第8話 荒野にて叫ぶ者在り・3

文字数 3,008文字

 西堀政偵が生まれたのは1597年。慶長二年。
 折しもその前年はサン・フェリペ号事件をきっかけに豊臣秀吉による禁教令が発せられた年である。
 明けて二月、京都周辺の信徒、宣教師、イエズス会士、フランシスコ会士等それまで切支丹として活動していた人々が、秀吉の命により捕らえられた。
 二十六人が長崎まで徒歩で護送され磔刑に処せられた、後世に言う「日本二十六聖人の殉教」である。
 秀吉の命を受けた石田三成は、当初貿易上の実利面からイエズス会関係者は処刑から除外するべく進言したが果たせず、十代の少年たちを数人含む二十四人、次いで道中加わって自分たちも磔に、と願い出た者たち二人を加えた二十六人が、長崎の西坂の上で四千人の群衆の前、磔柱に着けられ、槍で刺し殺された。
 西堀式部政偵が生まれたのはそんな『きっかけ』となる年であった。
 翌1598年、秀吉はこの世に未練を残し、まだ幼い息子秀頼のことを心配しながら死んだ。
 イエズス会と並び海外布教に熱心な、フランシスコ会のルイス・ソテロ神父がフィリピン総督の書状を携えて日本にやってきたのは、五年後の1603年、慶長八年のことだった。
 はじめは老いた秀吉のように過酷ではなかった家康、秀忠の父子は親書を携えてきたルイス・ソテロに謁見した。
 客人として丁重な扱いを受けたソテロ神父は、早速日本での旺盛な布教活動を開始した。
 セビリヤ生まれのソテロは神父としてフィリピンにいた三年間に、マニラ近郊で日本人切支丹から日本語を学び、布教には不自由しないほどの日本語力を身に着けていた。
 来日の5年後、1609年、慶長14年には日本近海で座礁難破した船に乗っていた前フィリピン提督のドン・ロドリーゴの通訳を務め、帰国の手伝い、船や人足のあっせんなどに功を立てた。
 このときであろうか。仙台藩主・伊達政宗の知己を得、東北の伊達領内でのキリスト教の布教と援助を許された。
 幼い新野尚次郎、松川信士郎、ふみ、そして十二歳の少年西堀政偵が米沢の地で元気に過ごしていた時、雪山に抱かれた上杉藩の周囲ではこのように世界が動いていたのである。

 米沢・上杉藩で藩主のお側用人として重用される甘糟右衛門信綱が、どこでどのようにキリスト教と出会ったのか、はっきりとした文書はない。
 ただ藩主上杉景勝の供として江戸詰めをしていた時分キリスト教を知り、ルイス・ソテロ神父の教えを受けたという事である。
 そして1610年ないし1613年に霊父・ソテロ神父の名、ルイスという霊名をいただき洗礼を受けた。
 その甘糟の尽力も当然あったのであろう、ルイス・ソテロ神父が伊達の治める仙台、そして景勝の米沢を訪れ藩主の知遇を得たのは1611年である。
 スペインで学んでいたころより日本での布教を強く願っていた神父にとって、まさに最高の信仰生活であったろう。
 だが至福の時が長くは続かないのは、大いなる目的に生きる聖職者とて同じである。
 翌1612年、徳川家康は突如切支丹・伴天連の大追放令を出した。
 上杉景勝にお側用人として仕える甘糟右衛門信綱がソテロ神父と江戸で出会い、キリスト教の教えを受けたのはちょうどそのころである。

 ルイス甘糟信綱右衛門は、越後上杉家の時代からの武将、甘糟景継の次男として生まれた。
 父の景継は主君景勝の命により越後の護摩堂城、五泉城の城主を務めた上杉二十五将の一人である。
 1593年には庄内酒田城の城代となり、五年後主君景勝が豊臣秀吉から会津への移封を命じられた際は、対徳川家康の会津攻めに対する守りの要、白石城の城代を命じられ、二万石扶持にまでとりたてられている。
 次男右衛門信綱の出生や年齢ははっきりとはわかっていないが、1610年前後に景勝について江戸に行ったという記述があるので、そのころ元服を済ませていたとすると、少なくとも父景継の白石城代時代には生まれていたと考えられる。
 だが甘糟家の栄光もまもなく急激に傾く。
 1600年、伊達政宗が景継不在の隙を突いたのである。
 主君上杉景勝の呼び出しに応じ、城代の甘糟景継が白石城を離れ会津に参内している間のことであった。
 7月24日、白石城は伊達政宗の軍勢の手に落ちた。
 直ちに切腹などの処罰を命じられる事はなかったが、1601年、上杉家が徳川家康より米沢に転封され、会津120万石より30万石に石高を減らされた際、かつて2万石扶持だった甘糟景継も6600石に減石されている。
 石高を減らされはしたが甘糟家は上級の家臣であり、景継は君主上杉景勝の側近として忠実に仕えた。
 上杉家は受難続きであった。
 1601年の転封の年には、将軍徳川秀忠より江戸桜田門の石垣工事を命じられ、石高四分の一減という財政をさらに逼迫させた。
 その際にも甘糟景継が普請の頭取を務め、その働きにより徳川将軍家から記念の品を賜っている。
 米沢藩内の同心や与力を統括する役目を担っており、藩内侍組の順位筆頭の身分であったと上杉家文書には記されている。
 ただし、白石城落城に相前後して正室と死別している景継に、米沢や江戸での日々はどう映っていたのだろうか。
 少なくとも四人の男子に恵まれたとの記録があるが、景継は突然自ら死を選んだ。
 1611年慶長十六年の春、雪深い米沢の地が一斉に木々、大地に花が咲き乱れる遅い春の日である。
 五月十二日、上杉景勝の忠臣・甘糟景継は自害をして果てた。
 甘糟家6600石は取り潰しにあったと記録にはあるが、次男である甘糟右衛門信綱は既に景勝公のお側近くに仕える身となっていた。
 右衛門が父景継の訃報を聞いたのは、もしかしたら江戸詰めの間かもしれない。
 戦国を生きた父の死が、右衛門に人の命の儚さを考えさせまたキリスト教に向かわせたのか、それは誰にもわからない。

 江戸でルイス・ソテロ神父から洗礼を受けた右衛門は、米沢に帰ると精力的に藩内での布教を始めた。
 1611年という年は甘糟家の次男、右衛門にとって忘れがたい年となった。
 父の切腹に引き続き妻も病を得て夭折。彼の元には二人の幼い息子たちが残された。
 また江戸で洗礼を授けてくれたソテロ神父が、当時キリスト教に寛容で外国人宣教師の北国への中継地点となっていた会津若松から、伊達政宗の仙台に布教の旅に出たのである。
 ソテロは現在の福島県北部である檜原湖から吾妻連峰を経て米沢経由で仙台に向かうルートを選んだ。
 米沢の地では甘糟右衛門らがソテロ神父を迎えた。
 そしてキリスト教への寛容な姿勢で鳴らした上杉景勝も、藩内での布教を黙認した。
 徳川家からの禁教令にも「当領内には一人のキリシタンも御座無く候」と断固として突っぱねた景勝である。
 もともと篤く仏教を信じる上杉の家風であったが、景勝はキリスト教の迫害よりも苦労を共にした家臣たちや領民たちを大事にした。
 1619年に死去する直江兼続とてその思いは同じであった。
 二度に渡る転封・減石を耐え忍び、新たな土地を開墾し、暴れ川である最上川、松川を治水工事でおさめ、実り豊かな水田にしてきた足軽、半農半武の原方衆と呼ばれる下級家臣団。
 石高が四分の一になっても臨時雇いの浪人以外は一人も放逐しない。「人」こそが上杉藩の財産であった。
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