、一時は一万ともいわれる信徒数を誇った。
 それらの切支丹たちが、元々上杉家が篤く保護している仏教の寺院や神社と良好な関係を維持していたというのが、他の地に見られない米沢の特徴でもあった。
 礼拝の場所として寺院の本堂を貸してもらったり、マリア観音や十字架を刻んだ石(イエズスのご聖体の代わりとして信徒達が拝んだ )を置かせてもらったり、また切支丹たちも仏教や神道の年中行事をないがしろにせず進んで協力したりという、宗教の壁を越えた信頼関係を築いていたことである。
 景勝と直江の元にも江戸幕府からの禁教令は度々届いていたが、『我が藩には切支丹は一人もいない』と直江は突っぱね、はぐらかしていた。
 藩内の武士たちの中に広く深く、キリスト教が広まっていたし、中心になって信徒を束ね、布教活動をしているのが藩の上層部の、代々の家来であった。
 何よりも三千人を超える、越後からの転封を耐え抜いた武士とその家族たちを処罰するのは、家臣思いの上杉の気風にあわなかったのだ。
 米沢の地には、江戸の徳川家の企図する「さむらい組織」からは想像もつかないほど上下の関係を超えた活動が許されていたのである。
 だがこののち長きに渡る江戸の政策に従うにつれ、その気風は徐々に失われ組織は硬直していくが、それは当時の人々はまだ与り知らぬことである。
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